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誰かに何かを伝えるための文章は、書いた内容を相手が理解出来てこそ意味があります。読み手に「読みにくい」「意味がわからない」と思われないように、何を意識してわかりやすい文章を作るかが重要です。 長い文章を読むのは大変です。文は出来るだけ短く、主語と述語を近づけると分かりやすくなります。文の長さについては、厳密な決まりはありません。文章の内容次第です。多くの場合、文章は60文字以内に収めるとよいでしょう。 また、「が」で結ばれた長い文章は読みにくくなってしまいます。「が、」を見たら、間に句読点を入れたほうがいいかもしれません。これを専門用語では、冗長表現といいます。 冗長表現は、このほか「という」「こと」「することが出来る」とかがあります。 読点「、」は意味の変化を表し、文章を分かりやすくします。文中の「、」はどこに入れるべきか、明確な決まりはありません。文のリズムやテンポ、話し手の好みによって、「、」の位置は様々です。しかし、一般的には次のような使い分けをすればよいでしょう。 〈基本的な読点の打ち方〉 彼女は黙ってコーヒーを飲む恋人の口元を見つめていました。 上の文章は、2通りの読み方が出来ます。それぞれどのような意味だと考えられますか? いろいろな意味に取れるような文章は、読者に意味が伝わらないので避けましょう。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E8%A1%A8%E7%8F%BE/%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%82%84%E3%81%99%E3%81%84%E6%96%87%E3%82%92%E6%9B%B8%E3%81%8F
言いたい内容を書きます。書かれたものを読めば、自分の言いたい内容が理解出来ます。これが、誰かと話すために書く時の基本です。ここでは、絵や写真を使って、相手に伝わるように書く練習をしてみましょう。 重要な部分を省かずに文章を書く場合、読み手の立場に立って、確実に伝えたい内容を書きましょう。 説明する順番を考えるのも大切です。説明する時は、以下のルールに気をつけましょう。 部分→全体(詳細)→抽象的→現実 形について話すのに、「円」や「四角」といった名前を使ったり、それらがどのように組み合わされているかを説明したりする必要はありません。また、比喩を使うのも良いでしょう。「ソフトクリームのような」「鉛筆のような」などがその例です。 この方法は、あまり正確ではありませんが、全体の感じを分かりやすく表現するにはよい方法です。また、比喩を使って全体像を示し、その後で細部をより詳しく説明すると良いでしょう。 実際に書き始める前に、書きたい内容と書かなきゃいけない内容をざっとまとめておきましょう。5W1H(いつ、どこで、誰が、なぜ、何を、どのように)などの重要な情報を整理します。重要な情報を漏らさないようにするためには、箇条書きで素早く書くとよいでしょう。 例えば、上の写真をもとに文章を書こうと思ったら、次のような内容を考えてみるとよいでしょう。 【メモの項目例】 文書が長い場合、読者が理解しやすいように段落を分けて書くとよいでしょう。各段落が1つのトピックをカバーするように書くとよいでしょう。 上の写真を参考に文章を書く場合、次のような段落構成にするとよいでしょう。 第1段落:どのような写真ですか? 第2段落:感想
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E8%A1%A8%E7%8F%BE/%E7%B5%B5%E3%82%84%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%A6%E6%9B%B8%E3%81%8F
何を思い、何を感じ、何を好み、何を好まないのかを記入するのは感想です。賛成なのか反対なのか、問いかけに対してどのように答えるのかなど、理由がはっきりすれば意見となります。 小論文を書く時、自分の意見を上手く伝えなければなりません。 ★構成メモ
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E8%A1%A8%E7%8F%BE/%E5%B0%8F%E8%AB%96%E6%96%87%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B
『土佐日記』(とさにっき)とは、紀貫之(きの つらゆき)によって平安時代に書かれた日記。 この時代、平仮名(ひらがな)や万葉仮名などの仮名(かな)は女が使うものとされていたが、作者の紀貫之は男だが、女のふりをして『土佐日記』を書いた。 日記の内容は私的な感想などであり、べつに公的な報告・記録などでは無い。 『土佐日記』は日本初の仮名文日記である。 紀貫之は公務で、土佐(とさ、現在の高知県)に 地方官として、国司(こくし)として 赴任(ふにん)しており、土佐守(とさのかみ)としての仕事をしていた。その任が終わり、その帰り道での旅の、五十五日間の日記である。 この時代の公文書などは漢文で書かれており、男も漢文を使うものとされていた。そして日記は、男が、公務などについての、その日の記録を、漢文で書いたのが日記だとされていた。 しかし、土佐日記では、その慣例をやぶり、ひらがなで、著者が女を装い、私的な感情を書いた。このように日記で私的な感情を表現するのは、当時としては異例である。 この『土佐日記』によって、私的な日記によって文学的な表現活動をするという文化が起こり、のちの時代の日記文学および女流文学に、大きな影響を与えた。そして今で言う「日記文学」というようなジャンルが、土佐日記によって起こり始めた。 (『土佐日記』はタイトルには「日記」とつくが、しかし現代の観点で見れば、『土佐日記』は後日に日記風の文体で書いた紀行文であろう。しかし、ふつう古典文学の『土佐日記』や『蜻蛉日記』(かげろうにっき)、『和泉式部日記』(いずみしきぶにっき)、『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)、『更級日記』(さらしなにっき)など、古典での「○○日記」などは、日記文学として扱うのが普通である。) とくに冒頭の「門出」(かどで)が重要である。 「忘れ貝」と「帰京」は、その次ぐらいに重要である。とりあえず読者は、順番どおりに読めば、問題ないだろう。 著者の紀貫之は男だが、女のふりをして冒頭文を書いた。船旅になるが、まだ初日の12月21日は船に乗ってない。 女である私も日記を書いてみよう。 ある人(紀貫之)が国司の任期を終え、後任の者への引継ぎも終わり、ある人(紀貫之)は帰りの旅立ちのために土佐の官舎を発った日が12月21日の夜だった。そして。ある人は船着場へ移り、見送りの人たちによる送別のため、皆で大騒ぎをしているうちに夜が更けた。 (まだ船には乗ってない。) 男もすなる日記(にき)といふ(イウ)ものを、女もしてみむ(ミン)とて、するなり。 それの年の十二月(しはす、シワス)の二十日余り一日(ひとひ)の日の戌(いぬ)の刻(とき)に、門出す。そのよし、いささかに物に書きつく。 ある人、県(あがた)の四年(よとせ)五年(いつとせ)果てて、例の事(こと)どもみなし終へて(オエテ)、解由(げゆ)など取りて、住む館(たち)より出でて、船に乗るべき所へ渡る。かれこれ、知る知らぬ、送りす。年ごろ、よくくらべつる人々なむ(ナン)、別れ難く思ひて(オモイテ)、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに、夜更けぬ。 男もするという日記というものを、女も書いてみようとして書くのである。 ある年の十二月の二十一日の午後八時頃に、(土佐から)出発する。その時の様子を、少しばかり、もの(=紙)に書き付ける。 ある人が(=紀貫之)、国司の(任期の)4年・5年間を終えて、(国司交代などの)通例の事務なども終えて、解由状(げゆじょう)などを(新任者から紀貫之が)受け取って、住んでいた官舎(かんしゃ)から(紀貫之は)出て、(紀貫之は)船に乗る予定の所へ移る。 (見送りの人は)あの人この人、知っている人知らない人、(などが、私を)見送ってくれる。 長年、親しく交際してきた人が、ことさら別れがつらく思って、一日中、あれこれと世話をして、大騒ぎしているうちに、夜が更けてしまった。 ※ 男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとて、するなり。 - とても有名な冒頭文なので、読者は、そのまま覚えてしまっても良い。 単語 「わたる」(「住む館(たち)より出でて、船に乗るべき所へ渡る」の文):「わたる」(渡る)はここでは「行く」の意味。古語の「わたる」には、「行く」のほかにも「時間をすごす」や「生計を立てる」、(草花や霧などが)「一面に広がる」など、さまざまな意味がある。 「よし」(「よし」の漢字は「由」): 多義語であり、1.方法、 2.由緒、 3.様子・旨、 といった意味がある。この場面では旨の意味。もとの文の意味は「その旨を、少しばかりものに書きつける。」の意味。 なお関連語として、形容詞「よしなし」は、「理由がない」「方法がない」、「つまらない」という意味である。 「果てて」(はてて): ここでは、「果てて」とは「終わって」の意味。なお、単語集で調べるときは「果つ」(はつ)で調べる。 ※ なお、枕草子の「春はあけぼの」の「日入り果てて、風の音、草の音など、はた言うべきにもあらず」の果てての意味は、「すっかり」の意味。上記の「終わる」とは、やや意味が違う。つまり、「日入り果てて」は「日がすっかり沈んでしまって」という意味。 ※ 「果つ」を掲載している単語集が少ない。三省堂『古文単語300PLUS』なら掲載されている。 22日、船旅の安全を祈る儀式をする。この日、「藤原のときざね」(人名?)が送別の宴(うたげ)を開いてくれた。 23日、「八木のやすのり」が餞別をくれた。 この人たちのおかげで人情の厚さを思い知らさた。いっぽう、関係が深かったのに送別も餞別もしない人たちの人情の薄さを思い知らされた。 24日、国分寺の僧侶も送別をしてくれた。宴で、身分に関わらず酔い、子供までも酔いしれた。 二十二日(はつかあまりふつか)に、和泉(いづみ、イズミ)の国までと、平らかに願(ぐわん、ガン)立つ。藤原(ふぢはら、フジワラ)のときざね、船路(ふなぢ、フナジ)なれど、馬(むま)のはなむけす。上中下(かみなかしも)、酔(ゑ)ひ飽きて(エイアキテ)、いとあやしく、潮海(しほうみ、シオウミ)のほとりにて、あざれ合へり(アザレアエリ)。 二十三日(はつかあまりみか)。八木(やぎ)のやすのりといふ人あり。この人、国に必ずしも言ひ(いい)使ふ(つかう)者にもあらざなり。これぞ、たがはしきやうにて、馬(むま)のはなむけしたる。守柄(かみがら)にやあらむ、国人(くにひと)の心の常として「今は。」とて見えざなるを、心ある者(もの)は、恥ぢずきになむ来(き)ける。これは、物によりて褒むる(ひむる)にしもあらず。 二十四日(はつかあまりよか)。講師(かうじ)、馬(むま)のはなむけしに出でませり。ありとある上下(かみしも)、童(わらは、ワラワ)まで酔ひ痴しれて(しれて)、一文字(いちもんじ)をだに知らぬ者(もの)、しが足は十文字(ともじ、じゅうもんじ)に踏みてぞ遊ぶ。 二十二日に、和泉(いづみ)の国まで無事であるようにと、祈願する。藤原のときざねが、船旅だけれど、馬のはなむけ(=送別の宴)をする。身分の高い者も低い者も、(皆、)酔っ払って、不思議なことに、潮海のそばで、ふざけあっている。 二十三日。「八木(やぎ)のやすのり」という人がいる。この人は国司の役所で、必ずしも召し使っている者ではないようだ。(なんと、)この人が(=八木)、立派なようすで、餞別(せんべつ)をしてくれた。(この出来事の理由は、)国司(=紀貫之)の人柄(の良さ)であろうか。(そのとおり、紀貫之の人柄のおかげである。) 任国の人の人情の常としては、「今は(関係ない)。」と思って見送りに来ないようだが、(しかし、八木のように)人情や道理をわきまえている者は人目を気にせず、やってくることだよ。これは、(けっして)贈り物を貰ったから褒めるのではない。 二十四日。国分寺の僧侶が、餞別をしに、おいでになった。そこに居合わせた人々は、身分の高い者・低い者だけでなく、子供までも酔っぱらって、(漢字の)「一」の文字さえ知らない(無学の)者が、(ふらついて、)その足を「十」の字に踏んで遊んでいる。 男 も(係助詞) す(サ変・終止) なる(助動詞・伝聞・連体) 日記 と(格助詞) いふ(四段・連体) もの を(格助詞)、女 も(係助) し て(接続助詞) み(上一段・未然) む(助動詞・意志・終止) とて(格助)、 する(サ変・連体) なり(助動・断定・終止)。 それ の(格助) 年 の(格助) 十二月 の(格助) 二十日余り一日 の(格助) 日 の(格助) 戌の刻 に(格助) 、 門出す(サ変・終止。 そ(代名詞) の(格助) よし、いささかに(ナリ・連用) 物 に(格助) 書きつく(下二段・終止)。 ある(連体詞) 人、 県 の(格助) 四年五年 果て(下二段・連用) て(接助)、例 の(格助) 事ども みな(副詞) し終へ(下二段・連用) て(接続助詞)、解由 など(副助詞) 取り(四段・連用) て(接続助詞)、 住む(四段・連体) 館 より(格助) 出で(下二段・連用) て(接続助詞)、 船 に(格助) 乗る(四段・終止) べき(助動詞・当然・連体) 所 へ(格助) 渡る(四段・終止)。 かれこれ(連語)、 知る(四・連体) 知ら(四・未然) ぬ(助動詞「ず」・打消し・連体)、 送りす(サ変・終止)。 年ごろ、 よく(ク活用・連用) くらべ(下二段・連用) つる(助動詞・完了・連体) 人々 なむ(係助詞)、 別れ難く(ク活用・連用) 思ひ(四段・連用) て(接続助詞)、日 しきりに(副詞) とかく(副詞) し(サ変・連用) つつ(接続助詞)、 ののしる(四段・連体) うち に(格助)、 夜 更け(下二段) ぬ(助動詞・完了・終止)。 二十二日(はつかあまりふつか) に(格助)、 和泉の国 まで(副助詞) と(格助詞)、 平らかに(ナリ・連用) 願 立つ(下二段・終止)。 藤原(ふぢはら、フジワラ)のときざね、 船路 なれ(助動詞・断定・已然) ど(接続助詞)、 馬(むま)のはなむけ す(サ変・終止)。 上中下(かみなかしも)、酔ひ飽き(四段・連用) て(接助)、いと(副) あやしく(シク・連用)、 潮海 の(格助) ほとり にて(格助)、 あざれ合へ(四段・已然) り(助動詞・完了・已然) 。 二十三日。 八木(やぎ)のやすのり と(格助) いふ(四段・連体) 人 あり(ラ変・終止) 。 こ(代名詞) の(格助) 人、 国 に(格助) 必ずしも(副詞) 言ひ使ふ(四段・連体) 者 に(助動詞・断定・連用) も(係り助詞) あら(ラ変・未然) ざ(助動・打消・体、音便) なり(助動・推量・終止)。 これ(代名詞) ぞ(係り助詞、係り) 、たがはしき(シク・連体) やう に(助動・断定・用) て(接助)、 馬(むま)のはなむけ し(サ変・連用) たる(助動・完了・連体、結び)。 守柄(かみがら) に(助動・断定・連用) や(係助詞、係り) あら(補助動詞・ラ変・未然) む(助動・推量・連体、結び)、 国人(くにひと) の(格助) 心 の(格助) 常 と(格助) して(接助) 「今 は(係助詞)。」 とて(格助) 見え(下二段・未然) ざ(助動詞・打消し・連体、音便) なる(助動詞・推定・連体) を(格助) 、 心 ある(ラ変・連体) 者 は(係り助詞) 、恥ぢ(紙二段・未然) ず(助動詞・打消し・連用) に(格助) なむ(係り助詞・係り) 来(カ変・連用) ける(助動詞・詠嘆・連体、結び)。 これ(代名詞) は(係り助詞)、 物 に(格助) より(四段・連用) て(接助) 褒むる(下二段・未然) に(助動詞・断定・連用) しも(副助詞) あら(補助動詞・ラ変・未然) ず(助動詞・打消し・終止)。 二十四日(はつかあまりよか)。 講師(かうじ)、 馬(むま)のはなむけ し(サ変・連用) に(格助) 出で(下二・連用) ませ(補助尊敬・四段・已然) り(助動詞・完了・終止)。 あり(ラ変・連用) と(格助詞) ある(ラ変・連用) 上下(かみしも)、童(わらは、ワラワ) まで(副助詞) 酔ひ痴しれ(下二段・連用) て(接助) 、一文字(いちもんじ) を(格助) だに(副助詞) 知ら(四段・未然) ぬ(助動詞「ず」・打消し・連体)  者、しが足 は(係り助詞) 十文字 に(格助) 踏み て(接助) ぞ(係り助詞、係り) 遊ぶ(四段・連体、結び) 。 四日(よか)。楫取り(かぢとり)、「今日、風雲(かぜくも)の気色(けしき)はなはだ悪し(あし)。」と言ひて、船出ださず(ふねいださず)なりぬ。しかれども、ひねもすに波風立たず。この楫取りは、日もえ測らぬ(はからぬ)かたゐなりけり。 四日。船頭が、「今日、風と雲の様子が、ひどく悪い。」と言って、船を出さずになった。であるけれど、一日中、波風が立たなかった。この船頭は天気も予測できない愚か者であったよ。 この泊(とまり)の浜には、くさぐさのうるはしき貝・石など多かり。かかれば、ただ昔の人をのみ恋ひつつ、船なる人の詠(よ)める、 と言へれば、ある人の耐へずして、船の心やりに詠める、 となむ言へる。女子(おんなご)のためには、親幼くなりぬべし。「玉ならずもありけむを。」と、人言はむや。されども、「死じ子、顔よかりき。」と言ふやうもあり。 この泊(とまり)の浜には、いろいろな美しい貝・石などが多くある。こうなので、ただ亡くなった人(紀貫之の娘)ばかりを恋しがって、船の中にいる人(紀貫之の妻)が歌を詠んだ、 と言ったところ、ある人(紀貫之)がこらえられなくなって、船旅の気晴らしに詠んだ、 と言ったのだった。(亡くなった)女の子のためには、親は幼子のように(おろかに)なってしまうのにちがいない。「玉というほどでは、ないだろう。」と人は言うだろうか。けれども、「死んだ子は顔立ちが良かった。」と言うこともある。 なほ同じ所に日を経ることを嘆きて、ある女の詠める歌、 やはり、同じ場所で日を過ごすことを嘆いて、ある女の詠んだ歌、 この「忘れ貝」の章で「船なる人」と「ある人」との和歌のやり取りがあるが、他の章などの記述では「ある人」の正体が紀貫之だという場合が多く、そのため、この「忘れ貝」の章に登場する「ある人」も紀貫之だろうと考えられている。もっとも、あくまで現代の学者たちの仮説なので、もしかしたら妻と夫は逆かもしれないし、あるいは両方の和歌とも紀貫之の和歌かもしれない。 とりあえず読者の高校生は、作中での「船なる人」と「ある人」とは夫婦であって、そして、この夫婦は任地の土佐で娘を亡くしていることを理解すればよい。 夜ふけて来れば、所々(ところどころ)も見えず。京に入り(いり)立ちてうれし。家に至りて、門(かど)に入るに、月明かければ(あかければ)、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりもまして、言ふ効(かひ)なくぞ毀れ(こぼれ)破れたる。家に預けたりつる人の心も、荒れたるなりけり。中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みて預かれるなり。さるは、便りごとに物も絶えず得させたり。今宵(こよひ、コヨイ)、「かかること。」と、声高(こわだか)にものも言はせず。いとは辛く(つらく)見ゆれど、心ざしはせむとす。 夜がふけてきたので、あちらこちらも見えない。京に入っていくので、うれしい。(私の)家に着いて、門に入ると、月があかるいので、とてもよく様子が見える。(うわさに)聞いていたよりもさらに、話にならないほど、(家が)壊れ痛んでいる。家(の管理)を預けていた(隣の家の)人の心も、すさんでいるのであったよ。(私の家と隣の家との間に)中垣こそあるけれど、一軒家のようなので(と言って)、(相手の隣家のほうから)望んで預かったのだ。(なのに、ひどい管理であったよ。)そうではあるが、ついでがあるたびに(= 誰かが京に行くついでに隣家へ贈り物を届けさせた)、(土佐からの)贈り物を(送って、相手に)受け取らせた。(しかし、けっして)今夜は「こんな(=荒れて、ひどい)こと。」とは(家来などには)大声で言わせない。たいそう、(預かった人が)ひどいとは思うけど、お礼はしようと思う。 読解 「たより」(頼り、便り):古語の「たより」は、多義語であり、「1.信頼できるもの 2.ついで・機会 3.音信・手紙」現代語と同じような意味の「信頼できるもの」というような用法もあるが、しかしこの場面では別の意味。この場面では、「機会」「ついで」の意味。 「言う効(かい)なし」: ここでの「言う効なし」は「言う甲斐なし」のような意味で、「言いようがない」のような意味。 だが、江戸時代の本居宣長の随筆『玉勝間』では、「つまらない」「価値がない」のような意味で「言うかいなし」と使っている用法もある。『玉勝間』では「よきあしきをいはず、ひたぶらにふるきをまもるは、学問の道には、いふかひなきわざなり」とある。「良し悪しを言わず、ひたすら古い説を守るのは、学問の道としては、つまらないものである」のような意味。 荒れはてた庭に新しい小松が育ち始めている。出迎えの子供の様子を見て、土佐で無くなった娘を思い出し、自分の心を分かってくれる人とひそかに歌を交わした。 忘れがたいことが多く、とても日記には書き尽くすことは出来ない。ともかく、こんな紙は早く破り捨ててしまおう。 さて、池めいて窪まり(くぼまり)、水つける所あり。ほとりに松もありき。五年(いつとせ)六年(むとせ)のうちに、千年(ちとせ)や過ぎにけむ、片方(かたへ)はなくなりにけり。いま生ひたるぞ(おいたるぞ)交じれる。大方(おおかた)のみな荒れにたれば、「あはれ。」とぞ人々言ふ。思ひ出でぬ(いでぬ)ことなく、思ひ恋しきがうちに、この家にて生まれし女子(おむなご)の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。船人(ふなびと)も、皆(みな)、子たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきに堪へずして、ひそかに心知れる人と言へりける歌、 とぞ言へる。なほ飽かずやあらむ、また、かくなむ。   忘れがたく、口惜しき(くちをしき)こと多かれど、え尽くさず。とまれかうまれ、疾く(とく)破りてむ(やりてむ)。 さて、池のようにくぼんで、水がたまっている所がある。そばに松もあった。(土佐に赴任してた)五年・六年の間に、(まるで)千年も過ぎてしまったのだろうか、(松の)半分は無くなっていた。(← 皮肉。松の寿命は千年と言われてた。) 新しく生えたのが混じっている。 だいたいが、すっかり荒れてしまっているので、「ああ(ひどい)。」と人々が言う。思い出さないことは無く(= つまり、思い出すことがある)、恋しく思うことの中でも、(とくに)この家で生まれた女の子(= 土佐で亡くした娘)が、土佐から一緒には帰らないので、どんなに悲しいことか。(=とても悲しい。) (一緒に帰京した)乗船者は、みんな、子供が集まって大騒ぎしている。こうしているうちに、(やはり?、なおさら?、※ 訳に諸説あり)悲しいのに耐えられず、ひっそりと気心の知れた仲間(= 紀貫之の妻か?)と言った歌、 と言った。 それでも/やはり(※ 訳に諸説あり)、満足できないのであろうか、またこのように(歌を詠んだ)。 忘れがたく、残念なことが多いけど、書きつくすことが出来ない。ともかく、(こんな日記は)すぐに破ってしまおう。 「もがな」: 土佐日記には、上記とは他の文章だが「いかで疾く(とく)京へもがな。」という文章がある。「どのようにかして、早く京都に帰りたいなあ。」という意味である。「もがな」は「したいなあ」「が欲しいなあ」の意味の終助詞である。 徒然草にも、「心あらむ友もがなと、都恋しうおぼゆれ。 」とあり、「情趣を解する友人がいたらなあ、と都が恋しく思われる。 」のように訳す。 また、「いかで」~「もがな」や「いかにも」~「もがな」のように、「もがな」は「いかで」などに呼応する。 『更級(さらしな)日記』に、「幼き人々を、いかにもいかにも、わがあらむ世に見置くこともがな。」とある。「幼い子供たちを、何とかして何とかして、自分が生きているうちに見届けておきたいものだなあ。」のような意味。 さて、百人一首に「名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」という和歌がある(後撰和歌集)。この歌の後半部の「人に知られで くるよしもがな」も、「人に知られないで来る方法があればいいのになあ。」という意味である。 夜ふけて来れば、所々も見えず。京 に(格助) 入り立ち(四・用) て(接助) うれし(シク・終)。 家 に(格助) 至り(四・用) て(接助)、 門 に(格助) 入る(四・体) に(接助)、 月 明かけれ(ク・已然) ば(接助)、 いと(副詞) よく(ク・用) ありさま 見ゆ(下二段・終)。 聞き(四段・用) し(助動詞・過・体) より も(係助) まし(四・用) て(接助)、 言ふ効なく(ク・用) ぞ(係助、係り) 毀れ(下二・用) 破れ(下二・用) たる(助動・完・連体、結び)。 家 に(格助) 預け(下二・用) たり(助動・完了・用) つる(助動・完・体) 人 の(格助) 心 も(係助) 、 荒れ(下二・用) たる(助動・完・体) なり(助動・断定・用) けり(助動・詠嘆・終)。 中垣 こそ(係助、係り) あれ(ラ変・已然、結び)、一つ家 の(格助) やうなれ(助動・比況・已然) ば(接助)、望み(四・用) て(接助) 預かれ(四・已然) る(助動・完了・体) なり助動・断定・終)。 さるは(接続詞)、便りごと に(格助) 物 も(係助) 絶えず(副詞) 得(下二段・未然) させ(助動・使役・用) たり(助動・完了・終止)。 今宵、「かかる(ラ変・体) こと。」 と(格助)、声高に(ナリ・用) もの も(係助) 言は(四・未) せ(助動・使役・未) ず(助動・打消し・終)。 いと(副詞) は(係助) つらく(ク・用) 見ゆれ(下二・已然) ど(接助)、心ざし は(係助) せ(サ変・未然) む(助動・意志・終) と(格助) す(サ変・終止)。 さて(接続詞) 、池めい(四段・用、音便) て(接助) 窪まり(四段・用)、水つけ(四・已然) る(助動・存続・体) 所 あり(ラ変・終止)。 ほとり に(格助) 松 も(係助) あり(ラ変・用) き(助動・過・終)。 五年六年 の(格助) うち に(格助)、千年 や(係助、係り) 過ぎ(上二段・用) に(助動・完了・連用) けむ(助動・過去推量・連体)、かたへ は(係助) なく(ク・用) なり(四・用) に(助動・完・用) けり(助動・過・終)。 いま(副詞) 生ひ(上二段・用意) たる(助動・完・体) ぞ(係助、係り) 交じれ(四段・已然) る(助動・存続・体、結び)。 大方 の(格助) みな(副詞) 荒れ(下二段・用) に(助動・完了・用) たれ(助動・完了・已然) ば(接助)、「あはれ(感嘆詞)。」 と(格助) ぞ(係助、係り) 人々 言ふ(四段・連体、結び)。 思ひ出で(下二・未然) ぬ(助動・打消し・体) こと なく(ク・用)、 思ひ恋しき(シク・体) が(格助) うち に(格助)、 こ(代) の(格助) 家 にて(格助) 生まれ(下二段・用) し(助動詞・過去・連体) 女子 の(格助) 、もろともに(副詞) 帰らね() ば(接助) 、 いかが(副詞) は(係助) 悲しき(シク・体)。 船人 も(係助) 、皆、 子 たかり() て(接助) ののしる()。 かかる(ラ変・連体) うち に(格助)、 なほ(副詞) 悲しき(シク・連体) に(格助) 堪へ(下二段・未然) ず(助動・未) して(接助)、 ひそかに(ナリ・用) 心 知れ(四・已) る(助動・存続・連体) 人 と(格助) 言へ(四・已) り(助動・完了・用) ける(助動・過去・連体) 歌、 と(格助) ぞ(係助、係り) 言へ(四段・已然) る(助動・完了・体、結び)。 なほ(副) 飽か(四段・未然) ず(助動詞・打消し・用) や(係助、係り) あら(ラ変・未然) む(助動・推量・連体、結び)、 また(副詞)、 かく(副詞) なむ(係助)。   忘れがたく(ク・用)、 口惜しき(シク・体) こと 多かれ(ク・已然) ど(接助) 、え(副詞) 尽くさ() ず(助動・打消し・終止)。 とまれかうまれ(連語、音便) 、とく(ク・用) 破り(四・用) て(助動詞・完了・未然) む(助動詞・意志・終止)。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%97%A5%E8%A8%98
鎌倉時代の作品。成立年は、おそらく1212年~1221年ごろと思われている。作者は不明。 仏教の説話が多い。芸能や盗賊の説話もある。この作品での仏教のようすは、鎌倉時代の仏教が元になっている。 昔、比叡山に、一人の児がいた。僧たちが、ぼた餅(ぼたもち)を作っていたので、児はうれしいが、寝ずに待っているのを みっともないと思い、児は寝たふりをして待っていたところ、ぼた餅が出来上がった。 僧が児を起こそうと声をかけてくれたが、児は思ったのは、一回の呼びかけで起きるのも、あたかも寝たふりを児がしていたかのようで、みっともないだろうと思った。なので、児が思ったのは、もう一度だけ、僧が声をかけてくれたら起きようかと思っていたら、僧たちは児が完全に寝入ってしまったと思い、二度目の声をかけなくなった。なので、ぼた餅が、僧たちに、どんどん食べられてしまい、児は「しまった」と思い、それでも食べたいので、あとになってから、僧の呼びかけへの返事をして「はい」と答えた。僧たちは面白くて大笑いだった。 今は昔、比叡(ひえ)の山に 児(ちご) ありけり。 僧たち、宵(よひ。ヨイ)の つれづれに、 「いざ、かいもちひ せむ。」と言ひけるを、 この児、心寄せに聞きけり。 さりとて、し出ださむ(しいださむ)を待ちて寝ざらむも、わろかり なむ と 思ひて、片方(かたかた)に 寄りて、寝たる 由(よし) にて、出で(いで)来るを 待ちける に、すでに し出だし(いだし)たる さま にて、ひしめき 合ひたり。 今となっては昔のことだが、比叡山の延暦寺に(一人の)児童がいたという。僧たちが、日が暮れて間もないころ(=宵)、退屈しのぎに (=つれづれに)、「さあ、ぼたもちを作ろう。」と言ったのを、この児は期待して聞いた。そうかといって、作りあがるのを待って寝ないでいるのも、みっともないだろうと思って、(部屋の)片隅によって寝たふりで(ぼたもちが)出来上がるのを待っていたところ、(僧たちが)もう作りあげた様子で騒ぎあっている。 この児、定めて 驚かさむ ず らむ と 待ちゐたる に、僧の、 「もの申しさぶらはむ。 驚かせたまへ。」と言ふを、うれしとは思へども、ただ一度にいらへむも、 待ちけるかと もぞ 思ふとて、いま一声(ひとこゑ、ヒトコエ)呼ばれていらへむと、念じて寝たるほどに、 「や、な 起こし奉り(たてまつり)そ。をさなき人は 寝入りたまひに けり。」と言ふ声のしければ、あな わびし と 思ひて、いま一度起こせかしと、思ひ寝に聞けば、 ひしひしと ただ食ひに食ふ音のしければ、ずちなくて、 無期(むご) の のち に、 「えい。」と いらへ たり ければ、僧たち 笑ふこと 限りなし(かぎりなし)。 この児は、きっと僧たちが起こしてくれるだろうと待っていたところ、僧が「もしもし、起きてください。」というのを、(児は)うれしいと思ったが、ただ一度(の呼びかけ)で返事をするのも、(ぼたもちを)待っていたかと(僧たちに)思われるのもいけないと考えて、もう一度呼ばれてから返事をしようと我慢して(=「念じて」に対応。)寝ているうちに、(僧が言うには)「これ、お起こし申しあげるな。幼い(おさない)人は 寝入ってしまいなさった。」と言う声がしたので、(児が、)ああ、情けない(=「あな わびし」に対応。)と思って、もう一度起こしてくれよと思いながら寝て聞くと、むしゃむしゃと、ひたすら(ぼたもちを)食べる音がしたので、どうしようもなくなり(=「ずちなくて」に対応。)、長い時間のあとに(児が)「はい」と(返事を)言ったので、僧たちの笑うこと、この上ない。 今(名詞) は(格助詞) 昔、比叡の山 に(格助詞) 児 あり(ラ行変格動詞・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 僧たち、宵(よい) の(格助) つれづれ に(格助)、 「いざ(感嘆詞)、かいもちひ せ(サ変格・未然) む(助動詞・意思・終止)。」 と(格助) 言ひ(四段・連用) ける(助動詞・過去・連体) を(格助)、 こ(代名詞) の(格助) 児、心寄せ に(格助) 聞き(四段・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 さりとて(接続詞)、 し出ださ(四段・未然) む を(格助) 待ち(四段・連用) て(接続助詞) 寝(下二段・未然) ざら(助動・打消・未然) む(助動詞・婉曲・連体) も(係助詞)、 わろかり(形容詞・ク活用・連用) な(助動・強・未) む(助動・推・終) と(格助) 思ひ(四段・連用) て(接続助詞)、 片方 に(格助) 寄り(四段・連用) て(接続助詞)、 寝(動詞・下二段・連用) たる(助動・存在・連体) よし にて(格助)、 出で来る(いでくる)(動詞・カ行変格・連体)  を(格助) 待ち(四段・連用) ける(助動詞・過去・連体) に(接続助詞)、 すでに(副詞) し出だし(しいだし)(四段・連用) たる(助動・完了・連体) さま にて(格助)、 ひしめき合ひ(四段・連用) たり(助動詞・存在・終止)。 こ(代名詞) の(格助詞) 児、定めて(副詞) 驚かさ むず(助動・推・終止) らむ(助動・現推・終止) と(格助) 待ちゐ たる に(接助)、 僧 の(格助)、 「もの申しさぶらはむ。 驚かせたまへ。」 と(格助) 言ふ を 、 うれし と は 思へ ども(接助)、ただ(副詞) 一度 に(格助) いらへ む も(係助)、 待ちける か(係助) と(格助) も(係助) ぞ 思ふ と(格助) て(接助)、 いま 一声 呼ばれて いらへ む と(格助)、念じ て(接助) 寝たる ほど に(格助)、 「や、な起こしたてまつりそ。 をさなき人は寝入りたまひにけり。」と言ふ声のしければ、あな(感嘆詞) わびし(形容詞・シク活用・終止) と(格助) 思ひ(四段・連用) て(接助)、 いま(副詞) 一度 起こせ(四段・命令) かし(終助詞) と(格助)、 思ひ寝 に(格助) 聞け(四段・已然) ば(接助)、 ひしひしと(副詞) ただ(副詞) 食ひ(四段・連用) に(格助) 食ふ(四段・連体) 音 の(格助) し(サ変・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、ずちなく(ク・用) て(接助)、 無期 の(格助) のち に(格助)、 「えい。」(感)  と(格助) いらへ(下二・用) たり(助動・完了・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、 僧たち 笑ふ(四・体) こと 限りなし。(ク・終) 昔、絵仏師の良秀がいた。ある日、隣家からの家事で自宅が火事になって、自分だけ逃げ出せた。妻子はまだ家の中に取り残されている。良秀は、家の向かい側に立っている。 良秀は燃える家を見て、彼は炎の燃え方が理解できたので、家なんかよりも絵の理解のほうが彼には大切なので、炎を理解できたことを「得をした」などと言って、笑っていたりした。良秀の心を理解できない周囲の人は、「(良秀に)霊でも取りついたのか」と言ったりして心配したが、良秀に話しかけた周囲の人に、良秀は自慢のような説明をして、たとえ家が燃えて財産を失おうが絵などの仕事の才能さえあれば、家など、また建てられる金が稼げることを説明し、今回の火事の件で炎の燃え方が理解できたので、自分は炎が上手く書けるから、今後も金儲けが出来るので、家を建てられることを説明した。さらに、良秀の説明・自慢は続き、そして世間の一般の人々は才能が無いから物を大事にするのだと、良秀は あざわらう。 けっきょく、良秀は、その後も絵描きとして成功し、『よじり不動』という絵が有名になって、世間の人々に褒められている。 良秀は、あまり、妻子の安否を気にしてない。まだ妻子が火事の家の中にいるを知らないのではなく、知っているが気にしてない。 これも今は昔、絵仏師良秀といふありけり。家の隣より火 出で来て(いできて)、風おしおほひてせめければ、逃げ出でて(いでて)大路(おほち)へ出でにけり。 人の描かする仏もおはしけり。 また、衣(きぬ)着ぬ妻子(めこ)なども、さながら内にありけり。それも知らず、ただ逃げ出でたる(いでたる)をことにして、向かひのつらに立てり。 これも今となっては昔のことだが、絵仏師の良秀という者がいた。(良秀の)家の隣から出火して、風がおおいかぶさって(火が)迫って(「せまって」)きたので、逃げ出して大通りに出てきてしまった。(家の中には、)人が(注文して)描かせていた(仏画の)仏も、いらっしゃった。また、着物も着ないでいる妻子なども、そのまま家にいた。(良秀は)それも気にせず、ただ自分が逃げ出せたのを良いことにして、(家・道の)向かい側に立っていた。 見れば、すでにわが家に移りて、煙(けぶり)・炎くゆりけるまで、おほかた(オオカタ)、向かひのつらに立ちてながめければ、 「あさましきこと。」 とて、人ども来とぶらひけれど、騒がず。 「いかに。」 と人言ひければ、向かひに立ちて、家の焼くるを見て、うちうなづきて、ときどき笑ひけり。 「あはれ、しつる せうとくかな。年ごろはわろくかきけるものかな。」 と言ふ時に、とぶらひに来たる者ども、 「こはいかに、かくては立ちたまへるぞ。あさましきことかな。物(もの)のつきたまへるか。」 と言ひければ、 「なんでふ物(もの)のつくべきぞ。年ごろ不動尊の火炎(くわえん)を悪しく(あしく)かきけるなり。今見れば、かうこそ燃えけれと、心得(こころう)つるなり。これこそせうとくよ。この道を立てて世にあらんには、仏だによくかきたてまつらば、百千の家もいできなん。わ党(たう)たちこそ、させる能もおはせねば、物(もの)をも惜しみたまへ。」 と言ひて、あざ笑ひてこそ立てりけれ。そののちにや、良秀がよぢり不動とて、今に人々、めで合へり。 見ると、炎は既に自分の家に燃え移って、煙や炎がくすぶり出したころまで、(良秀は)向かいに立って眺めていたので、(周囲の人が)「大変なことでしたね」と見舞い(みまい)に来たが、(まったく良秀は)騒がない。 (周囲の人が)「どうしたのですか」と(良秀に)尋ねたところ、(良秀は)向かいに立って、家の焼けるのを見て、うなずいて、ときどき笑った。(良秀は)「ああ、得が大きいなあ。長年にわたって、不動尊の炎を下手に描いていたなあ。」と言い、見舞いに来た者どもは(言い)「これは一体、なんで、このように(平然と笑ったりして)立っているのか。あきれたものだなあ。霊の類でも、(良秀に)取りついたのか」と言うと、 (良秀は答えて)「どうして霊が取り付いていようか。(笑っていた理由は、取りつかれているのではなく、)長年、不動尊の火炎を下手に描いていた、それが今見た火事の炎によって、炎はこういうふうに燃えるのかという事が(私は)理解できたのだ。これこそ、もうけものだ。(たとえ家が燃えようが、才能さえあれば、金を稼げる。) この絵仏師の道を専門に世に生きていくには、仏様さえ上手にお描き申し上げれば、たとえ百軒や千軒の家ですら、(金儲けをして)建てられる。 (いっぽう、)あなたたちは、(あまり)これといった才能が無いから、物を惜しんで大切にするのでしょう。」 ( ← 皮肉 )(  あなたたち才能の無い人々は、せいぜい物でも惜しんで大切にしてください。) と言って、(人々を)あざ笑って立っていた。 その後(のち)の事であろうか、(良秀の絵は、)良秀の よじり不動 といわれて、今でも人々が、ほめ合っている。 後の時代だが、この作品が、近代の芥川龍之介の作品「地獄変」の題材にもなっている。 これ(代名詞) も(格助詞) 今 は(係り助詞) 昔、 絵仏師 良秀 と(格助) いふ(動詞・四段・連用) あり(動詞・ラ変・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 家 の(格助) 隣 より(格助) 火 出で来(動詞・カ変・連用) て(接続助詞)、 風 おしおほひ(動詞・四段・連用) て(接助) せめ(動詞・下二段・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、 逃げいで(動詞・下二段・連用) て(接助) 大路 へ(格助) 出で(動詞・下二段・連用) に(助動詞・完了・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 人 の(格助) 描か(動詞・四段・未然) する(助動詞・使役・連体) 仏 も(係助) おはし(サ変・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 また(接続詞)、 衣 着(動詞・上一段・未然) ぬ(助動詞・打消・連体) 妻子 など(副助詞) も(係助)、 さながら(副詞) 内 に(格助) あり(ラ変・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 それ(代名詞) も(格助) 知ら(四段・未然) ず(助動詞・打消・連用) 、 ただ(副詞) 逃げ出で(下二段・連用) たる(助動詞・完了・連体) を(格助) こと に(格助) し(サ変・用) て(接助)、 向かひ の(格助) つら に(格助) 立て(四段・已然) り(助動詞・完了・終止)。   見れ ば(接助)、 すでに(副詞) わ(代名詞) が(格助詞) 家 に(格助) 移り て(接助)、 煙(けぶり)・炎 くゆり ける まで(副助詞)、 おほかた(副詞)、 向かひ の(格助) つら に(格助) 立ち て(接助) ながめ けれ ば(接助)、 「あさましき(形容詞・シク・連体) こと。」 と(格助) て(接助)、 人ども 来とぶらひ けれ(助動詞・過去・已然) ど(接助)、 騒が(四段・未然) ず(助動詞・打消・終止)。 「いかに(副詞)。」 と(格助) 人 言ひ(四段・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、 向かひ に(格助) 立ち(四段・連用) て(接助)、 家 の(格助) 焼くる(下二段・連体) を(格助) 見 て(接助) 、 うちうなづき て(接助)、 ときどき(副詞) 笑ひ(四段・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 「あはれ(感嘆詞)、 し(サ変・連用) つる(助動詞・完了・連体) せうとく かな(終助詞)。 年ごろ は(係助) わろく(ク活用・連用) 書き(四段・連用) ける(助動詞・詠嘆・連体) もの かな(終助詞)。」 と(格助) 言ふ(四段・連体) 時 に(格助)、 とぶらひ に(格助) 来(カ変・連用) たる(助動詞・完了・連体) 者ども、 「こ(代名詞) は(係助) いかに(副詞)、 かくて(副詞) は(係り助詞) 立ち たまへ(補助動詞・尊敬・四段・已然/命令) る(助動詞・存続・連体) ぞ(係り助詞)。 あさましき こと かな(終助詞)。 物(もの) の つき たまへ(補助動詞・尊敬・四段・已然/命令) る(助動詞・完了・連体)  か(係助)。」 と(格助) 言ひ(四段・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、 「なんでふ(副詞) 物 の(格助) つく べき(助動詞・当然・連体) ぞ(係助)。 年ごろ 不動尊 の(格助) 火炎 を(格助) 悪しく かきける なり。 今 見れ ば(接助)、 かう(副詞) こそ(係り助詞、係り) 燃え けれ(助動詞・過去・已然・結び)  と(格助)、 心得 つる(助動詞・完了・連体) なり(助動詞・断定・終止)。 これ こそ(係り助詞) せうとく よ(終助詞)。 こ(代名詞) の(格助) 道 を(格助) 立て(下二段・連用) て(接助)  世 に(格助) あら(ラ変・未然) む(助動詞・仮定・連体) に(格助) は(係助)、 仏 だに(副詞) よく(ク活用・連用) 書き(四段・連用) たてまつら(補助動詞・尊敬・四段・未然) ば(接助)、 百千 の(格助) 家 も(係助) 出で来(カ変・連用) な(助動詞「ぬ」・強意・未然) む(助動詞・推量・終止)。 わ党たち こそ(係り助詞、係り)、 させる(連体詞) 能 も(係り助詞) おはせ(サ変・未然) ね(助動詞・打消・已然) ば(接助)、 物 を(格助) も(係り助詞) 惜しみ(四段・連用) たまへ(補助動詞・尊敬・四段・已然結び)。」 と(格助詞) 言ひ(四段・連用) て(接助)、 あざ笑ひ(四段・連用) て(接助) こそ(係り助詞、係り) 立て(四段・已然) り(助動詞・存続・連用) けれ(助動詞・過去・已然・結び)。 そ(代名詞) の(格助) のち に(助動詞・断定・連用) や(係り助詞)、 良秀 が(格助) よぢり不動 と(格助) て(接助)、 今に(副詞) 人々、 めで合へ(四段・已然/命令) り(助動詞・存続・終止)。 鎌倉時代初期に成立した説話集。編者は不明。輪数は約二百話からなる。(百九十七話) 仏教に関した話が多い。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%AE%87%E6%B2%BB%E6%8B%BE%E9%81%BA%E7%89%A9%E8%AA%9E
伊勢物語とは、 歌物語(うたものがたり)。作者不詳。平安時代に成立だが、くわしい成立年は不詳。主人公は、在原業平(ありわらの なりひら)らしい人物であり、伊勢物語全体として業平の一代記のような構成になっている。業平は皇族出身なので、高貴な出自だが、いろんな女性に手をだしすぎて、評判が悪くなり、都にいづらくなり、地方にくだっていった。業平は、今で言うところの、いわゆるプレイボーイである。 伊勢物語の全体として、恋愛にちなんだ話が多い。 伊勢物語の段数は約百二十五段からなり、和歌を約二百首ふくむ。各章段が和歌を中心とした、独立した短い物語になっている。 『古今和歌集』の成立(905年)の以前に『伊勢物語』の原型は成立したが、『古今和歌集』以降にも追記されている。 在原業平は『古今和歌集』での代表的な歌人の一人になっている。 「東下り」(あずまくだり)・「芥川」(あくたがわ)などは、業平をもとにしていると考えられる。だが「筒井筒」(つついづつ)は、べつの庶民をもとにしたと考えられている。 ※ 教科書では、とくに「東下り」が代表的な作品である。「東下り」は、詠まれた歌も多いので歌物語としての伊勢物語の教材に適切だし、業平のエピソードだし、当時の京都以外の様子も分かり、なかなか教育的である。 業平の官位が「五位の中将」(ごいのちゅうじょう)なので、ほかの古典作品では業平のことを「在中将」(ざいのちゅうじょう)とか「在五中将」(ざいごちゅうじょう)とかと言い、伊勢物語のことを「在五物語」(ざいごものがたり)などと言う。 この話は、在原業平(ありわらの なりひら)が京を追われた史実を参考にした物語だろうと考えられている。 昔、京に住んでいた男が、いろいろあって、京から出て行く気になったので、東国に移り住もうと旅をした。主人公の男は、べつに京が嫌いなのではなく、京には友人やら恋人などもいて恋しいが、なにか京には居づらい事が男にあったようだ。主人公の男は、旅のため、古くからの友人の一人か二人とともに、旅に出て、東国に下って行った。 旅のなか、主人公の男は、いくつかの和歌を詠んだ。和歌の内容は、たいていは、京の都に残してきた妻・恋人を恋いしんだ和歌であるが、ときどき旅の途中で見た目づらしい物を和歌に読み込んだ和歌を作る場合もある。 和歌の出来は良かったし、一行の者どもは京や恋人が恋しいので、一行の心にひびいたので、それぞれの和歌を詠んだあとの場面で、旅の一行は感動したり涙したりした。 昔、京に住んでいた男が、いろいろあって、京から出て行く気になったので、東国に移り住もうと旅をした。古くからの友人の一人か二人とともに旅に出た。 三河の国の八橋で、かきつばたの花が咲いていたので、折句(おりく、技法の一つ)で「か・き・つ・ば・た」を句頭に読み込んだ和歌を主人公の男が詠んだ。 和歌の内容は、都に残してきた妻を恋しく思う和歌である。 一行は感動し、涙を流すほどであり、ちょうどそのとき食べていた乾飯が、涙でふやけてしまうほどの素晴らしい出来の和歌だったという。 昔、男ありけり。その男、身を要(えう)なきものに思ひなして、「京にはあらじ、東の方(かた)に住むべき国求めに。」とて行きけり。もとより友とする人、一人、二人して行きけり。道知れる人もなくて惑ひ(まどい)行きけり。三河(みかは、ミカワ)の国八橋(やつはし)といふ所に至りぬ。そこを八橋と言ひけるは、水ゆく川の蜘蛛手(くもで)なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける。 その沢のほとりの木の陰に下りゐて、乾飯(かれいひ、カレイイ)食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。 それを見て ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字(いつもじ)を句の上(かみ)に据ゑて 旅の心をよめ。」 と 言ひければ、よめる。 とよめりければ、みな人、乾飯の上に涙落としてほとびにけり。 昔、(ある)男がいた。その男は、わが身を役に立たないものと思い込んで、「京には、おるまい、東国のほうに住める国を探しに(行こう)。」と思って出かけた。以前から友人とする者一人二人といっしょに出かけた。(一行の中には)道を知ってる人もいなくて、迷いながら行った。 三河(みかわ)の国の八橋(やつはし)という所についた。そこを八橋といったのは(=「八橋」という理由は)、水の流れているのがクモの足のように八方に分かれているので、橋を八つ渡してあるので八橋といった(のである)。(一行は、)その沢のほとりの木陰に、(馬から)下りて座って、乾飯(かれいい)を食べた。 その沢に、かきつばたがたいそう美しく(=または「趣深く」と訳す)咲いていた。ある人が言うには、「かきつばたという五文字を和歌の句の上に置いて、旅の心を詠め。」と言ったので、(主人公の)男が詠んだ。 と詠んだので、一行は皆、乾飯の上に涙を落として、(乾飯が涙で)ふやけてしまった。 「唐衣(からころも) きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」は、このように重要であり、また有名なので、読者は、この句をまるごと全部、覚えてしまっても良い。 駿河の国の宇津で、顔見知りの修行僧に出会ったので、手紙をことづけた。都にいる恋人への手紙である。 和歌を合計で二つ作った。 一つ目の和歌の内容は、宇津にちなんで、現(うつつ)と夢について、妻が夢ですら会えないことを、さびしんだ歌である。 二つ目の和歌は、富士山を見ると、もう五月の下旬だというのに、まだ雪が残ってることに男はおどろき、その富士の雪についての和歌を詠んだ。二つ目の和歌では妻のことなどは詠んでいない。 行き行きて、駿河(するが)の国にいたりぬ。 宇津(うつ)の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗きに、蔦(つた)・楓(かへで、カエデ)は茂り、もの心細く すずろなる目を見ることと思ふに修行者(すぎょうざ)会ひたり。 「かかる道はいかでかいまする。」と言ふを見れば、見し人なりけり。 京に、その人の御(おほん、オオン)もとにとて、文(ふみ)書きてつく。 富士の山を見れば、五月(さつき)のつごもりに、雪いと白う降れり。 その山は、ここにたとへば、比叡(ひえ)の山を二十(はたち)ばかり重ね上げたらむほどして、なりは塩尻(しおじり)のやうになむありける。 さらにどんどんと行き続けて、駿河の国に、たどり着いた。宇津の山に着いて、自分が(これから)分け入ろうとする道は、(木々が茂っているので)たいそう暗く(道も)狭い上に、蔦(つた)・楓(かえで)は茂り、 なんとなく心細く、思いがけない(つらい)目を見ることだろうと思っていると、(一行は)修行者に出会った。 「このような道に、どうして、おいでですか。」という人を見れば、(以前に京で)見知った人であった。 (なので、)京に(いる)、その人(=主人公の恋人、唐衣の句の妻)の所にと、手紙を書いて、ことづけた。 富士の山を見ると、五月の下旬(げじゅん)なのに、雪がたいそう白く降りつもっている。 その(富士)山は、ここ(京)にたとえれば、比叡山を二十ほど重ね上げたようなくらい(の高さ)で、形は塩尻のようであった。 武蔵・下総の国のあたりにつき、一行は、すみだ川を舟で渡ろうとするとき、見かけない鳥を見たので、渡し主に聞いたところ「都鳥」(みやこどり)だというらしい。 男は和歌を詠んだ。 一行は京が恋しいし恋人も恋しいので、一行は涙を流して、一行は皆泣いた。 なほ行き行きて、武蔵(むさし)の国と下総(しもつふさ)の国との中に、いと大きなる川あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりに群れゐて、「思ひやれば、限りなく遠くも来(き)にけるかな。」とわび合へるに、渡し守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ。」と言ふに、乗りて渡らむとするに、 みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折りしも(おりしも)、白き鳥の、嘴(はし)と脚と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ魚(いを、イオ)を喰ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、 と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり。 さらにどんどんと行って、武蔵の国と下総の国との中に、大きな川がある。その川を隅田川(すみだがわ)という。その川のほとりに一行が集まって座って、「(都のことを)思えば、とても遠くに来たものだなあ。」と互いに嘆きあっていると、渡し守が「早く舟に乗れ。日も暮れてしまう。」というので、(舟に)乗って(川を)渡ろうとするが、(一行の者は)みな何となくさびしくて、(というのも)都に(恋しく)思う人がいないわけでもない。(=都に恋しい人がいる。) ちょうどその時、(都鳥があらわれ、)白い鳥でくちばしと脚とが赤い、鴫ほどの大きさである鳥が、水の上で気ままに動きながら魚を(捕って)食べている。京では見かけない鳥なので、(渡し守を除いて)一行の人は誰も知らない。渡し守に(この鳥のことを)尋ねると、「これこそが(有名な)都鳥(だよ)。」と言うのを(一行は)聞いて、 と詠んだので、舟の上の一行は皆(感極まり)泣いてしまった。 (第九段) 「限りなく」: 市販の単語集によっては「この上なく」のような意味だと解説されている。だが教科書ガイドではもっとシンプルに「とても」などと訳している書籍もある。けっして「限界がない」という意味ではない。単語集によっては「限りなく」を紹介してない場合もあるので、あまり気にする必要はない。「限界がない」わけではないという常識的な読解と、強調表現であることがわかれば、それで十分だろう。 昔、男 あり(ラ変・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 そ(代名詞) の(格助詞) 男、 身 を(格助詞) 要なき(ク活用・連体) もの に(格助) 思ひなし(四段・連用) て(接続助詞) 、「京 に(格助) は(係助) あら(ラ変・未然) じ(助動詞・打消し・終止) 、東 の(格助) 方 に(格助) 住む(四段・終止) べき(助動詞・適当・連体) 国 求め(下二段・連用) に(格助)。」と(格助) て(接続助詞) 行き(四・用) けり(助動・過・終)。 もとより(副詞) 友 と(格助) する(サ変・体) 人、 一人 、二人 して(格助) 行き(四・用) けり(助動・過・終)。 道 知れ(四・已然) る(助動・存続・連体) 人 も(係助詞) なく(ク・用) て(接助) 惑ひ行き(四・用) けり(助動・過・終)。 三河の国 八橋 と(格助) いふ(四・体) 所 に(格助) 至り(四・用) ぬ(助動・完了・終止)。 そこ(代名詞) を(格助) 八橋 と(格助) 言ひ(四・用) ける(助動・過・体) は(係助詞)、 水 ゆく(四・体) 川 の(格助) 蜘蛛手 なれ(助動・断定・已然) ば(接助)、 橋 を(格助) 八つ 渡せ(四・已然) る(助動・存続・体) に(格助) より(四・用) て(接助) なむ(係助詞、係り) 八橋 と(格助) いひ(四・用) ける(助動・過・体)。 そ(代名詞) の(格助) 沢 の(格助) ほとり の(格助) 木 の(格助) 陰 に(格助) 下りゐ(上一段・連用) て(接助)、 乾飯 食ひ(四・用) けり(助動・過・終)。 そ(代名詞) の(格助) 沢 に(格助) かきつばた いと(副詞) おもしろく(ク・用) 咲き(四・用) たり(助動・存続・終)。 それ(代名詞) を(格助) 見(上一段・連用) て(接助) ある(連体詞) 人 の(格助) いはく(連語)、「かきつばた と(格助) いふ(四・体) 五文字 を(格助) 句 の(格助) 上 に(格助) 据ゑ(下二段・連用) て(接助) 旅 の(格助) 心 を(格助) よめ(四段・命令)。」 と(格助) 言ひ(四・用) けれ(助動・過去・已然) ば(接助)、よめ(四・已然) る(助動・完了・連体)。 と(格助) よめ(四・已然) り(助動・完了・用) けれ(助動・過去・已然) ば(接助)、 みな人、 乾飯 の(格助) 上 に(格助) 涙 落とし(四・用) て(接助) ほとび(上二段・用) に(助動・完了・用) けり(助動・過去・終止)。 この話は、在原業平ではなく、べつの無名の商人などの庶民や地方官などの恋愛話だと思われている。 ある夫婦の、夫が、ほかの新しい女と結婚した。(当時は一夫多妻制だったので合法。なので、べつに浮気や不倫ではない。) しかし、最終的に、もとの妻と夫とが夫婦のヨリを戻した。この元の妻との夫婦愛を、伊勢物語の作者が夫の過去の心変わりを棚に上げて、もとの妻の一途さを美談に仕立て上げただけである。 当然、新しい女のほうの一途は思いは、夫には無視をされている。 そもそも、夫が他の女と結婚したことが発端なのだが、夫は、そういうことは気にしてないようだ。 伊勢物語の作者は、いちおう、新しい女のほうが詠んだ和歌なども紹介している。 ある一組の男女がいて、結婚した。 結婚後、妻の親が死んで、妻の家が貧乏になった。夫は貧乏が嫌なので、べつの女のところへ通うようになった。 (当時は女の実家の親が、男の経済的な収入の世話をしていた。また、当時は一夫多妻制なので、複数の女との結婚は合法。なので、べつに不倫ではない。なので、女の親が死んで、夫の生活が貧しくなるのである。) しかし、妻が不快なそぶりを見せないので、夫は浮気を疑った。なので、妻の本音を見ようと、出かけたふりをして庭の植え込みに隠れて妻の様子を見た。 妻は和歌を詠み、隠れて聞いていた夫は感動したので、この妻を大切にしようと思い、もう新しい女のところへは通わなくなった。 いっぽう、べつの場所の新しい女のほうは、男からは見捨てられ、さんざんである。だが伊勢物語の作者から言わせれば、ぜんぜん新しいほうの女に同情していない。作者が言うには、新しい女の振る舞いが奥ゆかしくないからだとか、たしなみが足りないだとか、新しい女は、さんざんの言われようである。 小さいころから仲の良かった男女がいたが、ついに結婚をした。先にプロポーズ(求婚のこと)したのは男の側(がわ)。 この章では、プロポーズの意味の和歌が書かれている。 プロポーズの和歌をやりとりの後、すぐに結婚できたかどうかは定かではないが、ともかく、この男女は最終的に結婚した。 昔、田舎(いなか)わたらひしける人の子ども、井のもとに出でて(いでて)遊びけるを、大人(おとな)になりにければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ふ。女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども、聞かで なむありける。さて、この隣の男のもとより、かくなむ、 女、返し、 など言ひ言ひて、つひに本意(ほい)のごとくあひにけり。 昔、田舎で暮らしていた人の子供たちが、井戸の周りで遊んでいたが、大人になったので男も女も互いに(たがいに)恥かしがったが、男はこの女をぜひ妻にしようと思い、女はこの男を(ぜひ夫にしよう)と思いながら(暮らしていて)、親が(他の人と)結婚させようとするけれど聞き入れないでいた。 そして、この隣に住む男のところから、このように(歌を言ってきた)。 女の返歌は、 などと言い合って、(それから、)ついに(二人は)本来の望みどおりに 結婚をした。 この作品の主人公の家についての説には、 1:商人で田舎で行商をしている。  2:地方官   などの説がある。 夫婦の女の親が死んで、女が貧乏になったので、男は別の女のところへと通うようになった。 もとの女(妻)が不快な様子も見せないので、男は、もとの女の浮気を疑い、出かけたふりをして植え込みに隠れて、もとの女の様子を見た。 もとの女は気づかず、男を恋しく思い和歌を詠んだ。 男は感動した。 さて、年ごろ経る(ふる)ほどに、女、親なく、頼りなくなるままに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、河内(かふち)の国高安(たかやす)の郡(こほり、コオリ)に、行き通ふ所いできにけり。さりけれど、このもとの女、「悪し。」(あし)と思へる気色(けしき)もなくて、いだしやりければ、男、「異心(ことごころ)ありてかかるにやあらむ。」と思ひ疑ひて、前栽(せんざい)の中に隠れゐて、河内へ往ぬる顔にて見れば、この女、いとよう化粧(けさう、ケショウ)じて、うち眺めて(ながめて)、 と詠み(よみ)けるを聞きて、限りなくかなしと思ひて、河内へも行かずなりにけり。 さて、それから数年がたつうちに、女の親が死んで、女は生活のよりどころ(=財産など)がなくなり、(男が思ったのは)夫婦いっしょに貧しくいられようか(、いやおられない、)と(男は)思い、(男は別の女に通ってしまようになり、)河内の国の高安の郡に行き通う所が出来てしまった。 そうでありながら、もとの女は不快に思ってる様子が無いので、男はこのもとの女が浮気をしてるのではと疑わしく思ったので、(男は)庭の植え込みの中に隠れて、河内に行ったふりをして、女の様子を見ると、女はたいそう美しい化粧をして物思いにぼんやりと外を眺めて(和歌を詠み) と詠んだのを(男は)聞いて、(男は)このうえもなく(女を)いとしいと思い、河内(の女の所)へも行かなくなった。 新しい女のほうは、はじめのころこそ奥ゆかしかったが、仲が慣れていくうちに気をゆるして、女は、たしなみが無くなり、なので男は幻滅した。 新しい女のほうも和歌を詠んだり手紙をよこしたりしたが、もう、男は通わなかった。 まれまれかの高安に来てみれば、初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙(いひがひ、イイガイ)取りて、笥子(けこ)のうつはものに盛りけるを見て、心憂がりて(うがりて)行かずなりにけり。さりければ、かの女、大和の方(かた)を見やりて、 と言ひて見出だす(みいだす)に、からうじて、大和人(やまとびと)、「来む。」(こむ)と言へり。喜びて待つに、たびたび過ぎぬれば、    と言ひけれど、男住まず(すまず)なりにけり。 ごく稀(まれ)に、あの高安(の女の所)に来てみると、女は始めのころは奥ゆかしく取り繕っていたけれども、今では気を許して、(食事のときには、女が)自分の手でしゃもじを取ってご飯を食器に盛ったのを(男は)見て、嫌気がさして(高安の女の所に)行かなくなってしまった。 そうなったので、あの(高安の)女は、大和のほうを見やって、 と歌を詠んで外を見やると、やっとのこと、大和の人(男)が「行こう」と言った。 (高安の女は)喜んで待つが、(しかし、男は訪れず、女は使いをよこすが、男は)何度も来ないで、(月日が)過ぎてしまった。 と言ったが(=歌を詠んだけれども)、男は(河内の女の所には)行かなくなってしまった。 (第二十三段) 業平が藤原高子に手を出した話をもとにしてると思われる。 平安時代の昔、ある男が、高貴な女に恋をして、その女を盗みだしてきて、芥川のほとりまで逃げてきた。夜もふけ雷雨になり、男は荒れた蔵に女を押し込んだ。男は戸口で見張りをしている。 しかし、女は鬼に食われてしまう。男は悲しんだ。 本当は、盗み出した女を、女の兄たちが取り返しにきたのを、鬼と言い換えている。 男は歌を詠んだ。その歌の内容は、逃げていた途中に、女が露を見て、あれは何か、真珠かとたずねていたが、このときに自分も露のように消えてしまえば良かったのに、という歌である。 この歌では、女は高貴なため箱入り娘なので、露を知らない。 昔、男ありけり。女の、え得(う)まじかりけるを、年を経て(としをへて)よばひ(イ)わたりけるを、辛うじて(かろうじて)盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ川を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、 「かれは何ぞ。」 となむ男に問ひける。行く先遠く、夜も更けにければ、鬼ある所(ところ)とも知らで、神(かみ)さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、男、弓・胡簶(やなぐひ)を負ひて、戸口に居り(をり)。はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に喰ひてけり。 「あなや」 と言ひけれど、神鳴るさわぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、みれば、率て(いて)来し(こし)女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。 昔、男がいた。女で、妻にすることができそうもなかった(高貴な)女を、長年にわたって求婚してきたが、やっとのことで(その女を)盗み出して、たいそう暗い夜(の中)を(逃げて)きた。芥川という川(のほとりを)女を連れて行ったところ、草の上におりていた露を(女が)見て、「(光っている)あれは何か」と、男に尋ねた。 これから行く先(の道のり)も遠く、夜も更けてしまったので、(蔵に)鬼がいるとも'知らないで、雷'までも たいそう激しく鳴って、雨もひどく降ったので、荒れ果てた蔵(の中)に、女を奥に押し込んで、男は(見張りのため)弓と 胡簶(やなぐひ) を持って戸口におり、「早く夜も明けてほしい。」と思いながら座っていたところ、鬼がたちまち(女を)一口に食べてしまった。 (女は)「あれえ。」と悲鳴を上げたけれど、雷が鳴る騒がしい音のために(男は悲鳴を)聞くことが出来なかった。(なので、男は、女がいないことに、まだ気づいていない。) しだいに夜も明けてゆき、(男が蔵の中を)見れば、連れてきた女もいない。男は地だんだ(じだんだ)を踏んで泣いたが、どうしようもない。 これは、二条の后(きさき)の、いとこの女御(にょうご)の御(おおん)もとに、仕う(つこう)まつるやうにて居(い)給へりけるを、 容貌(かたち)のいとめでたくおはしければ、盗みて負ひ(おひ)て出で(いで)たりけるを、 御兄人(せうと)、堀川の大臣(おとど)、太郎国経(たろうくにつね)の大納言、まだ下臈(げろう)にて内裏(うち)へ参り給ふに、 いみじう泣く人あるを聞きつけて、とどめて取り返し給うてけり。 それをかく鬼とは言ふなり。まだいと若うて、后のただにおはしける時とや。 これは(=この話は)、二条の后が、いとこの女御のお側(そば)に、お仕えするような形で、おいでになったのを、容貌がたいそう素晴らしくていらっしゃったので、(男が)盗んで背負って逃げたのであるが、(后の)兄上の堀川の大臣や、長男の国経の大納言が、まだ官位の低いときにいらっしゃたころに宮中に参上なさるときに、ひどく泣く人がいるので、(男を)引きとどめて(后を)取り返しなさったのであった。それをこのように鬼と言い伝えているのであった。まだ(后が)たいそう若く、后が入内(じゅだい)なさる前の、(まだ后になってない)普通の身分でいらっしゃった時のことだとか(いうことです)。 (第六段) おそらく伊勢物語の作者が想像して書いた話であり、べつに在原業平などの特定の人物を参考にはしてないだろうと思われている。 この話での「あづさ弓」は和歌の単なる枕詞や序言葉であり、べつに弓術などとは話が関係ない。 女と仲の良かった男が、宮仕えに行った。三年後、男が宮仕えから帰ってきたが、女は新しい別の男と結婚の約束をしてしまっていた。ちょうど、最初の男が帰ってきた日が、新しい男と結婚するために枕をともにする日だった。 女が和歌で、もとの男に説明したので、もとの男も和歌を返して、そして男は帰ろうとした。さらに女は和歌を返したが、もとの男は帰っていってしまった。 女は追いかけたが、追いつけず、倒れてしまい、岩場に指の血で、悲しみをあらわす和歌を書き、自分の身が消えそうなぐらい悲しいことを和歌で書いた。 そして、女は本当に死んでしまった。 女と仲の良かった男が、宮仕えに行った。三年後、男が宮仕えから帰ってきたが、女は新しい別の男と結婚の約束をしてしまっていた。ちょうど、最初の男が帰ってきた日が、新しい男と結婚するために新枕(にいまくら)する日だった。 もとの男が家の門をたたくが、女は門を開けず、女はかわりに和歌を詠んだ。 昔、男、片田舎に住みけり。男、「宮仕えしに。」とて、別れ惜しみて行きにけるままに、三年(みとせ)来ざりければ、待ちわびたりけるに、いとねむごろに(ねんごろに)言ひける人に、「今宵(こよひ、コヨイ)あはむ。」と契りたりけるに、この男来たりけり。「この戸開け給へ」とたたきけれど、開けで、歌をなむよみて出だしたりける。 昔、(ある一人の)男が片田舎に住んでいた。男は宮仕えをするといって、女と別れを惜しんで、(男は)行ったまま、三年間戻ってこなかったので、女は待ちわびていたが、(そのころ)たいそう熱心に(女に)言い寄った人(=別の男)に、「結婚しましょう。」と約束してしまったところ、最初の男が(宮仕えから)帰ってきた。 (最初の男が)「この戸をあけてくれ」とたたくくけど、(女は)開けないで、歌を詠んで差し出した。 女は和歌で説明し、「今夜は、べつの男と結婚するために新枕する日なのですよ。」と説明した。 もとの男は和歌を返して、「新しい夫を愛しなさい。」と女に返した。 女は、和歌で「昔からあなたを愛しておりました。」と返すが、もとの男は帰っていってしまった。 女は追いかけたが、追いつけず、倒れてしまい、岩場に指の血で、悲しみをあらわす和歌を書き、自分の身が消えそうなぐらい悲しいことを和歌で書いた。 そして、女は本当に死んでしまった。 と言ひ出だしたりければ、 と言ひて、去なむとしければ、女、 と言ひけれど、男、帰りにけり。女、いとかなしくて、後に立ちて追ひ行けど、え追ひつかで、清水のある所に伏しにけり。そこなりける岩に、指(および)の血して書きつけける。 と書きて、そこにいたづらになりにけり。 と(女は)言うと、(男は歌を返し) と男は言って、帰ろうとしたら、女は(歌を返し)、 と(女は)言ったけれども、男は帰ってしまった。 女は、とても悲しくて、(去ってしまった男の)あとを追いかけたけれども、追いつくことができず、清水のある所に倒れ付してしまった。 そこにあった岩に、指(ゆび)の血で(和歌を)書きつけた。 と書いて、その場所で(女は)死んでしまった。 恋愛の話ではなく、母と子の家族愛についての話である。 「さらぬ別れ」とは死別のこと。べつに、まだ、この親子は死んでないし、作中でも親子は死なない。 男とは在原業平のことであり、母とは伊登内親王(いとないしんのう)。 昔、男がいた。母は皇女だった。大人になった男は、あまり母に会えなかった。年老いた母から手紙が来て、死ぬ前に会いたいという歌が書いてあった。 男も、母に長生きしてほしいという歌を詠んだ。 昔、男ありけり。身は賤し(いやし)ながら、母なむ宮なりける。その母、長岡(ながおか)といふ所に住み給ひけり。子は京に宮仕へしければ、まうづ(もうず)としけれど、しばしばえまうでず。ひとつ子さへありければ、いとかなしうし給ひけり。さるに、十二月(しはす)ばかりに、とみの事とて、御文(ふみ)あり。おどろきて見れば、歌(うた)あり。   かの子、いたううち泣きて詠める。   昔、男がいた。(男の)官位は低かったが、母は皇女であった。その母は長岡という所に住んでいらっしゃた。 子は京で宮仕えをしていたので、母のもとに参上しようとしたけれど、たびたびは参上できない。(男は、母の)一人っ子でさえあったので、たいへんかわいがっていらっしゃった。 そうしているうちに十二月ごろに、急な用事だといって、(母からの)お手紙があった。(男が)驚いて(手紙を)見ると、歌がある。 この子(=男)は、たいそう泣いて、歌を呼んだ。 (第八十四段)
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小式部内侍(こしきぶのないし)は女性貴族で、歌人。 小式部内侍の母親は、和泉式部(いずみしきぶ)。和泉式部は、この時代のとても有名な歌人。 この作品で描かれる場面まで、小式部内侍は代作を疑われていた。母親の和泉式部に和歌を作ってもらっているのでは、と疑われていた。 その疑惑のことで、定頼中納言(さだよりのちゅうなごん)にからかわれたので、小式部内侍は即興で和歌を作った。 その和歌が、 である。 大江山とか「いくの」(生野)は、母親のいる丹後の国に関わる地名。 「大江山・・・」の和歌を詠んだ人物は小式部内侍(こしきぶのないし)である。本作品には歌人が多く出てくるので、読者は間違えないようにしよう。 さて、和歌を詠まれた相手は、べつの和歌を読んで返歌するのが礼儀だった。 しかし定頼は返歌できなかった。急に小式部内侍に和歌を読まれたことと、和歌があまりにも見事だったからであろう。定頼も歌人なので、歌人ともあろうものが、返歌を出来なかったのである。しかも、先に相手をからっかたのは、そもそも定頼のほうである。 そして返歌できなかった定頼は、その場から、あわてて立ち去るはめになった。 この話は、『十訓抄』(じっきんしょう)の「人倫を侮るべからず」(じんりんをあなどるべからず、意味:人を、あなどってはいけない。)の節に書かれている逸話。 和泉式部(いづみしきぶ)、保昌(やすまさ)が妻(め)にて、丹後(たんご)に下りけるほどに、京に歌合(うたあはせ)ありけるに、小式部内侍(こしきぶのないし)、歌詠みにとられて、歌を詠みけるに、定頼中納言(さだよりのちゆうなごん)戯れて(たはぶれて)、小式部内侍、局にありけるに、「丹後へ遣はしける人は参りたりや。いかに心もとなく 思す(おぼす)らむ。」と言ひて、局(つぼね)の前を過ぎられけるを、御簾(みす)より半ら(なから)ばかり出でて、わづかに直衣(なほし)の袖を控へて    と詠みかけけり。思はずにあさましくて、「こはいかに、かかるやうやはある。」とばかり言ひて、返歌にも及ばず、袖を引き放ちて逃げられけり。 小式部、これより、歌詠みの世におぼえ出で来にけり。 これはうちまかせて理運のことなれども、かの卿(きやう)の心には、これほどの歌、ただいま詠み出だすべしとは、知らざりけるにや。 (小式部内侍の母の)和泉式部が、(藤原)保昌の妻として、丹後の国に下っていたころ、京で歌合せがあったが、小式部内侍が(歌合せの)詠み手に選ばれて、(和歌を)詠んだのだが、定頼中納言がふざけて、小式部内侍が(局に)いたときに、「(母君のいる)丹後へ出した使いの者は、帰ってまいりましたか。どんなにか待ち遠しくお思いでしょう。」と言って、局の前を通り過ぎなさるのを、(小式部内侍が)御簾から半分ほど(身を)乗り出して、少しだけ(中納言の)直衣の袖を引っ張って、(小式部は和歌を読み、) と詠んだ。 (定頼中納言は)思いがけなかったのか、驚いて、「これはどうしたことだ。こんなことがあろうか。(ありえないほどに素晴らしい和歌である。)」と言って、返歌もできずに、(引っ張られていた)袖を引き払って、お逃げになった。 小式部は、この時から、歌人の世界での評判が上がった。(※別訳あり: 歌人としての評判が世間で上がった。) これは、普通の、理にかなったことなのだが、あの(中納言)卿の心には、(小式部が)これほどの歌をとっさに読み出すことができるとは、思ってもいらっしゃらなかったのだろうか。
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今は昔、阿蘇のなにがしといふ史(さくわん)ありけり。たけ短(ひき)なりけれども、魂はいみじき盗人にてぞありける。家は西の京にありければ、公事(くじ)ありて内(うち)に参りて、夜ふけて家に帰りけるに、東(ひむがし)の中の御門(mかど)より出でて車に乗りて、大宮下り(おほみやくだり)にやらせて行きけるに、着たる装束(さうぞく)を皆解きて、片端より皆たたみて、車の畳の下にうるはしく置きて、その上に畳を敷きて、史は冠(かむり)をし、襪(したうづ)をはきて、裸になりて車の内に居たり。 さて二條より西様(にしざま)にやらせて行くに、美福門(びふくもん)のほどを過ぐる間に、盗人、傍らよりはらはらと出で来ぬ。車の轅(ながえ)につきて、牛飼ひ童(わらは)を打てば、童は牛を棄てて(すてて)逃げぬ。車の後(しり)に雑色(ざふしき)二、三人ありけるも、皆逃げて去り去りにけり。盗人寄り来たりて、車の簾(すだれ)を引開けて見るに、裸にて史居たれば、盗人、「あさまし。」と思ひて、「こはいかに。」と問へば、史、「東の大宮にて、かくの如くなりつる。君達(きんだち)寄り来て己が装束をば皆召しつ。」と、笏(しゃく)を取りて、よき人に物申すやうにかしこまりて答へければ、盗人笑ひて棄てて去りにけり。その後、史、声をあげて牛飼童をも呼びければ、皆出で来にけり。それよりなむ家に帰りにける。 さて妻にこの由を語りければ、妻のいはく、「その盗人にもまさりたりける心にておはしける。」と言ひてぞ笑ひける。まことにいとおそろしき心なり。装束を皆解きて隠し置きて、しか云はむと思ひける心ばせ、さらに人の思ひ寄るべき事にあらず。 この史は、極めたる物云ひにてなむありければ、かくも云ふなりけりとなむ語り伝へたるとや。
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作者の兼好法師は、鎌倉時代の人物。 本名は、卜部兼良(うらべ かねよし)。 はじめは、卜部家が代々、朝廷に神職として仕えていたので、兼好法師も後二条天皇に仕えていたが、のちに兼好法師は出家した。 京都の「吉田」という場所に住んでいたので、吉田兼好(よしだけんこう)ともいう。 花や月は、花の咲いている頃や、夜空に曇りの無い月など、その時期が見所とされている。それ自体は、当然な感想であり、べつに悪くは無いけれど、いっぽうの咲いてない花や曇りや雨の夜空にも、また、見所がある。しかし、情趣を解しない人は、咲いている花だけしか楽しもうとしないようだ。 花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ込めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。 歌の詞書(ことばがき)にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ。」とも、「障ることありてまからで。」なども書けるは、 「花を見て。」と言へるに劣れることかは。花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝かの枝、散りにけり。今は見どころなし。」などは言ふめる。 (はたして、)桜の花は咲いているときだけを見るべきだろうか、月は曇りないときだけを見るべきなのだろうか。(いや、そうではない。)  雨に向かって月を見るのも、(家の中で、すだれを)垂れ込めて春の行方を知らないのも、やはり、しみじみとして趣深い。今にも咲きそうな梢(こずえ)や、(既に)散ってしまった庭も、見所が多いだろう。 歌の詞書(ことばがき)にも、「花見に参ったところ、とっくに散り去ってしまったので。」とか、「都合の悪いことがあってまいりませんで。」などと書いてあるのは、「花を見て。」と言ってるのに(比べて)劣っていることだろうか。(いや、そうではない。) 花が散り、月が傾くのを慕う風習は当然なことだけど、(しかし、)特に情趣の無い人は、「この枝も、あの枝も、散ってしまった。今は見どころが無い。」などと言うようだ。 どんなことも始めと終わりにこそ趣があるものだ。恋愛も、男女が会うばかりが趣ではない。会えずにいても、一人で相手のことを思いながらしみじみとするのも、恋の情趣であろう。 よろづのことも、始め終はりこそをかしけれ。 男女(をとこをんな)の情けも、ひとへに 逢ひ(あひ、アイ)見るをば言ふものかは。逢はで(あはで)止み(やみ)にし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅(あさぢ)が宿に昔をしのぶこそ、色好むとはいはめ。 どんなことも、(盛りよりも)始めと終わりにこそ趣がある。男女の恋愛も、(はたして)ひたすら逢って契りを結ぶのを(「恋」と)言うのだろうか。(いや、そうではない。)  会わないで終わってしまったつらさを思い、(約束の果たされなかった)はかない約束を嘆き、長い夜を一人で明かし、遠い大空の下にいる恋人を思いうかべて、茅が茂る荒れはてた住まいで昔(の恋人)をしみじみと思うことこそ、恋の情趣を理解しているのだろう。 月見についても、満月よりも、他の月を見ほうが趣深いだろう。 望月の隈(くま)なきを、千里の外まで眺めたる(ながめたる)よりも、暁近くなりて待ち出で(いで)たるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。椎柴(しひしば)・白樫(しらかば)などの、ぬれたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらむ友もがなと、都恋しうおぼゆれ。 (月見についても、)満月でかげりや曇りなく照っているのを、(はるか遠く)千里のかなたまで眺めているのよりも、(むしろ)明け方近くになって、待ちこがれた(末に出た)月が、たいそう趣深く、青味を帯びているようで、深い山の木々の梢(ごし)に見えているのや、木の間(ごし)の(月の)光や、さっと時雨(しぐれ)を降らせた一群の雲に(月が)隠れている様子は、この上なく趣深い。 椎柴(しいしば)・白樫(しらかば)などの、濡れているような葉の上に(月の光が)きらめいているのは、心にしみて、情趣を解する友人がいたらなあ、と都が恋しく思われる。 月見や花見は、直接に目で見るのを楽しむべきではなく、心で楽しむことこそ、趣深いことだ。だから、情趣のある人の楽しみ方は、あっさりしている。情趣の無い人は、なにごとも、物質的に、視覚的に、直接に楽しむ。 すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)のうちながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり。片田舎の人こそ、色濃くよろづはもて興ずれ。花のもとには、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒のみ、連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手・足さしひたして、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見る事なし。 総じて、月や(桜の)花を、そのように目でばかり見るものだろうか。(いや、そうではない。) 春は(べつに、桜の花見のために)家から外に出なくても、月の夜は寝室の中にいるままでも、(桜や月を)思っていることこそ、たいへん期待ができて、趣深いことである。 情趣のある人は、むやみに好みにふけっている様子にも見えず、楽しむ様子もあっさりしている。(無教養な)片田舎の人にかぎって、しつこく、なんでも(直接的に)楽しむ。 (たとえば春の)花の下では、寄って近づきよそ見もしないでじっと見つめて、酒を飲んで連歌して、しまいには大きな枝を思慮分別なく折り取ってしまう。 (夏には、田舎者は)泉に手足をつけて(楽しみ)、(冬には)雪には下りたって足跡をつけるなどして、どんなものも、離れたままで見ることが(田舎者には)ない。 (第一三七段) 「猫また」と言う怪獣が出るという、うわさを聞いていた連歌法師が、ある日の夜、動物に飛び掛られたので、てっきり猫またに襲われていると思って、おどろいて川に飛び込んだ。 実は、法師の飼い犬がじゃれて飛びついただけだった。 「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなる。」と人の言ひけるに、 「山ならねども、これらにも、猫の経上りて、猫またに成りて、人とる事はあなるものを。」 と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏(なにあみだぶつ)とかや、連歌(れんが)しける法師の、行願寺(ぎやうぐわんじ)のほとりにありけるが聞きて、ひとりありかん身は心すべきことにこそと思ひけるころしも、ある所にて夜更くる(ふくる)まで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず、足許へふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸(くび)のほどを食はんとす。肝心(きもごころ)も失せて(うせて)、防かんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転び入りて、 「助けよや、猫また。よや、よや。」 と叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。 「こはいかに。」 とて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物(かけもの)取りて、扇(おふぎ)・小箱など懐(ひところ)に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、這ふ這ふ(はふはふ)家に入りけり。 飼ひける犬の、暗けれど、主(ぬし)を知りて、飛び付きたりけるとぞ。 山奥に猫またというもの(=化け物、妖怪)がいて、人を食うそうだ、とある人が言った。 「(ここは)山ではないけれど、このあたりにも、猫が年を取って変化して、猫またになって、人をとって食らうことがあるというのだよ。」 と言う者がいたので、なんとか阿弥陀仏とかいう連歌を(仕事または趣味などに)している法師で、行願寺の付近に住んでいた者がこれを聞いて、一人歩きをする者は用心すべきことであるな思った頃、ある所で夜が更けるまで連歌をして、たった一人で帰るときに、小川のほとりで、うわさに聞いていた猫また、(猫またの)狙いたがわずに首のあたりに食いつこうとする。 (法師は)正気も失って、防ごうとするが力も出ず、(腰が抜けて)足も立たず、小川へ転がりこんで、 「助けてくれ。猫まただ。おーい。」 と叫ぶので、 (近くの)家々から、(人々が) 松明(たいまつ)をともして走り寄ってみると、(助けを求めてる人は)このあたりで顔見知りの僧だった。 (人々は)「これは、どうしたことか。」 と言って、川の中から抱き起こしたところ、連歌で受け取っていた賞品の扇・小箱など、懐に入れていたのも、水につかってしまった。 (僧の態度は)かろうじて助かったという様子で、這うようにして家に入っていった。 (第八十九段) この時点では、連歌法師は、まだ「猫また」だと思ってた動物が飼い犬だと気づいていないか、あるいは、まだ腰を抜かした様子が直ってないのだろう。 おそらく作者の気持ちでは、笑い話、と思ってるのだろう。 作者の兼好法師も、職業が同じく「法師」なので、作者は色々と思うところがあっただろう。 後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)が亀山殿(かめやまどの)の御池(みいけ)に大井川(おおいがわ)の水を引き入れようとして、地元の大井の住人に水車を造らせて、水車は組みあがったが、思うように回ってくれず、水を御池に組み入れることができない。 そこで、水車作りの名所である宇治から人を呼び寄せて、水車を作らせたところ、今度の水車は、思いどおりに回ってくれて、御池に川の水を汲み入れることができた。 何事につけても、その道の専門家は、貴重なものである。 亀山殿(かめやまどの)の御池(みいけ)に、大井川(おほゐがは、オオイガワ)の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて(おほせて)、水車(みづぐるま)を造らせられけり。多くの銭(あし)を賜ひて(たまひて)、数日(すじつ)に営み出(い)だして、掛けたりけるに、おほかた廻(めぐ)らざりければ、とかく直しけれども、つひに回らで、いたづらに立てりけり。さて、宇治(うぢ)の里人(さとびと)を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み(くみ)入るること、めでたかりけり。 万(よろづ)に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。 (後嵯峨上皇は)亀山殿(かめやまどの)の御池(みいけ)に、大井川(オオイガワ)の水を引き入れようとして、大井の住民にお命じになって、水車(みづぐるま)を造らせなさった。多くの銭をお与えになって、数日で造り上げて、(川に)掛けたが、まったく回らなかったので、あれこれと直したけれども、とうとう回らないで、(水車は)何の役にも立たずに立っていた。 そこで、(水車づくりの名所である)宇治(うぢ)の里の人をお呼びになって、(水車を)お造らせになると、容易に組み上げてさしあげた水車が、思いどおりに回って、水を汲み(くみ)入れる事が、みごとであった。 何事につけても、その(専門の)道に詳しい者は、貴重なものである。 (第五一段) 木登りの名人が、他人を木に登らせるとき、登っているときには注意しないで、下りてきてから気をつけるように注意していた。筆者の兼好法師が、わけを尋ねたところ、「人間は、自分が危険な高い場所にいる時には、本人も用心するので、私は注意しないのです。ですが、降りるときは安心してしまうので、用心しなくなってしまいがちなので、用心させるように注意するのです。失敗は、むしろ安全そうな時にこそ、起こりやすいのです。」と言うようなことを言った。 木登り名人の意見は、身分の低い者の意見だが、聖人の教えにも匹敵するような、立派な教訓であろう。 高名(かうみやう)の木登りと言ひし男、人を掟てて(おきてて)、高き木に登せて梢(こずゑ)を切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに軒たけばかりになりて、 「過ちすな。心して降りよ。」 とことばをかけ侍りしを、 「かばかりになりては、飛び降るるとも降りなん。いかにかく言ふぞ。」 と申し侍りしかば、 「そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、己が恐れ侍れば申さず。過ち(あやまち)は、安き(やすき)ところになりて、必ず仕まつる(つかまつる)ことに候ふ。」 と言ふ。 あやしき下臈(げらふ)なれども、聖人(せいじん)の戒めにかなへり。鞠(まり)も、難きところを蹴(け)いだしてのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらん。    有名な木登り(の名人だ、)と(世間が)言う男が、人を指図して、高い木に登らせて梢を切らせる時に、とても危険に見えるときには(注意を)言わないで、下りようとする時に、軒の高さほどになってから、「失敗をするな。注意して降りろ。」と言葉をかけましたので、(私は不思議に思って、わけを尋ねたました。そして私は言った。)「これくらいになっては、飛び降りても下りられるだろう。どうして、このように言うのか。」と申しましたところ、(木登りの名人は答えた、)「そのことでございます(か)。(高い所で)目がくらくらして、枝が危ないくらいの(高さの)時は、本人(=登ってる人)が怖い(こわい)と思い(用心し)ますので、(注意を)申しません。過ちは安心できそうなところになって(こそ)、きっと、いたすものでございます。」と言う。 (木登り名人の意見は、)身分の低い者の意見だが、聖人の教えにも匹敵する。蹴鞠(けまり)も、難しいところを蹴り出した後、安心だと思うと、必ず地面に落ちると(いう教えが)あるようです。 (第一〇九段) 京都の丹波にある神社は、出雲大社から神霊を分けてもらっている。つまり、複数の神社で、同じ神がまつられている。 出雲大社の主神は大国主(オオクニヌシ)。 丹波の国にある出雲神社を、聖海上人(しょうかいしょうにん)が大勢の人たちといっしょに参拝した。 社殿の前にある像の、狛犬(こまいぬ)の像と獅子(しし)の像とが背中合わせになっているのを見て、聖海上人は早合点をして、きっと深い理由があるのだろうと思い込み、しまいには上人は感動のあまり、上人は涙まで流し始めた。 そして、出雲大社の神官に像の向きの理由を尋ねたところ、子供のいたずらだと言われ、神官は像の向きを元通りに直してた。 上人の涙は無駄になってしまった。 丹波に出雲といふ所あり。大社(おほやしろ)を移して、めでたく造れり。しだのなにがしとかやしる所なれば、秋のころ、聖海上人(しやうかいしやうにん)、その他も人あまた誘ひて、「いざ給へ(たまへ)、出雲拝みに。掻餅(かいもちひ)召させん。」とて具しもて行きたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。 御前(おまへ)なる獅子(しし)・狛犬(こまいぬ)、背きて、後さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝のことは御覧じとがめずや。無下(むげ)なり。」と言へば、おのおのあやしみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社(みやしろ)の獅子の立てられやう、さだめて習ひある事に侍らん。ちと承らばや。」と言はれければ、「そのことに候ふ(さふらふ)。さがなき童(わらはべ)どもの仕り(つかまつり)ける、奇怪に候うことなり。」とて、さし寄りて、据ゑ直して、往に(いに)ければ、上人の感涙いたづらになりにけり。 丹波の国に出雲という所がある。出雲大社(の神霊)を移して、立派に造ってある。しだの何とかと言う人の治めている所なので、秋の頃に、(しだの何とかが誘って)聖海上人や、その他の人たちも大勢誘って、「さあ、行きましょう。出雲の神社を参拝に。ぼた餅をごちそうしましょう。」と言って(一行を)連れて行って、皆がそれぞれ拝んで、たいそう信仰心を起こした。 社殿の御前にある獅子と狛犬が、背中合わせに向いていて、後ろ向きに立っていたので、上人は(早合点して)とても感動して、「ああ、すばらしい。この獅子の立ち方は、とても珍しい。(きっと)深い理由があるのだろう。」と涙ぐんで、 「なんと、皆さん。この素晴らしいことをご覧になって、気にならないのですか。(そうだとしたら)ひどすぎます。」と言ったので、皆もそれぞれ不思議がって、「本当に他とは違っているなあ。都への土産話として話そう。」などと言い、上人は、さらに(いわれを)知りたがって、年配で物をわきまえていそうな顔をしている神官を呼んで、(上人は尋ね)「この神社の獅子の立てられ方、きっといわれのある事なのでしょう。ちょっと承りたい。(=お聞きしたい)」と言いなさったので、(神官は)「そのことでございすか。いたずらな子供たちのしたことです、けしからぬことです。」と言って、(像に)近寄って置き直して、行ってしまったので、上人の感涙は無駄になってしまった。 (第二三六段) 九月二十日のころ、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて、入りたまひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬにほひ、しめやかにうちかをりて、しのびたるけはひ、いとものあはれなり。 よきほどにて出でたまひぬれど、なほ、事ざまの優におぼえて、物のかくれよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらしまかば、口をしからまし。あとまで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。その人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし。 これも仁和寺の法師、童(わらは)の法師にならんとする名残とて、おのおの遊ぶことありけるに、酔ひて(ゑひて)興に入るあまり、傍らなる足鼎(あしがなへ)を取りて、頭(かしら)にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおし平めて、顔をさし入れて舞ひ出でたるに、満座興に入ること限りなし。 しばしかなでて後(のち)、抜かんとするに、おほかた抜かれず。酒宴ことさめて、いかがはせんと惑ひけり。とかくすれば、首のまはり欠けて、血垂り、ただ腫れ(はれ)に腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪へがたかりければ、かなはで、すべきやうなくて、三つ足なる角(つの)の上に帷子(かたびら)をうちかけて、手を引き杖をつかせて、京なる医師(くすし)のがり率て行きける道すがら、人のあやしみ見ること限りなし。 医師のもとにさし入りて、向かひゐたりけんありさま、さこそ異様(ことやう)なりけめ。ものを言ふも、くぐもり声に響きて聞こえず。「かかることは、文にも見えず、伝へたる教へもなし。」と言へば、また仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんともおぼえず。 かかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。ただ力を立てて引きたまへ。」とて、藁のしべをまはりにさし入れて、かねを隔てて、首もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。 静かに思へば、よろづに過ぎにし方の恋しさのみぞ、せん方(かた)なき。 人静まりて後(のち)、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、残し置かじと思ふ反古など破り棄つる中に、亡き人の手習ひ、絵描きすさびたる、見出でたるこそ、ただ、その折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、あはれなる ぞかし。手なれし具足なども、心もなくて変はらず久しき、いとかなし。
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本記事では、高校教育の重要度の順に、「木曾の最後」を先に記述している。 原著での掲載順は 祇園精舎 → 富士川 → 木曾の最後 。 平家物語の作者は不明だが、琵琶法師などによって語りつがれた。 作中で出てくる平清盛(たいらのきよもり)も、源義経(みなもとのよしつね)も、実在した人物。作中で書かれる「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)などの合戦(かっせん)も、実際の歴史上の出来事。 作者は不明。 平家(へいけ)という武士(ぶし)の日本を支配(しはい)した一族が、源氏(げんじ)という新たに勢力の強まった新興の武士に、ほろぼされる歴史という実際の出来事をもとにした、物語。 平安時代から鎌倉時代に時代が変わるときの、源氏(げんじ)と平氏(へいし)との戦争をもとにした物語。 なお、平家がほろび、源氏の源頼朝(みなもとのよりとも)が政権をうばいとって、鎌倉時代が始まる。 『平家物語』の文体は、漢文ではなく和文であるが、漢文の書き下しっぽい言い回しの多い文体であり、このような文体を和漢混淆文(わかんこんこうぶん)という。 なお、日本最古の和漢混淆文は、平安末期の作品の『今昔物語』(こんじゃく ものがたり)だと言われている。(『平家物語』は最古ではないので、気をつけよう。)平家物語が書かれた時代は鎌倉時代である。おなじく鎌倉時代の作品である『徒然草』(つれづれぐさ)や『方丈記』(ほうじょうき)も和漢混淆文と言われている。(要するに、鎌倉時代には和漢混淆文が流行した。) 現代では、戦争を描写した古典物語のことを「軍記物語」(ぐんきものがたり)と一般に言う。 日本の古典における軍記物語の代表例として、平家物語が紹介されることも多い。略して「軍記物」(ぐんきもの)という事も覆い。 じつは、日本最古の軍記モノは平家物語ではないかもしれず、鎌倉初期の『保元物語』(ほうげんものがたり)や『平治物語』(へいじものがたり)という作品が知られており現代にも文章が伝えられているが、しかし成立の時期についてはあまり解明されてない。 『平家物語』『保元物語』『平時物語』の成立の順序は不明である。 軍記物の『太平記』や『保元物語』などの多くの軍記物な文芸作品でも、和漢混淆文が多く採用された。 下記の文中に出てくる人物「巴」(ともえ)は、歴史上は実在しなかった、架空の人物の可能性がある。そのため読者は、中学高校の歴史教科書では、巴を実在人物としては習わないだろう。 木曾義仲(きそよしなか)の軍勢は、敵の源範頼(のりより)・源義経(よしつね)らの軍勢と戦争をしていた。 木曾方が劣勢であった。 どんどんと木曾方の兵は討ち取られ、ついに木曾方の数は、木曽義仲と今井四朗(いまいのしろう)だけの二騎になってしまった。 今井四朗は、義仲に、敵兵の雑兵(ぞうひょう)に討ち取られるよりも自害こそが武士の名誉だと薦めて(すすめて)、義仲も自害をすることに同意する。 義仲の自害が終わるまで、四朗が敵を防ぐはずだった。 だが、四朗の防戦中に、義仲が自害するよりも前に、敵兵に討ち取られてしまった。もはや今井四朗には、戦う理由も目的も無くなったので、今井四朗は自害した。 木曾義仲(きそよしなか)の軍勢は、敵の源範頼(のりより)・源義経(よしつね)らの軍勢と戦争をしていた。木曾方が劣勢であった。 どんどんと木曾方の兵は討ち取られ、ついに木曾方の数は、木曽義仲と今井四朗(いまいのしろう)だけの二騎になってしまった。 今井四朗は、義仲に、敵兵の雑兵(ぞうひょう)に討ち取られるよりも自害こそが武士の名誉だと薦めて(すすめて)、義仲も自害をすることに同意する。 予定では、義仲は粟津(あわづ)の松原で自害をする予定だった。 義仲の自害が終わるまで、四朗が敵を防ぐために戦う予定だった。 敵勢が五十騎ほど現れた。 木曾は粟津の松原へと駆けつけた。 今井四郎(いまゐのしらう、イマイノシロウ)、木曾殿(きそどの)、主従二騎になつて、のたまひ(イ)けるは、「日ごろは何ともおぼえぬ鎧(よろひ、ヨロイ)が、今日は重うなつたるぞや。」今井四郎申しけるは、「御身(おんみ)もいまだ疲れさせ給わず(タマワズ)。御馬(おんま)も弱り候はず(さうらはず、ソウロワズ)。何によつてか一領の御着背長(おんきせなが)を重うは思しめし(おぼしめし)候ふ(ウ)べき。それは御方(みかた)に御勢(おんせい)が候は(ワ)ねば、臆病でこそ、さはおぼし召し候へ。兼平(かねひら)一人(いちにん)候ふとも、余(よ)の武者千騎(せんぎ)とおぼし召せ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き(ふせき)矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津(あはづ、アワヅ)の松原(まつばら)と申す。あの松の中で御自害(おんじがい)候へ。」とて、打つて行くほどに、また新手(あらて)の武者、五十騎ばかり出で来たり。 「君はあの松原へ入らせ(いらせ)たまへ。兼平はこの敵(かたき)防き候はん。」と申しければ、木曾殿のたまひ(イ)けるは、「義仲(よしなか)、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝(なんぢ、ナンジ)と一所で(いつしょで)死なんと思ふためなり。所々で(ところどころで)討たれんよりも、一所で(ひとところ)こそ討死(うちじに)をもせめ」とて、馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、今井四郎、馬より飛び降り、主(しゅ)の馬の口に取りついて申しけるは、「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名(かうみょう、コウミョウ)候へども、最後の時不覚しつれば、長き疵(きず)にて候ふなり。御身は疲れさせたまひて候ふ。続く勢(せい)は候はず。敵に押し隔てられ、いふかひなき(イウカイナキ)人の郎等(らうどう、ロウドウ)に組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、『さばかり日本国(にっぽんごく)に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる。』なんど申さんことこそ口惜しう(くちをしう、クチオシュウ)候へ。ただあの松原へ入らせたまへ。」と申しければ、木曾、「さらば。」とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ(タモウ)。 今井四郎と、木曾殿は、(ついに)主従二騎になって、(木曾殿が)おっしゃったことは、「ふだんは何とも感じない鎧が、今日は重く(感じられるように)なったぞ。」 (木曾殿の発言に対して、)今井四郎が申し上げたことには、「お体も、いまだお疲れになっていませんし、お馬も弱っていません。どうして、一着の鎧を重く思いになるはずがございましょうか。それは、見方に軍勢がございませんので、気落ちして、そのようにお思いになるのです。(残った味方は、この私、今井四郎)兼平ひとり(だけ)でございますが、他の武者の千騎だとお思いください。(残った)矢が七、八本ありますので、しばらく(私が)防戦しましょう。あそこに見えますのは、粟津の松原と申します。あの松の中で自害ください。」と言って、(馬を)走らせて(進んで)いくうちに、また新手の(敵の)武者が、五十騎ほどが出てきた。(今井四郎は木曾殿に言った、)「殿は、あの松原へお入りください。兼平は、この敵を防ぎましょう。」と申したところ、木曾殿がおっしゃったことは、「(この私、木曽)義仲は、都でどのようにも(= 討ち死に)なるはずであったが、ここまで逃げてこられたのは、おまえ(=今井四郎)と同じ所で死のうと思うからだ。別々の所で討たれるよりも、同じ所で討ち死にしよう。」と言って、(木曾殿は馬の向きを敵のほうへ変え、兼平の敵方向へと向かう馬と)馬の鼻を並べて駆けようとしなさるので、今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取り付いて申し上げたことには、「武士は、(たとえ)常日頃どんなに功績がありましても、(人生の)最期のときに失敗をしますと、(末代まで続く)長い不名誉でございます。(あなたの)お体は、お疲れになっております。(味方には、もう、あとに)続く軍勢はございません。(もし二人で敵と戦って、)敵に押し隔てられて(離れ離れになってしまって)、取るに足りない(敵の)人の(身分の低い)家来によって(あなたが)組み落とされて、お討たれになられましたら、(世間は)『あれほど日本国で有名でいらっしゃった木曾殿を、誰それの家来が討ち申しあげた。』などと申すようなことが残念でございます。ただ、(とにかく殿は、)あの松原へお入りください。」と申し上げたので、木曾は、「それならば。」と言って、粟津の松原へ(馬を)走らせなさる。 今井四朗は、たったの一騎で、敵50騎と戦うために敵50騎の中に駆け入り、四朗は名乗りを上げて、四朗は弓矢や刀で戦う。敵も応戦し、今井四朗を殺そうと包囲して矢を射るが、今井四朗の鎧(よろい)に防がれ傷を負わすことが出来なかった。 今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙(あぶみ)踏ん張り立ち上がり、大音声(だいおんじやう)あげて名乗りけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曾殿の御 乳母子(めのとご)、今井四郎兼平、生年(しやうねん)三十三にまかりなる。さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平討つて見参(げんざん)に入れよ。」とて、射残したる八筋(やすぢ)の矢を、差しつめ引きつめ、さんざんに射る。死生(ししやう)は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後、打ち物抜いてあれに馳せ(はせ)合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、面(おもて)を合はする者ぞなき。分捕り(ぶんどり)あまたしたりけり。ただ、「射取れや。」とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧よければ裏かかず、あき間を射ねば手も負はず。 今井四郎はたったの一騎で、五十騎ばかりの(敵の)中へ駆け入り、鐙(あぶみ)に踏ん張って立ち上がり、大声を上げて(敵に)名乗ったことは、「日ごろは、うわさで聞いていたであろうが、今は目で見なされ。木曾殿の御乳母子(である)、今井四郎兼平、年齢は三十三歳になり申す。そういう者がいることは、鎌倉殿(=源頼朝)までご存知であろうぞ。(この私、)兼平を討ち取って(鎌倉殿に)お目にかけよ。」と言って、射残した八本の矢を、つがえては引き、つがえては引き、次々に射る。(射られた敵の)生死のほどは分からないが、たちまち敵の八騎を射落とす。それから、刀を抜いて、あちらに(馬を)走らせ(戦い)、こちらに走らせ(戦い)、(敵を)切り回るので、面と向かって立ち向かう者もいない。(多くの敵を殺して、首や武器など)多くを奪った。(敵は、)ただ「射殺せよ。」と言って、(兼平を殺そうと包囲して、敵陣の)中に取り込み、(いっせいに矢を放ち、まるで矢を)雨が降るように(大量に)射たけれど、(兼平は無事であり、兼平の)鎧(よろい)が良いので裏まで矢が通らず、(敵の矢は)よろいの隙間を射ないので(兼平は)傷も負わない。 今井四郎が防戦していたそのころ、義仲は自害の準備のため、粟津(あわづ)の松原に駆け込んでいた。 しかし、義仲の自害の前に、義仲は敵に射られてしまい、そして義仲は討ち取られてしまった。 もはや今井四郎が戦いつづける理由は無く、そのため、今井四郎は自害のため、自らの首を貫き、今井四郎は自害した。 木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日、入相(いりあひ)ばかりのことなるに、薄氷(うすごほり)張つたりけり、深田(ふかた)ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てどもはたらかず。今井が行方の覚束なさに振り仰ぎ給へる内甲(うちかぶと)を、三浦(みうら)の石田次郎為久(いしだじらうためひさ)、追つかかつて、よつ引いて、ひやうふつと射る。痛手(いたで)なれば、真向(まつかう、真甲)を馬の頭に当てて俯し給へる処に、石田が郎等二人(ににん)落ち合うて、つひに木曾殿の首をば取つてんげり。太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を挙げて「この日ごろ日本国に聞こえさせ給つる木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや。」と名乗りければ、今井四郎、いくさしけるがこれを聞き、「今は、誰(たれ)をかばはんとてかいくさをばすべき。これを見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛(かう)の者の自害する手本。」とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せ(うせ)にける。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。 木曾殿はたったの一騎で、粟津の松原へ駆けなさるが、(その日は)正月二十一日、夕暮れ時のことであるので、 (田に)薄氷が張っていたが(気づかず)、深い田があるとも知らずに、(田に)馬をざっと乗り入れてしまったので、馬の頭も見えなくなってしまった。(あぶみでは馬の腹をけって)あおっても、あおっても、(むちを)打っても打っても、(馬は)動かない。(義仲は)今井の行方が気がかりになり、振り返りなさった(とき)、(敵の矢が)甲(かぶと)の内側を(射て)、(その矢は)三浦(みうら)の石田次郎為久(いしだじらうためひさ)が追いかかって、十分に(弓を)引いて、ピューと射る(矢である)。(木曾殿は)深い傷を負ったので、甲の正面を馬の頭に当ててうつぶせになさったところ石田の家来が二人来合わせて、ついに木曾殿の首を取ってしまった。 太刀の先に(義仲の首を)貫き、高く差し上げ、大声を挙げて「このごろ、日本国に名声の知れ渡っている木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ち取り申し上げたぞ。」と名乗ったので、今井四郎は、戦っていたが、これを聞き、(今井四郎は言った、) 「今は、誰をかばおうとして、戦いをする必要があるか。これを(=私を)ご覧になされ、東国の方々。日本一の勇猛な者が自害する手本を。」と言って、(今井は自害のため)太刀の先を口に含み、馬上から逆さまに飛び落り、(首を)貫いて死んだのである。そのようないきさつで、粟津の戦いは終わった。 (巻九) 木曾義仲(きそよしなか)の軍勢は、源義経の軍勢と戦っていた。 義仲の軍勢は、この時点の最初は300騎ほどだったが、次々と仲間を討たれてしまい、ついに主従あわせて、たったの5騎になってしまう。 義仲は、ともに戦ってきた女武者の巴(ともえ)に、落ちのびるように説得した。 巴は最後の戦いとして、近くに来た敵の首を討ち取り、ねじ切った。そして巴は東国へと落ちのびていった。 木曾左馬頭(さまのかみ)、その日の装束には、赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に唐綾威(からあやをどし)の鎧(よろひ)着て、鍬形(くはがた)打つたる甲(かぶと)の緒(を)しめ、厳物(いかもの)作り(づくり)の大太刀(おほだち)はき、石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々のこったるを、頭高(かしらだか)に負ひなし、滋籐(しげどう)の弓もって、聞こゆる(きこゆる)木曾の鬼葦毛(おにあしげ)といふ馬の、きはめて太う(ふとう)たくましいに、金覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)置いてぞ乗つたりける。鐙(あぶみ)踏んばり立ちあがり、大音声(だいおんじやう)をあげて名のりけるは、「昔は聞きけん物を、木曾の冠者(くわんじや)、今は見るらむ、左馬頭兼伊予守(いよのかみ)、朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐(かひ)の一条次郎(いちじやうのじらう)とこそ聞け。互ひ(たがひ)によき敵(かたき)ぞ。義仲討つて(うつて)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に見せよや。」とて、をめいて駆く。一条の次郎、「ただ今名のるのは大将軍(たいしやうぐん)ぞ。あますな者ども、もらすな若党、討てや(うてや)。」とて、大勢の中にとりこめて、われ討つ取らんとぞ進みける。木曾三百余騎、六千余騎が中を。縦様(たてさま)・横様(よこさま)・蜘蛛手(くもで)・十文字に駆け割つて(かけわつて)、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破つて行くほどに、土肥次郎(とひのじらう)実平(さねひら)、二千余騎でささへたり。それをも破つて(やぶつて)行くほどに、あそこでは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割りゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。五騎が内まで巴(ともゑ)は討たざれけり。木曾殿、「おのれは、疾う疾う(とうとう)、女なれば、いづちへも行け。我は討ち死にせんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど、いはれん事もしかるべからず。」とのたまひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれ奉つて、「あっぱれ、よからう敵(かたき)がな。最後のいくさして見せ奉らん。」とて、控へたる(ひかえたる)ところに、武蔵(むさし)の国に聞こえたる大力(だいぢから)、御田八郎師重(おんだのはちらうもろしげ)、三十騎ばかりで出で来たり。巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べ、むずと取つて引き落とし、わが乗つたる鞍の前輪(まへわ)に押し付けて、ちつともはたらかさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。そののち、物具(もののぐ)脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く。手塚太郎(てづかのたらう)討ち死にす。手塚別当(べつたう)落ちにけり。 木曾左馬頭(=義仲)は、その日の装束は、赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に唐綾威(からあやをどし)の鎧(よろひ)を着て、鍬形(くわがた)の飾りを打ちつけた甲(かぶと)の緒(を)しめ、いかめしい作りの大太刀(おおだち)を(腰に)着けて、石打ちの矢で、その日の戦いに射て少し残ったのを、頭の上に出るように高く背負って、滋籐(しげどう)の弓を持って、有名な「木曾の鬼葦毛」(きそのおにあしげ)という馬の、たいそう太くたくましい馬に、金覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)を置いて乗っていた。鐙(あぶみ)を踏んばって立ちあがり、大声をあげて名乗ったことは、「以前は(うわさに)聞いていたであろう、木曾の冠者を、今は(眼前に)見るだろう、(自分は)左馬頭兼伊予守(いよのかみ)、朝日の将軍源義仲であるぞ。(おまえは)甲斐(かい)の一条次郎(いちじょうのじろう)だと聞く。お互いによき敵だ。(この自分、)義仲を討ってみて、兵衛佐(ひょうえのすけ)(=源頼朝)に見せてみろ。」と言って、叫んで馬を走らせる。一条の次郎は、「ただいま、名乗るのは(敵の)大将軍ぞ。討ち残すな者ども、討ち漏らすな若党、討ってしまえ。」と言って、大勢で(包囲しようと)中にとりこめようと、われこそが討ち取ってやろうと進んでいった。木曾の三百余騎、(敵の)六千余騎の中を(方位から抜け出ようと馬で駆け回り)、縦に、横に、八方に、十文字にと駆け走って、(敵の)後ろへつっと(抜け)出たところ、(木曾の自軍の残りは)五十騎ほどになってしまっていた。そこ(の敵)を破って行くほどに、(敵の)土肥次郎(とひのじらう)実平(さねひら)が、二千余騎で防戦していた。そこ(の敵)をも破ってゆくほどに、(木曾の兵数は討たれて減っていき)あそこでは四~五百騎、ここでは二~三百騎、百四十~五十騎、百騎ばかりが(敵勢の)中を駆け走り駆け走りしてゆくほどに、(ついに)木曾と家来あわせて五騎になってしまった。五騎の内、(まだ)巴(ともえ)は討たれていなかった。木曾殿は(巴に言った)、「おまえ(=巴)は、さっさと、(巴は)女なのだから、どこへでも逃げて行け。自分は(この戦いで)討ち死にしようと思っている。もし敵の手にかかるならば、自害をするつもりだから、木曾殿の最後のいくさに、女を連れていたなどと言われる事も、よくない。」とおっしゃるのが、それでもなお(巴は)落ちのびようと行かなかったが、(木曾殿は)あまりに(強く)言はれなさり、「ああ、(武功として)よき敵がいればなあ。最後の戦いをお見せ申し上げたい。」と言って、(敵兵を)待機していたところに、(敵勢が現れ)武蔵(むさし)の国に聞こえたる大力(だいぢから)の御田八郎師重(おんだのはちろうもろしげ)の軍勢三十騎ほどが出で来た。巴は、その中へ(自分の馬ごと)駆け入り、御田八郎の馬と並んで、むずと(御田を)掴んで引き落とし、鞍の前輪に押し付けて、ちょっとも身動きさせず、(御田の)首をねじ気って捨ててしまった。そのから(巴は)武具を脱ぎ捨てて、東国の方へと落ちのびていった。(義仲の味方の)手塚太郎(てづかのたろう)は討ち死にした。手塚の別当は逃げてしまった。 開戦の予定の前日である10月23日、平家は戦場予定地の富士川で、付近の農民たちの炊事の煙を見て源氏の軍勢の火と勘違いし、さらに水鳥の羽音を源氏の襲撃の音と勘違いして、平家は大慌てで逃げ出した。 翌10月24日、源氏が富士川にやってきて、鬨(とき)を上げた。 (※ 鬨: 戦いの始めに、自軍の士気をあげるために叫ぶ、掛け声。) さるほどに十月二十三日にもなりぬ。明日は、源平富士川にて矢合(やあはせ)と定めたりけるに、夜に入つて平家の方より、源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河(するが)の人民(にんみん)百姓等が戦におそれて、あるいは野に入り山に隠れ、あるいは舟にとり乗って、海川に浮かび、営みの火のみえけるを、平家の兵ども、「あなおびただし源氏の陣の遠火(とほひ)の多さよ。げにもまことに野も山も海も川も、みな敵(かたき)でありけり。いかがせん。」とぞ慌てける。その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらも群れ居たりける水鳥ともが、何にか驚きたりけむ、ただ一度にばつと立ちける羽音の、大風いかづちなんどのやうに聞こえければ、平家の兵ども、「すはや源氏の大勢の寄するは。斎藤(さいとう)別当が申しつるやうに、定めてからめ手もまはるらむ。取り込められてはかなふまじ。ここをば引いて、尾張(おはり)川、洲俣(すのまた)を防げや。」とて、取る物もとりあへず、われ先にとぞ落ちゆきける。あまりに慌て騒いで、弓取るものは矢を知らず、矢取るものは弓を知らず。人の馬には我乗り、わが馬をば人に乗らる。あるいはつないだる馬に乗って馳(は)すれば、杭(くひ)をめぐること限りなし。近き宿々より迎へとつて遊びける遊君遊女ども、あるいは頭(かしら)蹴割られ、腰踏み折られて、をめき叫ぶ者多かりけり。 明くる二十四日卯(う)の刻に、源氏大勢二十万騎、富士川に押し寄せて、天も響き大地も揺るぐほどに、鬨(とき)をぞ三が度、作りける。 そうしているうちに、十月二十三日になった。明日は、源氏と平氏が富士川で開戦の合図をすると決めていたが、夜になって、平家のほうから源氏の陣を見渡すと、伊豆、駿河の人民や百姓たちが戦いを恐れて、ある者は野に逃げこみ山に隠れ、(また)ある者は船に乗って(逃げ)、海や川に浮かんでいたが、炊事などの火が見えたのを、平家の兵たちが、「ああ、とても多い数の源氏の陣営の火の多さっであることよ。なんと本当に野も山も生みも川も、皆敵である。どうしよう。」と慌てた。その夜の夜半ごろ、富士の沼にたくさん群がっていた水鳥たちが、何かに驚いたのであろうか、ただ一度にばっと飛び立った羽音が、(まるで)大風や雷などのように聞こえたので、平家の兵たちは、「ああっ、源氏の大軍が攻め寄せてきたぞ。斉藤別当が申したように、きっと(源氏軍は、平家軍の)背後にも回りこもうとしているだろう。もし(源氏に)包囲されたら(平家に)勝ち目は無いだろう。ここは退却して、尾張川、洲俣で防戦するぞ。」と言って、取る物も取りあえず、われ先にと落ちていった。あまりに慌てていたので、弓を持つ者は矢を忘れて、矢を持つ者は弓を忘れる。 他人の馬には自分が乗っており、自分の馬は他人に乗られている。ある者は、つないである馬に乗って走らせたので、杭の回りをぐるぐると回りつづける。近くの宿から遊女などを迎えて遊んでいたが、ある者は頭を(馬に)蹴折られ、腰を踏み折られて、わめき叫ぶ者が多かった。 翌日の二十四日の(朝の)午前六時ごろに、源氏の大軍勢の二十万騎が、富士川に押し寄せて、天が響き大地も揺れるほどに、鬨(とき)を三度あげた。 (書き出しの部分) 祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘(かね)の声、諸行無常の響きあり。 娑羅双樹(しやらそうじゆ)の花の色、盛者必衰(じやうしや ひつすい)のことわり(理)をあらはす。 おごれる人もひさしからず、ただ春の夜(よ)の夢のごとし。たけき(猛き)者も、つひ(ツイ)にはほろびぬ ひとへに(ヒトエニ)風の前のちりに同じ。 (インドにある)祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音には、「すべてのものは、(けっして、そのままでは、いられず)かわりゆく。」ということを知らせる響きがある(ように聞こえる)。 沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色には、どんなに勢い(いきおい)のさかんな者でも、いつかはほろびゆくという道理をあらわしている(ように見える)。 おごりたかぶっている者も、その地位には、長くは、いられない。ただ、春の夜の夢のように、はかない。強い者も、最終的には、ほろんでしまう。 まるで、風に吹き飛ばされる塵(ちり)と同じようだ。 遠く異朝(いてう、イチョウ)をとぶらへば、秦(しん)の趙高(ちやうこう)、漢(かん)の王莽(おうまう、オウモウ)、梁(りやう、リョウ)の朱伊(しうい、シュウイ)、唐(たう、トウ)の禄山(ろくざん)、これらは皆(みな)、旧主先皇(せんくわう、センコウ)の政(まつりごと)にも従はず(したがはず)、楽しみを極め(きはめ)、諌め(いさめ)をも思ひ(オモイ)入れず、天下の乱れむ事を悟らず(さとらず)して、民間の愁ふる(ウレウル)ところを知らざりしかば、久しからずして、亡(ぼう)じにし者どもなり。 近く本朝(ほんてう、ホンチョウ)をうかがふに、承平(しようへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これらはおごれる心もたけき事も、皆(みな)とりどりにこそありしかども、 間近くは(まぢかくは)、六波羅(ろくはら)の入道(にふだう、ニュウドウ)前(さきの)太政大臣平朝臣(たひらのあつそん)清盛公と申しし人のありさま、伝へ(ツタエ)承る(うけたまはる、ウケタマワル)こそ、心も詞(ことば)も及ばれね(およばれね)。 遠く外国の(例を)さがせば、(中国では、)(盛者必衰の例としては)秦(しん、王朝の名)の趙高(ちょうこう、人名)、漢(かん)の王莽(おうもう、人名)、梁(りょう)の朱伊(しゅい、人名)、唐(とう)の禄山(ろくざん、人名)(などの者がおり)、これら(人)は皆、もとの主君や皇帝の政治に従うこともせず、栄華をつくし、(他人に)忠告されても深く考えず、(その結果、民衆の苦しみなどで)世の中の(政治が)乱れていくことも気づかず、民衆が嘆き訴えることを気づかず、(権力も)長く続かずに滅んでしまった者たちである。 (いっぽう、)身近に、わが国(=日本)(の例)では、承平の将門(まさかど)、天慶の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これら(の者ども)は、おごった心も、勢いの盛んさも、皆それぞれに(大したものであり、)、(こまかな違いはあったので、)まったく同じではなかったが、最近(の例)では、六波羅の入道の平清盛公と申した人の有様(ありさま)は、(とても、かつての権勢はさかんであったので、)(有様を想像する)心も、(言い表す)言葉も、不十分なほどである。 その先祖を尋ぬれば、桓武(くわんむ)天皇第五の皇子(わうじ)、一品(いつぽん)式部卿(しきぶのきやう)葛原親王(かづらはらのしんわう)九代の後胤(くだいのこういん)、讃岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)が孫(そん)、刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛朝臣(ただもりあつそん)の嫡男(ちやくなん)なり。かの親王(しんわう)の御子(みこ)高視の王(たかみのわう)、無官無位にして失せ(うせ)たまひぬ。その御子(おんこ)高望王(たかもちのわう)の時、初めて平(たひら)の姓(しやう)を賜はつて、上総介(かずさのすけ)になりたまひしより、たちまちに王氏(わうし)を出でて人臣(じんしん)に連なる。その子鎮守府将軍(ちんじゆふのしやうぐん)良望(よしもち)、のちには国香(くにか)と改む。国香より正盛に至るまで、六代は諸国の受領(じゆりやう)たりしかども、殿上(てんじやう)の仙籍(せんせき)をばいまだ許されず。 その(平清盛公の)先祖を調べてみると、(清盛は忠盛朝臣の長男であり)、桓武天皇の第五の皇子である一品式部卿葛原親王の九代目の子孫である讃岐守正盛の孫、忠盛朝臣の長男であり、刑部卿忠盛朝臣の長男である。 その(葛原)親王の御子である高視王(たかみのおう)は、無官無位のままで亡くなってしまった。その(高視王の)御子の高望王(たかもちのおう)の時に、初めて平(たいら)の姓を(朝廷から)賜わり、上総介の国司におなりになったときから、急に皇族のご身分を離れて臣下(の身分)に(ご自身の名を)連なた。その(高望王の)子の鎮守府の将軍(ちんじゅふのしょうぐん)良望(よしもち)は、のちには国香(くにか)と(名を)改めた。国香より正盛に至るまでの六代は、諸国の国守(くにのかみ)であったけど、(まだ)殿上(てんじょう)に昇殿することは、まだ許されなかった。 木曾義仲は、京の都で平家を打倒し、制圧した。しかし、木曾軍は都で乱暴をはたらき、さらに後白河法皇と木曾義仲とは対立し、そのため法王は源頼朝に木曾義仲の討伐を下した。 源頼朝は弟の範頼と義経に、木曾義仲を討伐することを命じた。 そのため、範頼・義経の軍と、対する木曾方の軍とが宇治川を挟んで対峙していた。 範頼・義経方の武将の、梶原と佐々木は、先陣争いをしていた。 富士川の渡河の先陣争いでは、佐々木が先に川を渡り終え、先陣を切った。遅れて、梶原が川を渡った。 平等院の丑寅(うしとら)、橘の小島が崎より武者二騎、引つ駆け引つ駆け出で来たり。 一騎は梶原源太景季(かぢはらげんだかげすゑ)、一騎は佐々木(ささき)四郎高綱(たかつな)なり。人目には何とも見えざりけれども、内々(ないない)は先(さき)に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段(いつたん)ばかりぞ進んだる。佐々木四郎、「この川は西国一の大河(だいが)ぞや。腹帯(はるび)の伸びて見えさうは。締めたまへ。」と言はれて、梶原さもあるらんとや思ひけん、左右(さう)の鐙(あぶみ)を踏みすかし、手綱(たづな)を馬のゆがみに捨て、腹帯を解いてぞ締めたりける。その間に佐々木はつつと馳せ(はせ)抜いて、川へざつとぞうち入れたる。梶原、たばかられぬとや思ひけん、やがて続いてうち入れたり。「いかに佐々木殿、高名(かうみやう)せうどて不覚したまふな。水の底には大綱(おほづな)あるらん。」と言ひければ、佐々木太刀(たち)を抜き、馬の足にかかりける大綱どもをば、ふつふつと打ち切り打ち切り、生食(いけずき)といふ世一(よいち)の馬には乗つたりけり、宇治川速しといへども、一文字にざつと渡いて、向かへの岸にうち上がる。梶原が乗つたりける摺墨(するすみ)は、川中(かはなか)より篦撓(のため)形(がた)に押しなされて、はるかの下よりうち上げたり。 佐々木、鐙(あぶみ)踏んばり立ち上がり、大音声(だいおんじやう)をあげて名のりけるは、「宇多(うだ)天皇より九代(くだい)の後胤(こういん)、佐々木三郎秀義(ひでよし)が四男(しなん)、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱に組めや。」とて、をめいて駆く。 平等院の北東の方向にある、橘の小島が崎から、2騎の武者が、馬で駆けて駆けてやってきた。(そのうちの)一騎は梶原源太景季(かぢはらげんだ かげすえ)、(もう一方の)一騎は佐々木四郎高綱(ささきしろう たかつな)である。他人の目には何とも(事情がありそうには)見えなかったけど、心の内では、(二人とも、われこそが)先陣を切ろうと期していたので、(その結果、)梶原景季は佐々木高綱よりも一段(=約11メートル)ほど前に進んでいる。 (おくれてしまった)佐々木四郎が、 「この川は、西国一の大河ですぞ。腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなされ。」 と言い、梶原は、そんなこともありえるのだろうと思ったのか、左右の鐙を踏ん張って、手綱を馬のたてがみに投げかけて、腹帯を解いて締めなおした。その間に、佐々木は、(梶原を)さっと追い抜いて、川へ、ざっと(馬で)乗り入れた。梶原は、だまされたと思ったのか、すぐに続いて(馬を川に)乗り入れた。 (梶原は)「やあ佐々木殿、手柄を立てようとして、失敗をなさるなよ。川の底には大網が張ってあるだろう。」と言ったので、 と言ったので、佐々木は太刀を抜いて、馬の足に引っかかっていた大網をぷっぷっと切って(進み)、(佐々木は)生食(「いけずき」)という日本一の名馬に乗っていたので、(いかに)宇治川(の流れ)が速いといっても(馬は物ともせず)、川を一直線にざっと渡って、向こう岸に上がった。 (いっぽう、)梶原の乗っていた摺墨(「するすみ」)は、川の中ほどから斜め方向に押し流されて、ずっと下流から向こう岸に上がった。 佐々木は、鐙を踏ん場って立ち上がり、大声を上げて、名乗ったことは、 「宇多天皇から9代目の末裔、佐々木三郎秀義(ひでよし)の四男、佐々木四郎高綱である。宇治川での先陣だぞ。我こそ(先陣だ)と思う者がいれば、(この)高綱と組み合ってみよ。」 と言って、大声を上げ、(敵陣へと)駆けていく。 畠山重忠(はたけやましげただ)は馬を射られた。そのため馬を下りて、水中にもぐりつつ、対岸へと渡っていった。渡河の途中、味方の大串次郎重親(おおくしじろうしげちか)が畠山につかまってきた。 畠山らが向こう岸にたどり着いて、畠山重忠が大串次郎を岸に投げ上げてやると、大串は「自分こそが徒歩での先陣だぞ。」などということを名乗りを上げたので、敵も味方も笑った。 畠山(はたけやま)、五百余騎で、やがて渡す。向かへの岸より山田次郎(やまだじらう)が放つ矢に、畠山馬の額(ひたひ)を篦深(のぶか)に射させて、弱れば、川中より弓杖(ゆんづゑ)を突いて降り立つたり。岩浪(いはなみ)、甲(かぶと)の手先へざつと押し上げけれども、事ともせず、水の底をくぐつて、向かへの岸へぞ着きにける。上がらむとすれば、後ろに者こそむずと控へたれ。 「誰そ(たそ)。」 と問へば、 「重親(しげちか)。」 と答ふ。 「いかに大串(おほぐし)か。」 「さん候ふ。」 大串次郎は畠山には烏帽子子(えぼしご)にてぞありける。 「あまりに水が速うて、馬は押し流され候ひぬ。力及ばで付きまゐらせて候ふ。」 と言ひければ、 「いつもわ殿原は、重忠(しげただ)がやうなる者にこそ助けられむずれ。」 と言ふままに、大串を引つ掲げて、岸の上へぞ投げ上げたる。投げ上げられ、ただなほつて、 「武蔵(むさし)の国の住人、大串次郎重親(しげちか)、宇治川の先陣ぞや。」 とぞ名のつたる。敵(かたき)も味方もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑ひける。 畠山は五百余騎で、すぐに渡る。向こう岸から(敵の平家軍の)山田次郎が放った矢に、畠山は馬の額を深く射られて、(馬が)弱ったので、川の中から弓を杖のかわりにして、(馬から)降り立った。(水流が)岩に当たって生じる波が、甲の吹き返しの前のほうにざぶっと吹きかかってきたけど、そんな事は気にしないで、水の底をくぐって、向こう岸に着いた。(岸に)上がろうとすると、背後で何かがぐっと引っ張っている。 (畠山が)「誰だ。」 と聞くと、 (相手は)「(大串次郎)重親。」 と答える。 「なんだ、大串か。」 「そうでございます。」 大串次郎は、畠山にとっては烏帽子子であった。 「あまりに水の流れが速くて、馬は押し流されてしまいました。(それで)しかたがないので、(あなたに)おつき申します。」 と言ったので、 「いつもお前らは、(この)重忠のような者に助けられるのだろう。」 と言うやいなや、大串を引っさげて、岸の上へと投げ上げた。 (大串は岸に)投げ上げられ、すぐに立ち上がって、 「武蔵の国の住人、大串の次郎重親、宇治川の徒歩での先陣だぞ。」(馬では、なくて。) と名乗った。 敵も味方もこれを聞いて、一度にどっと笑った。 (第九巻)
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山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師(じかくだいし)の開基(かいき)にして、ことに清閑(せいかん)の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによつて、尾花沢(をばなざわ)よりとつて返し、その間(あひ)七里ばかりなり。日いまだ暮れず。ふもとの坊に宿借りおきて、山上の堂に登る。岩に巌(いわほ)を重ねて山とし、松柏(しようはく)年旧り(ふり)、土石老いて苔(こけ)なめらかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音聞こえず。岸を巡り岩をはひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(じゃくまく)として心澄みゆくのみおぼゆ(覚ゆ)。 閑かさ(しづかささ)や岩にしみ入る蝉の声 山形領に立石寺という山寺がある。慈覚大師(じかくだいし)が開かれた寺であり、とりわけ清らかで静かな場所である。一度は見るのが良いとのこと、(そのように)人々が勧めるので、(私・芭蕉は)尾花沢(おばなざわ)から引き返し(立石寺に行った)、その間は七里ほどである。日はまだ暮れていない。ふもとの宿坊に宿を借りておいて、山の上にある堂に登る。岩の上に岩が重なってて山になっており、松や檜などの常緑樹は年を経ており、土や石も古くなって苔(こけ)がなめらかに生えており、岩の上にある堂の扉は閉まっていて、物の音が(まったく)聞こえない。(私は)崖をまわり、岩を這うようにして、寺院を参拝し、よい景色は、ひっそりと静まり返っていて、心が澄んでいくように思われた。 意味: 静かなことよ。 この落ち着きの中で鳴く蝉の声は、岩にしみ入るようである。
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中宮定子(ちゅうぐうていし)は、清少納言(せいしょうなごん)の知識を試そうとして、雪の日に、白居易(はくきょい)の詩を引用して、「香炉峰(かうろほう)の雪は、どうなってるか。」と問いかけた。清少納言は白居易の詩句のとおりに、簾(すだれ)を高く巻き上げて、中宮を満足させた。 中宮定子は、女性。藤原 定子(ふじわら の ていし)。清少納言は、中宮定子に仕えていた。 雪のいと高う降りたるを例ならず御格子(みかうし)まゐりて(参りて)、炭櫃(すびつ)に火おこして、物語などして集まりさぶらうに、「少納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪いかならむ。」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾(みす)を高く上げたれば、笑はせたまふ。人々も「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。なほ、この官の人にはさべきなめり。」と言ふ。 雪がたいそう高く降り積もっているのに、いつもと違って、御格子(みこうし)をお下ろしして、角火鉢に火を起こして、(私たち女房が)話をしながら、(中宮様のもとに)集まりお使えしていると、(中宮様が私に呼びかけ、)「少納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪は、どうなってるかね。」とおっしゃるので、御格子を(ほかの女房に)上げさせて、御簾(みす)を高く(巻き)上げたところ、(中宮様は満足して)お笑いになる (他の女房の言うには)「(私たちも)そのようなこと(=白居易の詩のこと)は知っており、歌などにまでも詠むけれど、(とっさには)思いつきませんでしたよ。(あなたは)やはり、中宮様にお仕えする人として、ふさわしいようだ。」と言う。 (第二八〇段) 品詞分解 雪(名詞)の(格助詞)いと(副詞)高う(形容詞・ク活用・連用形のウ音便)降り(ラ行四段活用・連用形)たる(存続の助動詞・連用形)を(接続助詞)、例(名詞)なら(断定の助動詞・未然形)ず(打消の助動詞・連用形)御格子(名詞)まゐり(ラ行四段活用・連用形)て(接続助詞)、炭びつ(名詞)に(格助詞)火(名詞)おこし(サ行四段活用・連用形)て(接続助詞)、物語(名詞)など(副助詞)し(サ行変格活用・連用形)て(接続助詞)集まり(ラ行四段活用・連用形)さぶらう(ハ行四段活用・連体形)に(接続助詞)、「少納言(名詞)よ(終助詞)。香炉峰(名詞)の(格助詞)雪(名詞)いかなら(形容動詞「いかなり」の未然形)む(推量の助動詞「む」の終止形)。」と(格助詞)仰せ(サ行下二段活用・未然形)らるれ(尊敬の助動詞・已然形)ば(接続助詞)、御格子(名詞)上げ(ガ行下二段活用・未然形)させ(使役の助動詞・連用形)て(接続助詞)、御簾(名詞)を(格助詞)高く(形容詞・ク活用・連用形)上げ(ガ行下二段活用・連用形)たれ(完了の助動詞・已然形)ば(接続助詞)、笑は(ハ行四段活用・未然形)せ(尊敬の助動詞・連用形)たまふ(尊敬の補助動詞・ハ行四段活用・終止形)。 人々(名詞)も(係助詞)「さる(ラ行変格活用・連体形―連体詞)こと(名詞)は(係助詞)知り(ラ行四段活用・連用形)、歌(名詞)など(副助詞)に(格助詞)さへ(副助詞)歌へ(ハ行四段活用・已然形)ど(接続助詞)、思ひ(ハ行四段活用・連用形)こそ(係助詞)よら(ラ行四段活用・未然形)ざり(打消の助動詞・連用形)つれ(完了の助動詞・已然形)。なほ(副詞)、こ(代名詞)の(格助詞)宮(名詞)の(格助詞)人(名詞)に(格助詞)は(係助詞)、さ(副詞またはラ行変格活用「さり」の連体形「さる」の撥音便無表記)べき(当然または適当の助動詞「べし」の連体形)な(断定の助動詞「なり」の連体形の撥音便無表記)めり(推定の助動詞・終止形)。」と(格助詞)言ふ(ハ行四段活用・終止形)。
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今は昔、阿蘇のなにがしといふ史(さくわん)ありけり。たけ短(ひき)なりけれども、魂はいみじき盗人にてぞありける。家は西の京にありければ、公事(くじ)ありて内(うち)に参りて、夜ふけて家に帰りけるに、東(ひむがし)の中の御門(mかど)より出でて車に乗りて、大宮下り(おほみやくだり)にやらせて行きけるに、着たる装束(さうぞく)を皆解きて、片端より皆たたみて、車の畳の下にうるはしく置きて、その上に畳を敷きて、史は冠(かむり)をし、襪(したうづ)をはきて、裸になりて車の内に居たり。 さて二條より西様(にしざま)にやらせて行くに、美福門(びふくもん)のほどを過ぐる間に、盗人、傍らよりはらはらと出で来ぬ。車の轅(ながえ)につきて、牛飼ひ童(わらは)を打てば、童は牛を棄てて(すてて)逃げぬ。車の後(しり)に雑色(ざふしき)二、三人ありけるも、皆逃げて去り去りにけり。盗人寄り来たりて、車の簾(すだれ)を引開けて見るに、裸にて史居たれば、盗人、「あさまし。」と思ひて、「こはいかに。」と問へば、史、「東の大宮にて、かくの如くなりつる。君達(きんだち)寄り来て己が装束をば皆召しつ。」と、笏(しゃく)を取りて、よき人に物申すやうにかしこまりて答へければ、盗人笑ひて棄てて去りにけり。その後、史、声をあげて牛飼童をも呼びければ、皆出で来にけり。それよりなむ家に帰りにける。 さて妻にこの由を語りければ、妻のいはく、「その盗人にもまさりたりける心にておはしける。」と言ひてぞ笑ひける。まことにいとおそろしき心なり。装束を皆解きて隠し置きて、しか云はむと思ひける心ばせ、さらに人の思ひ寄るべき事にあらず。 この史は、極めたる物云ひにてなむありければ、かくも云ふなりけりとなむ語り伝へたるとや。
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作者の兼好法師は、鎌倉時代の人物。 本名は、卜部兼良(うらべ かねよし)。 はじめは、卜部家が代々、朝廷に神職として仕えていたので、兼好法師も後二条天皇に仕えていたが、のちに兼好法師は出家した。 京都の「吉田」という場所に住んでいたので、吉田兼好(よしだけんこう)ともいう。 花や月は、花の咲いている頃や、夜空に曇りの無い月など、その時期が見所とされている。それ自体は、当然な感想であり、べつに悪くは無いけれど、いっぽうの咲いてない花や曇りや雨の夜空にも、また、見所がある。しかし、情趣を解しない人は、咲いている花だけしか楽しもうとしないようだ。 花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ込めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。 歌の詞書(ことばがき)にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ。」とも、「障ることありてまからで。」なども書けるは、 「花を見て。」と言へるに劣れることかは。花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝かの枝、散りにけり。今は見どころなし。」などは言ふめる。 (はたして、)桜の花は咲いているときだけを見るべきだろうか、月は曇りないときだけを見るべきなのだろうか。(いや、そうではない。)  雨に向かって月を見るのも、(家の中で、すだれを)垂れ込めて春の行方を知らないのも、やはり、しみじみとして趣深い。今にも咲きそうな梢(こずえ)や、(既に)散ってしまった庭も、見所が多いだろう。 歌の詞書(ことばがき)にも、「花見に参ったところ、とっくに散り去ってしまったので。」とか、「都合の悪いことがあってまいりませんで。」などと書いてあるのは、「花を見て。」と言ってるのに(比べて)劣っていることだろうか。(いや、そうではない。) 花が散り、月が傾くのを慕う風習は当然なことだけど、(しかし、)特に情趣の無い人は、「この枝も、あの枝も、散ってしまった。今は見どころが無い。」などと言うようだ。 どんなことも始めと終わりにこそ趣があるものだ。恋愛も、男女が会うばかりが趣ではない。会えずにいても、一人で相手のことを思いながらしみじみとするのも、恋の情趣であろう。 よろづのことも、始め終はりこそをかしけれ。 男女(をとこをんな)の情けも、ひとへに 逢ひ(あひ、アイ)見るをば言ふものかは。逢はで(あはで)止み(やみ)にし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅(あさぢ)が宿に昔をしのぶこそ、色好むとはいはめ。 どんなことも、(盛りよりも)始めと終わりにこそ趣がある。男女の恋愛も、(はたして)ひたすら逢って契りを結ぶのを(「恋」と)言うのだろうか。(いや、そうではない。)  会わないで終わってしまったつらさを思い、(約束の果たされなかった)はかない約束を嘆き、長い夜を一人で明かし、遠い大空の下にいる恋人を思いうかべて、茅が茂る荒れはてた住まいで昔(の恋人)をしみじみと思うことこそ、恋の情趣を理解しているのだろう。 月見についても、満月よりも、他の月を見ほうが趣深いだろう。 望月の隈(くま)なきを、千里の外まで眺めたる(ながめたる)よりも、暁近くなりて待ち出で(いで)たるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。椎柴(しひしば)・白樫(しらかば)などの、ぬれたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらむ友もがなと、都恋しうおぼゆれ。 (月見についても、)満月でかげりや曇りなく照っているのを、(はるか遠く)千里のかなたまで眺めているのよりも、(むしろ)明け方近くになって、待ちこがれた(末に出た)月が、たいそう趣深く、青味を帯びているようで、深い山の木々の梢(ごし)に見えているのや、木の間(ごし)の(月の)光や、さっと時雨(しぐれ)を降らせた一群の雲に(月が)隠れている様子は、この上なく趣深い。 椎柴(しいしば)・白樫(しらかば)などの、濡れているような葉の上に(月の光が)きらめいているのは、心にしみて、情趣を解する友人がいたらなあ、と都が恋しく思われる。 月見や花見は、直接に目で見るのを楽しむべきではなく、心で楽しむことこそ、趣深いことだ。だから、情趣のある人の楽しみ方は、あっさりしている。情趣の無い人は、なにごとも、物質的に、視覚的に、直接に楽しむ。 すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)のうちながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり。片田舎の人こそ、色濃くよろづはもて興ずれ。花のもとには、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒のみ、連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手・足さしひたして、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見る事なし。 総じて、月や(桜の)花を、そのように目でばかり見るものだろうか。(いや、そうではない。) 春は(べつに、桜の花見のために)家から外に出なくても、月の夜は寝室の中にいるままでも、(桜や月を)思っていることこそ、たいへん期待ができて、趣深いことである。 情趣のある人は、むやみに好みにふけっている様子にも見えず、楽しむ様子もあっさりしている。(無教養な)片田舎の人にかぎって、しつこく、なんでも(直接的に)楽しむ。 (たとえば春の)花の下では、寄って近づきよそ見もしないでじっと見つめて、酒を飲んで連歌して、しまいには大きな枝を思慮分別なく折り取ってしまう。 (夏には、田舎者は)泉に手足をつけて(楽しみ)、(冬には)雪には下りたって足跡をつけるなどして、どんなものも、離れたままで見ることが(田舎者には)ない。 (第一三七段) 「猫また」と言う怪獣が出るという、うわさを聞いていた連歌法師が、ある日の夜、動物に飛び掛られたので、てっきり猫またに襲われていると思って、おどろいて川に飛び込んだ。 実は、法師の飼い犬がじゃれて飛びついただけだった。 「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなる。」と人の言ひけるに、 「山ならねども、これらにも、猫の経上りて、猫またに成りて、人とる事はあなるものを。」 と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏(なにあみだぶつ)とかや、連歌(れんが)しける法師の、行願寺(ぎやうぐわんじ)のほとりにありけるが聞きて、ひとりありかん身は心すべきことにこそと思ひけるころしも、ある所にて夜更くる(ふくる)まで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず、足許へふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸(くび)のほどを食はんとす。肝心(きもごころ)も失せて(うせて)、防かんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転び入りて、 「助けよや、猫また。よや、よや。」 と叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。 「こはいかに。」 とて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物(かけもの)取りて、扇(おふぎ)・小箱など懐(ひところ)に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、這ふ這ふ(はふはふ)家に入りけり。 飼ひける犬の、暗けれど、主(ぬし)を知りて、飛び付きたりけるとぞ。 山奥に猫またというもの(=化け物、妖怪)がいて、人を食うそうだ、とある人が言った。 「(ここは)山ではないけれど、このあたりにも、猫が年を取って変化して、猫またになって、人をとって食らうことがあるというのだよ。」 と言う者がいたので、なんとか阿弥陀仏とかいう連歌を(仕事または趣味などに)している法師で、行願寺の付近に住んでいた者がこれを聞いて、一人歩きをする者は用心すべきことであるな思った頃、ある所で夜が更けるまで連歌をして、たった一人で帰るときに、小川のほとりで、うわさに聞いていた猫また、(猫またの)狙いたがわずに首のあたりに食いつこうとする。 (法師は)正気も失って、防ごうとするが力も出ず、(腰が抜けて)足も立たず、小川へ転がりこんで、 「助けてくれ。猫まただ。おーい。」 と叫ぶので、 (近くの)家々から、(人々が) 松明(たいまつ)をともして走り寄ってみると、(助けを求めてる人は)このあたりで顔見知りの僧だった。 (人々は)「これは、どうしたことか。」 と言って、川の中から抱き起こしたところ、連歌で受け取っていた賞品の扇・小箱など、懐に入れていたのも、水につかってしまった。 (僧の態度は)かろうじて助かったという様子で、這うようにして家に入っていった。 (第八十九段) この時点では、連歌法師は、まだ「猫また」だと思ってた動物が飼い犬だと気づいていないか、あるいは、まだ腰を抜かした様子が直ってないのだろう。 おそらく作者の気持ちでは、笑い話、と思ってるのだろう。 作者の兼好法師も、職業が同じく「法師」なので、作者は色々と思うところがあっただろう。 後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)が亀山殿(かめやまどの)の御池(みいけ)に大井川(おおいがわ)の水を引き入れようとして、地元の大井の住人に水車を造らせて、水車は組みあがったが、思うように回ってくれず、水を御池に組み入れることができない。 そこで、水車作りの名所である宇治から人を呼び寄せて、水車を作らせたところ、今度の水車は、思いどおりに回ってくれて、御池に川の水を汲み入れることができた。 何事につけても、その道の専門家は、貴重なものである。 亀山殿(かめやまどの)の御池(みいけ)に、大井川(おほゐがは、オオイガワ)の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて(おほせて)、水車(みづぐるま)を造らせられけり。多くの銭(あし)を賜ひて(たまひて)、数日(すじつ)に営み出(い)だして、掛けたりけるに、おほかた廻(めぐ)らざりければ、とかく直しけれども、つひに回らで、いたづらに立てりけり。さて、宇治(うぢ)の里人(さとびと)を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み(くみ)入るること、めでたかりけり。 万(よろづ)に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。 (後嵯峨上皇は)亀山殿(かめやまどの)の御池(みいけ)に、大井川(オオイガワ)の水を引き入れようとして、大井の住民にお命じになって、水車(みづぐるま)を造らせなさった。多くの銭をお与えになって、数日で造り上げて、(川に)掛けたが、まったく回らなかったので、あれこれと直したけれども、とうとう回らないで、(水車は)何の役にも立たずに立っていた。 そこで、(水車づくりの名所である)宇治(うぢ)の里の人をお呼びになって、(水車を)お造らせになると、容易に組み上げてさしあげた水車が、思いどおりに回って、水を汲み(くみ)入れる事が、みごとであった。 何事につけても、その(専門の)道に詳しい者は、貴重なものである。 (第五一段) 木登りの名人が、他人を木に登らせるとき、登っているときには注意しないで、下りてきてから気をつけるように注意していた。筆者の兼好法師が、わけを尋ねたところ、「人間は、自分が危険な高い場所にいる時には、本人も用心するので、私は注意しないのです。ですが、降りるときは安心してしまうので、用心しなくなってしまいがちなので、用心させるように注意するのです。失敗は、むしろ安全そうな時にこそ、起こりやすいのです。」と言うようなことを言った。 木登り名人の意見は、身分の低い者の意見だが、聖人の教えにも匹敵するような、立派な教訓であろう。 高名(かうみやう)の木登りと言ひし男、人を掟てて(おきてて)、高き木に登せて梢(こずゑ)を切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに軒たけばかりになりて、 「過ちすな。心して降りよ。」 とことばをかけ侍りしを、 「かばかりになりては、飛び降るるとも降りなん。いかにかく言ふぞ。」 と申し侍りしかば、 「そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、己が恐れ侍れば申さず。過ち(あやまち)は、安き(やすき)ところになりて、必ず仕まつる(つかまつる)ことに候ふ。」 と言ふ。 あやしき下臈(げらふ)なれども、聖人(せいじん)の戒めにかなへり。鞠(まり)も、難きところを蹴(け)いだしてのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらん。    有名な木登り(の名人だ、)と(世間が)言う男が、人を指図して、高い木に登らせて梢を切らせる時に、とても危険に見えるときには(注意を)言わないで、下りようとする時に、軒の高さほどになってから、「失敗をするな。注意して降りろ。」と言葉をかけましたので、(私は不思議に思って、わけを尋ねたました。そして私は言った。)「これくらいになっては、飛び降りても下りられるだろう。どうして、このように言うのか。」と申しましたところ、(木登りの名人は答えた、)「そのことでございます(か)。(高い所で)目がくらくらして、枝が危ないくらいの(高さの)時は、本人(=登ってる人)が怖い(こわい)と思い(用心し)ますので、(注意を)申しません。過ちは安心できそうなところになって(こそ)、きっと、いたすものでございます。」と言う。 (木登り名人の意見は、)身分の低い者の意見だが、聖人の教えにも匹敵する。蹴鞠(けまり)も、難しいところを蹴り出した後、安心だと思うと、必ず地面に落ちると(いう教えが)あるようです。 (第一〇九段) 京都の丹波にある神社は、出雲大社から神霊を分けてもらっている。つまり、複数の神社で、同じ神がまつられている。 出雲大社の主神は大国主(オオクニヌシ)。 丹波の国にある出雲神社を、聖海上人(しょうかいしょうにん)が大勢の人たちといっしょに参拝した。 社殿の前にある像の、狛犬(こまいぬ)の像と獅子(しし)の像とが背中合わせになっているのを見て、聖海上人は早合点をして、きっと深い理由があるのだろうと思い込み、しまいには上人は感動のあまり、上人は涙まで流し始めた。 そして、出雲大社の神官に像の向きの理由を尋ねたところ、子供のいたずらだと言われ、神官は像の向きを元通りに直してた。 上人の涙は無駄になってしまった。 丹波に出雲といふ所あり。大社(おほやしろ)を移して、めでたく造れり。しだのなにがしとかやしる所なれば、秋のころ、聖海上人(しやうかいしやうにん)、その他も人あまた誘ひて、「いざ給へ(たまへ)、出雲拝みに。掻餅(かいもちひ)召させん。」とて具しもて行きたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。 御前(おまへ)なる獅子(しし)・狛犬(こまいぬ)、背きて、後さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝のことは御覧じとがめずや。無下(むげ)なり。」と言へば、おのおのあやしみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社(みやしろ)の獅子の立てられやう、さだめて習ひある事に侍らん。ちと承らばや。」と言はれければ、「そのことに候ふ(さふらふ)。さがなき童(わらはべ)どもの仕り(つかまつり)ける、奇怪に候うことなり。」とて、さし寄りて、据ゑ直して、往に(いに)ければ、上人の感涙いたづらになりにけり。 丹波の国に出雲という所がある。出雲大社(の神霊)を移して、立派に造ってある。しだの何とかと言う人の治めている所なので、秋の頃に、(しだの何とかが誘って)聖海上人や、その他の人たちも大勢誘って、「さあ、行きましょう。出雲の神社を参拝に。ぼた餅をごちそうしましょう。」と言って(一行を)連れて行って、皆がそれぞれ拝んで、たいそう信仰心を起こした。 社殿の御前にある獅子と狛犬が、背中合わせに向いていて、後ろ向きに立っていたので、上人は(早合点して)とても感動して、「ああ、すばらしい。この獅子の立ち方は、とても珍しい。(きっと)深い理由があるのだろう。」と涙ぐんで、 「なんと、皆さん。この素晴らしいことをご覧になって、気にならないのですか。(そうだとしたら)ひどすぎます。」と言ったので、皆もそれぞれ不思議がって、「本当に他とは違っているなあ。都への土産話として話そう。」などと言い、上人は、さらに(いわれを)知りたがって、年配で物をわきまえていそうな顔をしている神官を呼んで、(上人は尋ね)「この神社の獅子の立てられ方、きっといわれのある事なのでしょう。ちょっと承りたい。(=お聞きしたい)」と言いなさったので、(神官は)「そのことでございすか。いたずらな子供たちのしたことです、けしからぬことです。」と言って、(像に)近寄って置き直して、行ってしまったので、上人の感涙は無駄になってしまった。 (第二三六段) 九月二十日のころ、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて、入りたまひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬにほひ、しめやかにうちかをりて、しのびたるけはひ、いとものあはれなり。 よきほどにて出でたまひぬれど、なほ、事ざまの優におぼえて、物のかくれよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらしまかば、口をしからまし。あとまで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。その人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし。 これも仁和寺の法師、童(わらは)の法師にならんとする名残とて、おのおの遊ぶことありけるに、酔ひて(ゑひて)興に入るあまり、傍らなる足鼎(あしがなへ)を取りて、頭(かしら)にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおし平めて、顔をさし入れて舞ひ出でたるに、満座興に入ること限りなし。 しばしかなでて後(のち)、抜かんとするに、おほかた抜かれず。酒宴ことさめて、いかがはせんと惑ひけり。とかくすれば、首のまはり欠けて、血垂り、ただ腫れ(はれ)に腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪へがたかりければ、かなはで、すべきやうなくて、三つ足なる角(つの)の上に帷子(かたびら)をうちかけて、手を引き杖をつかせて、京なる医師(くすし)のがり率て行きける道すがら、人のあやしみ見ること限りなし。 医師のもとにさし入りて、向かひゐたりけんありさま、さこそ異様(ことやう)なりけめ。ものを言ふも、くぐもり声に響きて聞こえず。「かかることは、文にも見えず、伝へたる教へもなし。」と言へば、また仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんともおぼえず。 かかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。ただ力を立てて引きたまへ。」とて、藁のしべをまはりにさし入れて、かねを隔てて、首もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。 静かに思へば、よろづに過ぎにし方の恋しさのみぞ、せん方(かた)なき。 人静まりて後(のち)、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、残し置かじと思ふ反古など破り棄つる中に、亡き人の手習ひ、絵描きすさびたる、見出でたるこそ、ただ、その折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、あはれなる ぞかし。手なれし具足なども、心もなくて変はらず久しき、いとかなし。
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