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鬼首温泉(おにこうべおんせん)は、宮城県(旧国陸奥国、明治以降は陸前国)北西部、大崎市(旧鳴子町)の北にある温泉群。荒雄岳中腹から外輪山にかけての高原に位置する温泉地である。栗駒国定公園内に位置し、鳴子温泉郷国民保養温泉地の一部。
温泉街.
鳴子温泉郷(鳴子温泉、東鳴子温泉、川渡温泉、中山平温泉、鬼首温泉)の一つ。
狭義の鬼首温泉には数軒の温泉宿泊施設と、1軒の共同浴場(現在は解体された)その他吹上高原キャンプ場やデイサービスセンターがある。
周辺にある、吹上温泉、轟温泉、宮沢温泉、神滝温泉(廃業)など複数の一軒宿温泉を含めて、鬼首温泉郷と呼ばれることもある。
吹上温泉は間欠泉があり、10 - 15分毎に高さ15m - 20mの間欠泉が吹き上がる。
また、地熱が非常に高い地域であることから、地獄地帯が点在しているのも特徴。鬼首温泉街から北の山側に行くと吹上地獄谷、片山地獄、奥の院地獄、荒湯地獄、雄釜雌釜間欠泉(現在は噴出していない)などがある。吹上地獄谷では川沿いの遊歩道のすぐ側から100℃近い高温泉が次々と湧き出てきている光景を見ることができる。荒湯地獄は野湯としても有名である。片山地獄には地熱を利用した鬼首地熱発電所も存在する。
歴史.
応神6年頃(270年代)には既に発見されていたといわれている。鬼首の地名の由来は坂上田村麻呂が801年(延暦8年)の蝦夷征伐の折に討伐した大武丸を斬首した時に、大武丸の首が飛んできた地であるとする伝説がある。大武丸の体が埋められた地は鬼死骸と呼ばれている。
かつては地獄地帯の高温泉を地元の人達が調理に使っていたという。
寿永・文治時代(1182~1189年)に藤原氏によって荒湯(荒雄の湯)が開かれた。江戸時代には伊達家の御用の湯に定められた。
1959年10月1日、「奥鳴子・川渡温泉郷」として、川渡温泉、中山平温泉とともに国民保養温泉地に指定。
2008年公開の若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』の主なロケ地に使われた。 |
大学受験ラジオ講座(だいがくじゅけんラジオこうざ)は、文化放送やラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)など全国のAM・FMラジオ放送局で放送された番組。旺文社一社提供。通称「ラ講」(ラこう)。
概要.
旺文社の創業者赤尾好夫が、「大学受験教育の地域格差を放送を通じて解消していく」という理念を掲げ、自ら設立に関与した日本文化放送協会(現・文化放送)に企画を持ち込んで、1952年(昭和27年)3月31日の開局と同時に放送開始。
日本短波放送(NSB)が開局した1954年(昭和29年)8月からは、そちらでも放送が始まり全国での聴取が可能になった。後に、同じく教育の地域格差解消をテーマに『百万人の英語』が立ち上げられて、そちらも文化放送と日本短波放送で同時放送されるに至った。基本的には毎日1講座30分単位で2本放送された。
ブラームス作曲の「大学祝典序曲」がテーマ曲として使用された(ただし末期はポップ調にアレンジ)が、放送開始・終了、講義開始前・終了時のアナウンス、旺文社の生CMは各局それぞれで行っており、あいさつが異なるケースさえみられた。放送時間もエリアも重複するCBCラジオと岐阜放送では、テーマ曲が2回流れる岐阜放送のほうがやや本編が遅く放送されていた。
なお例年12月31日は、AM全局とラジオたんぱで「ゆく年くる年」が放送される関係で、放送休止(休講)となっていた。
歴史.
番組初期から中期の展開.
日本短波放送での放送開始で全国どこでも聴ける番組となり赤尾の掲げた目標は一応達成されたが、放送による一斉授業形式ならではの問題も抱えていた。リスナーとなる受験生一人一人の学習進度や志望校に関係なく、同じ講義を一律に送り出さなければならなかったのである。旺文社は当初、月刊でラジオ講座のテキストを発行し、それに先輩格の大学受験総合誌『蛍雪時代』を含めた形で受験生のフォローアップを行うことを考えていた。昭和30年代には、旺文社が大学受験産業でほぼ独占的なシェアを獲得していて、他の教育形態もまだそれほど伸びていなかったため、このスタイルで十分成り立った。
ところが1961年(昭和36年)、増進会出版社(現・増進会ホールディングス)が難関大学志望の高校生を対象にした国内初の個別通信添削指導『Z会の通信添削』をスタートさせ、ラジオ講座は強力なライバルと出会うことになった。1969年(昭和44年)には、福武書店(現・ベネッセコーポレーション)が『進研ゼミ高校講座』の前身『通信教育セミナ』を立ち上げ、旺文社も『旺文社ゼミ』の名前で追随。旺文社は、ラジオ講座を聴取し、旺文社ゼミも併せて受講することで、学習効果の増大を狙った。 |
一方で、開始当初から昭和30年代には、大半のネット局で22 - 24時のプライムタイムに放送されていたが、昭和40年代以降、この時間帯が若者向けになるにつれて、ほとんどのラジオ局で放送時間は午前5時台へと追いやられた。このため受験生個人で毎日の放送をタイマー録音し、後で都合のいい時に聴く習慣がついていった。1980年(昭和55年)10月改編以前で夜間放送だったのは、ラジオたんぱと文化放送(23:30 - )、およびラジオ関西(23:35 - )だった。当時、文化放送の22時以降は「夜のニュース・パレード」や外郭団体(日本英語教育協会)経由で実質旺文社提供だった『百万人』などの番組が並んでいた。
1982年(昭和57年)以降、地方で民放FM局の開局が続き、AMラジオ局で放送されない地域で5:00 - 6:00に放送され、放送形態の垣根を越えて放送される番組となった。そういった地方の学生のために、旺文社は希望する高校に講義放送のテープ(2講義分を収録、放送月初に送付し翌月回収のため、オンエア前や聞き逃した講義を聴くことが出来た。ただし蛍雪アワーを除く)を無償で貸し出したり、後にはラジオ講座を編集したテープを販売していた。
しかし、後期には通信添削市場の成長による受験産業の多様化に加え、文化放送の編成政策に2度まで翻弄される事態となり、次第に番組の立ち位置が怪しくなっていく(後述)。
文化放送での野球放送への影響.
当番組の存在は、旺文社が大株主となっていた文化放送で長年、編成上のネックとなっていた。特に1980年代以降、文化放送が平日の野球中継に参入すると、深刻な影響を及ぼすようになっていった。
てるてるワイドとライオンズナイター.
1980年(昭和55年)10月改編で文化放送初の本格的な夜ワイド『吉田照美のてるてるワイド』が立ち上がると、24時までの放送枠を確保するため月曜から金曜の講座が夕方の18:30 - 19:30に移動した。土曜と日曜の講座は『ホームランナイター』の絡みで、平日と放送時間が異なることになる(24:30 - 25:00)。さらに1982年(昭和57年)4月改編で『ライオンズナイター』(当時は野球情報バラエティ番組として放送)が立ち上がると、ラ講がネックとなり試合開始から終了までの放送を求めるリスナーの声に応えられないという新たな問題が沸きあがる。
1984年(昭和59年)4月改編で『ライオンズナイター』が放送時間拡大になると、ラ講は直後に放送されていた『百万人』とセットで30分繰り上がって18:00 - 19:00の放送に変更、翌1985年(昭和60年)4月改編で『ライオンズナイター』が他局と同じ一般的な中継スタイルを取り入れると、試合開始からの放送に対応するため再び深夜に戻され、平日と週末の放送時間が再び統一された(全曜日24:30 - 25:30)。
延長なしのライオンズナイター. |
当時のプロ野球はセ・リーグが試合開始後3時間20分、パ・リーグが3時間を超えて新たなイニングに入らないルールがあったため、18時開始の西武ライオンズ球場での西武主催ゲームを中継することを前提に、ライオンズナイターは21:30までとして延長なしと設定された。これにより、平日夜のワイド番組は定時から放送でき、タイマー録音する学生への配慮やテキストへの時間記載などで24:30のスタートを変更できなかったラジオ講座の放送にも支障を与えないという編成対策が採られた。ライオンズの親会社の西武鉄道(西武ホールディングスの子会社)が筆頭株主になったNACK5が開局して最初のシーズンとなる1989年(平成元年)に限り、21:30以降試合が続く場合は同局で試合終了までリレー放送する形とした。
ただし、優勝決定試合は例外的に試合終了まで放送することになっていた。1988年(昭和63年)10月19日のパ・リーグ優勝を賭けたロッテオリオンズ対近鉄バファローズのダブルヘッダーはリスナーの抗議殺到を受けて第1試合途中から『文化放送緊急スポーツスペシャル』として第2試合終了まで放送したが、夜ワイド番組『お遊びジョーズ』は後続のラ講のあおりを受けて短縮されるという、当時の文化放送では極めて異例の対応がなされた。
野球延長容認へ.
『ライオンズナイター』は1990年(平成2年)のNPBのルール改正でパ・リーグの試合時間制限が4時間に延長されると、最大で21時50分までの放送となる。23時台にあったNRN全国ネットの花王一社提供枠が終了した後の1992年(平成4年)からは22時以降も夜ワイドの放送時間を短縮するスタイルが導入され、試合終了までの完全放送が実現されるようになった。
いち早く試合時間無制限に切り替わっていたセ・リーグの試合が中心の『ホームランナイター』も最大延長を22時から22時30分に変更したが、後続に『さだまさしのセイ!ヤング』『東京ライブミックス』といった生放送番組があること、さらにはそれら番組の出演者やスポンサー・『セイ!ヤング』に至っては同時ネット局の存在も障害となり、試合終了までの放送はできなかった。
Jランドへの転換と失敗.
上記のように、野球延長の場合は夜ワイドの放送時間を短縮するなどの対応をとりつつラ講は継続されたが、次第に午前1時スタートの裏番組に対抗することができなくなっていった。
1992年(平成4年)10月改編で後続の『百万人』が、1993年(平成5年)4月改編では、ラジオたんぱでラ講の前に放送されていた『合格いっぽん道』がそれぞれ打ち切られ、両番組を統合した大型枠『合格プロジェクト』の一コーナーとしてラ講が60分間放送された。『プロジェクト』がある程度の支持を得たという旺文社側の手応えと、『ミスDJ』以来の大型深夜放送となる『Come on FUNKY Lips!』の開始を決めた文化放送の思惑が一致したところへ、『さだセイ』パーソナリティさだまさしが降板を申し入れる。 |
このため、1994年(平成6年)4月改編で文化放送でも全面リニューアルが行われ、『さだセイ』の枠が空く土曜夜と、日曜夜にラ講を集中的に放送することにした。1994年4月8日の講義を最後に開局以来42年間続いた連日放送が終了する。明けて1994年4月9日からは、『Jランド 大学受験生ナマワイド』(ジェイランド だいがくじゅけんせいナマワイド)と改題、週末の23時から情報コーナーを挟んで土曜は3時間、日曜は2時間の枠が確保された(これによって各講座の1コマあたりの時間も短縮)。これにより、『ホームランナイター』は最大延長が23時まで延長されるようになる。
内容としては『合格プロジェクト』の形態を基本的に引き継ぎ、ナビゲーター役として藤木千穂(当時文化放送アナウンサー)を起用し、受験に関するミニ情報やフリートーク、リクエスト音楽の紹介などが行われた。情報コーナーは旺文社がラ講テキストに替えて創刊したCD講座付き受験情報誌「KEISETSUアルシェ」と連動させた。長年使われた「大学祝典序曲」もこの年度は使用されなかった。
文化放送と同時にフルネットした独立局のラジオ関西以外のネット局は、帯番組形態を継続しつつも「Jランド 旺文社大学受験ラジオ講座」と改題し放送時間が45分に短縮された。ラジオたんぱでは『合格プロジェクト』が継続され、その中の45分枠で放送されることになった。
夜ワイド番組に近い形にするリニューアルを断行したものの、メインターゲットは高校3年生と浪人生ということもあり聴取率が大きく下がった。文化放送では『さだセイ』がさだのファンを中心に幅広い層のリスナーを獲得していたのとは対照的に、世代別でNHK R1『ラジオ深夜便』の独走を許してしまう。特にタクシー運転手など大人世代はほぼ離れてしまった。ラジオ関西でも、週末放送で遠距離受信者が非常に多い『林原めぐみのHeartful Station』『青春ラジメニア』『ピーターパンクラブ』の放送曜日・時間が変更となった。こうして、文化放送とラジオ関西の両局とも『Jランド』は完全に失敗と判断せざるを得なくなった。
シリーズの終焉とその後.
旺文社の決断.
『Jランド』の政策的失敗で早期にA&G強化へ舵を切りたいという文化放送側の事情に加え、旺文社内部でも第2次ベビーブーム世代の大学進学が一巡し本格的な少子化時代を迎える中で、リスナーの絶対数が減るとともに「アルシェ」の売り上げも先細りになると判断、番組の将来を悲観する向きが広がった。この時旺文社では、近い将来にその可能性が迫っていた大学全入時代が現実化すれば、受験生の番組に求めてくるレベルも多様化し既存のスタイルでは対応できなくなるというところまで視野に入れていた。
こうして文化放送と旺文社、両社の利害が一致してついにラ講はAM・FM局での放送終了が決まる。『Jランド』『ラ講』共に、1995年(平成7年)4月2日の放送をもって番組終了、43年の放送にピリオドを打った。
文化放送の編成転換. |
『Jランド』へ移行した1994年4月以降、月 - 木曜の24時台は『Lips』→『LIPS PARTY 21.jp』→『レコメン!』と夜ワイド路線に組み込まれ現在に至り、NRN全国ネットも行われるが、これはラ講とは全く異なるもので、むしろ1991年以前の夜ワイド23時台花王枠が形を変えて復活したものと言うことができる。
一方、金曜24時台は『アニメスクランブル』が日曜22:30から移動、2009年(平成21年)10月改編で土曜に移動するまで、15年間変わらない長寿番組となった。
『Jランド』の終了した1995年4月改編では土・日曜の深夜枠をA&G枠の中核として方針転換、『ドリカン』『アニスパ!』『こむちゃっとカウントダウン』などの長寿番組を次々と輩出し現在に至る。また、ホームランライターも試合終了まで放送できるようになった。
なお『Jランド』終了後、文化放送での旺文社提供枠は日曜夜の録音番組1本分(『アルシェくらぶ ITEMAE RADIO』→『平松晶子のVOICE OF WONDERLAND』)のみとなり、それも旺文社の経営悪化により1998年(平成10年)10月改編で廃枠。開局から46年間続いた文化放送での旺文社による番組提供活動がすべて終了した。後述するラジオ関西・ラジオたんぱと異なり、『ラ講』が採った講義形式での放送は現在に至るまで一度も行われていない。
ラジオ関西の場合.
ラジオ関西でも『Jランド』の編成失敗から早期に編成方針を転換しようとしたが、『青春ラジメニア』はしばらく金曜24時台・25時台の生放送が続き、『Jランド』以前に編成していた土曜24時台・25時台に再移動するには編成上時間がかかった。
『Jランド』終了後、土曜23時台は『Jランド』放送のために金曜23時台へ移動した『林原めぐみのHeartful Station』が1997年4月に再移動し、土曜24時台・25時台は『青春ラジメニア』が再移動する2001年3月までは文化放送制作のアニラジ番組などが放送されていた。
一方の日曜は23時台に『アルシェくらぶ-』を文化放送とネットして放送していたが、24時台は番組編成が迷走していた。そして、旺文社提供の番組枠が終了した1998年10月改編以降、日曜24時台に『ハイスクールGO太!!』というラジオ講座番組を独自で開始し、2005年12月まで続いた。
ラジオたんぱ独自の「大学合格ラジオ講座」へ.
ラジオたんぱでは文化放送が『Jランド』を打ち切るのと同時に、『合格プロジェクト』が『合格ラジオ』と改題され、これに含まれる形でラ講が引き続き放送された。大学合格ラジオ講座は、旺文社ではなくラジオたんぱが公式テキストを作成して全国の高校3年生に無料配布したため、ラジオたんぱの後身の日経ラジオ社は「ラ講の系譜を引き継ぎはしたがラ講がラジオたんぱ単局での放送になったのではない」としている。一方で旺文社も『アルシェ』の発行は続けた。 |
CLIE / CLIÉ(クリエ)は、ソニーが開発・製造・販売していた、Palm OSを搭載するPDA。CLIEとは、"Communication Linkage for Information & Entertainment"の頭文字をとった造語である。
ソニーではCLIEをPDAを意味する「パーソナル・デジタル・アシスタンツ」ではなく、「パーソナル・エンターテインメント・オーガナイザー」としており、ビジネス用途としてよりもエンターテインメントツールとして、オリジナルのPalm OSの機能に頼らず、独自の拡張によっていち早く高解像度()のカラー液晶を搭載し、デジタルカメラを搭載するなどした端末を発売し、画像や音楽プレーヤーとして使えるマルチメディア路線を選んだ。その結果、これまでPDAと縁の無かった層の人々にも使用された。
しかしPalm OSを含めたPDA全体の進化がスマートフォンに志向したことで、トレンドから外れたCLIEの高機能化路線は海外の個人ユーザーに受け入れられなくなり、2004年6月には同年秋以降の海外での新機種投入の終了を発表した。その後も日本国内では動画や写真の閲覧に重点を置いたPEG-VZ90を発売したが、2005年2月には、同年7月をもって全ての機種の生産を終了することを発表、これによりPalmメーカーは日本市場から完全撤退となった。
特徴.
元々PDAは使える電力に限りがあり、高速なCPUを積んで動画処理をおこなうには向いていない。また、Palmというデバイスは電池交換あるいは充電一回で長期間使えることに重点が置かれていて、マルチメディア志向ではなかった。だがソニーはCLIEに比較的高速のCPUを採用した。また、PEG-N700C以降は日本語表示がきれいな320×320ドットのハイレゾリューション(以下ハイレゾ)液晶を搭載、他のPalmメーカーを日本市場から撤退させた。
また、外部メモリとしては、同社のメモリースティックを採用、自社製品とのシームレスな連携を謳っていた(独自の仕様変更のため、MacとのSyncにはサードパーティによるツールが別途必要となった)。中にはCFメモリーカードを外部メモリとして利用できる機種もある。
オーソドックスなPalmスタイルのモデルには固執せず、本体下部の上下スクロールボタンとジョグダイヤルを搭載した上で機能を分けたり、TJ25などの後期モデルではジョグダイヤル自体を上下スクロールボタンの位置に埋め込み上下左右の入力を可能にした。PEG-NX80Vなど、本体を開くとキーボードが現れるモデルも発売された。グラフィティ領域が固定的ではなく、画面の一部に表示される「バーチャルグラフィティ」とも呼ばれる形式のモデルもあり、さらには漢字・かなを直接入力できるデクマ手書き入力ソフトウェアを搭載している機種もあった。
日本向け端末には日本語入力システムとして「ATOK Pocket」を採用している。
PEG-N700Cなどの音楽再生に重点を置いたモデルには、ウォークマンのようなリモコンつきイヤフォンが標準装備されている。
PEG-UX50などの横長のワイド液晶モデルに至っては、いわゆる電子辞書のようなスタイルで、他の一般的なPalmデバイスとは異なる外見をしていた。
VFS(Virtual File System)、画面の縦横切り替え方式など、ソニーが提唱した方式がPalm OSに採用されたが、各Palm OS採用メーカーにおけるハードウェア的追加部分の差異や、ソフトウェアの共有がなされていなかった事などからPalm OSとしての共通化はなされなかった。
機種.
PEG-S300/PEG-S500C. |
2000年発売。PalmOS3.5搭載。初代CLIE。Palmにジョグダイヤル・メモリースティック・スロットを加えた。ハードウェアボタンが手でもスタイラスでも押しやすくデザインされている。PEG-S500Cはカラーだったが、バックライト用ELの性能から、非常に暗かった。PEG-S300は後にVAIO PCV-LX30/BPとのセット販売が行われた。
PEG-N700C.
2001年発売。PalmOS3.5搭載。2代目CLIE。初代機に比べSONYらしさを全面に出し、音楽再生機能(ATRAC3)とハイレゾ液晶を搭載。このハイレゾ液晶はPalm OSでは比較的新しい試みだったため、既存のアプリケーションとの互換性が懸念されたが、当時はPDAが最盛期だったこと、ユーティリティなどで対処が出来たこともあって大きな問題にはならなかった。後に有償で、音楽再生機能のMP3形式対応、PalmOS4へのアップグレード対応などが行われた。
PEG-N600C.
2001年発売。PalmOS4搭載。PEG-N700Cから音楽機能を省いた下位モデル。PalmOS3.5のN700Cと併売されたこともあり、OSのバージョン差による性能差を批判する意見もあった。カラーバリエーションとしてラベンダーパープルが存在。VAIOと色系統が同じ事もありセットで購入する人も多かった。後に音楽再生機能を付加するアクセサリーが発売された。
PEG-N750C.
2001年発売。PEG-N700CをMP3対応・PalmOS4にアップグレードし、一部仕様を改善したマイナーチェンジモデル。
PEG-T600C/PEG-T400.
2001年発売。PalmOS4搭載。薄型化、FM音源搭載、遊びの多かった拡張コネクタの改良、リモコン用LEDの新設など数々の改良が行われた。その反面薄型化によるホールド感の低下や、駆動時間の減少などの退行点もあった。両機種とも音楽再生機能は非搭載のため、PEG-N750Cとの併売がなされた。T400はハイレゾモノクロという新しい液晶を搭載し、白と黒のハッキリとしたコントラストが特徴だったがその反面、液晶反応速度の低下による残像の発生というあらたな問題点も抱えていた。このモデルから公式に、周辺機器利用によるCF型PHSの利用がサポートされた。
PEG-NR70/PEG-NR70V. |
2002年発売。PalmOS4搭載。QWERTYキーボード搭載、折りたたみ型CLIE。これまでに無い斬新なスタイルで、Palmデバイスの新境地とも呼ばれた機種。液晶・タッチパネル部が180度回転し、広げて使う・閉じて使うという2通りの使い方ができるという「Wingデザイン」のほか、キーボードとソフトウェアグラフィティを搭載。これらは後のCLIEシリーズに引き継がれている。OSにはPalm OS Ver 4.1を、CPUにはDragonBall Super VZ 66MHzを使用。PEG-NR70Vには10万画素のCMOSイメージセンサー(カメラ機能)が備わっている。ソフトウェアキーボードやカメラ機能、メディアプレーヤー機能、320×480ドットのワイドハイレゾ液晶など、エンターテインメント志向で、PDAを使い慣れていないユーザの獲得を狙った商品だったが、それまでPDAを使い慣れていた人々からは、「押すとすぐにメモ帳やアドレス帳などが起動するハードウェアボタンがキーボードと同じ面にあり、画面を閉じた状態で使用しているとすぐには押せない位置のため不便である」「ボディーが厚く重い」「駆動時間が短い」などの批判的な意見も述べられた。
PEG-T650C.
2002年発売。PalmOS4搭載。PEG-T600Cをモデルチェンジし音楽再生機能の付加、CPUをNR70/70Vと同等のDragonBall Super VZ 66MHzに引き上げたモデル。上記の性能アップにも関わらずバッテリー容量は変わらなかったため、駆動時間がさらに減少。
PEG-SJ30.
2002年発売。PalmOS4搭載。カジュアルに気軽に持ち運びできるように改良された機種。Wingスタイルではなく、キーボードも搭載されていない。ファミコンのコントローラーのような付属アクセサリをつけることで携帯ゲーム機にもなることが売りだった。
PEG-NX70V/PEG-NX60.
2002年発売。PalmOS5搭載。QWERTYキーボード搭載、折りたたみ型CLIE。NR70の後継機種。OSにPalm OS Ver5.0を、CPUにはインテルPXA250 200MHzを採用した。Wingデザインやハードウェアキーボードなどはそのまま継承された。NR70との主な違いは、カメラ(PEG-NX70Vのみ搭載)が31万画素になり、音声付動画を録画できるようになったこと、通信専用のコンパクトフラッシュカードスロットを搭載したことなど。コンパクトフラッシュスロットがメモリカード非対応だったため批判の声があった。OSが変わったことによるソフトウェアの不具合、調整不足などもあり、後に500kb超にも及ぶソフトウェアのアップデートが次々に行われた。
PEG-NZ90.
PalmOS5搭載。QWERTYキーボード搭載、折りたたみ型CLIE。エンターテイメントツールとしてのCLIEシリーズの集大成ともいえる機種。NRに始まったWingスタイルを継承しつつも、カメラが200万画素のCCDカメラになり、Bluetoothを内蔵。カメラは従来機と異なり回転はしない。ハードウェアキーボードの下に「FeliCaリーダー」を内蔵し、この部分にSuicaやEdyカードをかざすことで、その残高などを照会できる。フラッグシップモデルだけあり機能も盛りだくさんだったが、その分カメラ使用時の駆動時間が短いなどツメの甘さも指摘された。
PEG-TG50. |
PalmOS5搭載。NZとは対照的に、ビジネスシーンでの使用を想定したスリムな機種。Wingスタイルではないが、上部に液晶、下部にハードウェアキーボードを備えている。そのため、液晶が若干小さめで、グラフィティエリアは標準では表示されない。本体保護用にフリップが搭載されたが、開くとNXと大して変わらない専有面積になるため、外して使用する人も多かった。Bluetoothとボイスレコーダーを内蔵。音楽再生機能を有していたが、リモコンは搭載されていない。
PEG-NX80V/PEG-NX73V.
PalmOS5搭載。QWERTYキーボード搭載、折りたたみ型CLIE。NX70の後継機種。これまで通信機能限定だったコンパクトフラッシュを、データ保存メモリとして使用できるように改良を加えた。また、手書き認識ソフトとして「デクマ手書き入力」を搭載し、グラフィティを用いないでかな漢字による入力を行えるようになったほか、カメラの画素が130万画素(PEG-NX80Vのみ)になり、ハードウェアキーボードにバックライトを搭載した。NX80Vはメモリを増量し、16MBをフルにユーザー領域に使用できるようになった。
PEG-SJ33.
PalmOS4搭載。PEG-SJ30の後継機種。音楽再生機能の追加やCPUをDragonBall Super VZ 66MHzに引き上げるなど基本機能の充実を図った。バッテリー駆動時間が15時間に伸びた。TG50のようにフリップが付き、カラーバリエーションとして多数のラインナップが展開された。
PEG-UX50.
2003年8月に発売。PalmOS5.2搭載。QWERTYキーボード搭載、折りたたみ型CLIE。CLIEのWingスタイル同様の液晶部分が回転するスタイルを採用し横型だった、2002年12月にシャープから発売された「ザウルス SL-C700」とほぼ同じ形をとり、さらに「世界最小・最軽量」を謳った機種。ノートパソコンを小型化したような外観をしており、Wingスタイルなので液晶部分を回転させ畳んだ形でも使用できる。Bluetooth、無線LAN、フルキーボード、31万画素の回転カメラのほか、約22Mの内蔵メディアを搭載した。この機種からOSの仕様が変わったため、FM音源が非搭載になった。この機種から手書き入力ソフトGraffitiがGraffiti2に変更された。PalmOS5.2が搭載されている機種にはGraffiti2が搭載されている。
PEG-TJ25.
2003年10月に発売。PalmOS5.2搭載。「デジタル手帳」として販売され、手帳の置き換えをねらったモデル。実質SJ33の後継機種で、6色カラーバリエーションが展開された。Palm OS5モデルで唯一、音楽再生機能が省かれた。
PEG-TJ37.
2004年発売。PalmOS5.2搭載。PEG-TJ25をベースに作られたモデルで、メモリが16Mから32Mになり、カメラが搭載され、音楽プレイヤーとしても利用可能である。同時発売のPEG-TH55の売れ行きが好調だったため、こちらは早々に生産終了になった。
PEG-TH55. |
アホウドリ(信天翁、阿房鳥、阿呆鳥、アルバトロス、"Phoebastria albatrus")は、ミズナギドリ目アホウドリ科キタアホウドリ属に分類される鳥類。
分布.
北太平洋に分布する。
夏季にはベーリング海やアラスカ湾、アリューシャン列島周辺で暮らし、冬季になると繁殖のために日本近海への渡りをおこない南下する。鳥島と尖閣諸島北小島、南小島でのみ繁殖が確認されていた。
2011年と2012年、2014年にはミッドウェー環礁でも繁殖が確認されたほか、2015年には小笠原諸島の媒島で戦後初となる繁殖が確認され、以降は嫁島や聟島でも繁殖が確認されている。
形態.
全長84 - 100センチメートル。翼開長190 - 240センチメートル。体重3.3 - 5.3キログラム。飛行できる現存の鳥類の中では最大級である。
全身の羽衣は白い。後頭から後頸にかけての羽衣は黄色い。尾羽の先端が黒い。翼上面の大雨覆の一部、初列風切、次列風切の一部は黒く、三列風切の先端も黒い。翼下面の色彩は白いが、外縁は黒い。
嘴は淡赤色で、先端は青灰色。後肢は淡赤色、青灰色で、水かきの色彩は黒い。
雛の綿羽は黒や暗褐色、灰色。幼鳥は全身の羽衣が黒褐色や暗褐色で、成長に伴い白色部が大きくなる。
分類.
以前は "Diomedea" 属に分類されていたが、ミトコンドリアDNAのシトクロムbの分子解析から "Phoebastria" 属に分割された。
種内ではミトコンドリアDNAの分子解析から、鳥島の繁殖個体群のうち大部分を占める系統と、鳥島の一部(約7%)と尖閣諸島で繁殖する系統の2系統があると推定された。北海道礼文島の約1,000年前の遺跡から発掘された本種の骨でも同様の解析を行ったところ、同じ2系統が確認されたため、少なくとも1,000年以上前には分化していたと推定され、この2系統の遺伝的距離はアホウドリ科の別属の姉妹種間の遺伝的距離と同程度であるため、別種としての分類も可能であるとされた。
2020年11月、北海道大学と山階鳥類研究所の研究チームはこれらの二種が別種であると確認し、発表した。この種は手根骨が短いことから翼長も短く、鳥島の系統と比較して巣立ちが2週間早いとされる。また繁殖地となっている鳥島でも尖閣の種とアホウドリでは別につがいを作ることもわかっている。
生態.
海洋に生息する。
魚類、甲殻類、軟体動物、動物の死骸を食べる。
繁殖様式は卵生。集団繁殖地(コロニー)を形成する。頸部を伸ばしながら嘴を打ち鳴らして(クラッタリング)求愛する。斜面に窪みを掘った巣に、10 - 11月に1個の卵を産む。雌雄交代で抱卵し、抱卵期間は64 - 65日。生後10か月以上で成鳥羽に生え換わる。
大柄な体格ゆえ、離陸には下り坂や向かい風を利用して助走する必要がある。助走中に風向きが変わったりした場合など、十分な揚力を得られずに離陸に失敗することもある。飛行中は波間の気流を捉えてダイナミックソアリングの技術を使うことで、全く羽ばたかずに数千キロの距離を滑空することが可能である。
人間との関係.
名称. |
「アホウドリ」という和名は、人間が接近しても地表での動きが緩怠で、捕殺が容易だったことに由来する。日本付近にはアホウドリ類が3種(本種のほか、コアホウドリ、クロアシアホウドリ)が生息するが、古くはそれらを区別せず、京都北部沿岸地方や沖縄で「あほうどり」、伊豆諸島の八丈島や小笠原諸島では「ばかどり(馬鹿鳥)」などと呼んだ。
その他の地方名として、「沖にすむ美しい鳥・立派な鳥」の意味合いのある「おきのたゆう(沖の太夫)」「おきのじょう(沖の尉)」(山口県日本海沿岸部)、クジラとともにやって来ることから「らい」「らいのとり」(九州北部沿岸地方)があり、そのほか「とうくろう」(高知県)などがある。また、八丈島や小笠原諸島では、本種を「しろぶ」あるいは「しらぶ」、クロアシアホウドリを「くろぶ」と呼び分ける用法もあった。
アホウドリという名称は蔑称であるとして、山口県の日本海沿岸部で古くから呼ばれているオキノタユウ(沖の太夫、沖にすむ大きくて美しい鳥)に改名しようとする動きもある。
漢字表記として「信天翁」があり、音読みにして「しんてんおう」とも呼ばれる。「信天翁」という言葉については、他の鳥が取り落とした魚が天から降ってくるのを待つ鳥と考えられていたことから来た名前である(明代の『丹鉛総録』に記述があるが、この「信天翁」という鳥は中国内陸部の雲南省に住むとされ、本種を指すかは疑わしい)。なお、尖閣諸島の久場島にはこの名にちなんだ「信天山」という山がある。このほか日本では漢語的表現として「海鵝」(かいが)などが使われたことがある。
英語名称は Short-tailed albatross が一般的に用いられるが、アホウドリ類のほかの種に比べて特別に尾が短いわけではない。
文芸との関連.
ドイツの哲学者にして詩人のフリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)は「あほう鳥」と題する詩において、空高く、漂うように飛んでいるあほう鳥に向かって「ぼくもまた永遠の衝動によって高処をめざす」(円子修平訳)と詠っている。
生息数の激減と保護.
羽毛目的の乱獲、リン資源採取による繁殖地の破壊などにより生息数は激減した。
1887年に羽毛採取が始まり、1933年に鳥島、1936年に聟島列島が禁猟区に指定されるまで乱獲は続けられた。当初は主に輸出用だったが、1910年に羽毛の貿易が禁止されてからも日本国内での流通目的のために採取され計6,300,000羽が捕殺されたと推定されている。以前は小笠原諸島・大東諸島・澎湖諸島でも繁殖していたとされるが、繁殖地は壊滅している。また彭佳嶼、西之島でも繁殖していたとされる。1939年には残存していた繁殖地である鳥島が噴火し、1949年の調査でも発見されなかったため絶滅したと考えられていた。 |
1951年に鳥島で繁殖している個体が再発見された。以降は測候所(後に気象観測所)による監視と保護が続けられていたが、1965年に火山性群発地震による気象観測所の閉鎖に伴い保護活動は休止した。1976年に調査や保護活動を再開し、ハチジョウススキ(1981年・1982年)やシバの植株と土木工事による繁殖地の整備、1992年には崩落の危険性が少ない斜面に模型(デコイ)を設置し、鳴き声を流す事で新しい繁殖地を形成する試みが進められ、繁殖数および繁殖成功率は増加している。
1971年に南小島の個体群も再発見され、1988年には繁殖が確認されている。2001年に北小島での繁殖も確認された。2014年には小笠原諸島の媒島で雛が発見され、さらに2015年2月、同島に生息するつがいが発見され、両者の羽毛のDNA解析から親子関係が証明され、小笠原諸島で戦後初の繁殖確認となった。
日本では1956年3月3日に「鳥島のアホウドリ及びその繁殖地」として天然記念物に仮指定、1958年4月25日に「鳥島のアホウドリおよびその繁殖地」として国の天然記念物に指定、1962年4月19日に特別天然記念物に指定、1965年5月10日に特別天然記念物の名称が「アホウドリ」へ変更された。1993年に種の保存法施行に伴い国内希少野生動植物種に指定されている。
1951年における生息数は30 - 40羽、1999年における生息数は約1,200羽と推定されている。2006 - 2007年度における繁殖個体数は約2,360羽(鳥島80%、尖閣諸島20%)と推定されている。2018年の調査では鳥島集団の総個体数は5,165羽と推定された。
鳥島で火山活動が活発化する兆しがあるため、小笠原諸島の聟島に繁殖地を移す計画が2006年から進められている。鳥島で産まれたアホウドリの雛の一部を聟島に運んで育てることで、聟島を新たな繁殖地として認識させるというもので、2012年12月時点では、2008年から2009年にかけて旅立った25羽のうちの12羽が帰島している。また、つがいが産卵していたことも日本放送協会 (NHK) のカメラによって確認されたが、孵化はしておらず未受精卵だった。
その後、2014年5月に聟島の隣の媒島においてアホウドリの雛が発見され、2015年2月にはその親である聟島を巣立った人工飼育個体と野生個体のつがいが発見された。また、2017年3月には媒島を巣立ったつがいの子が聟島に帰還したことが確認され、人工飼育個体の子世代初の帰還例となり、2022年には同島で生まれた個体が繁殖、孫世代が誕生している。 |
オレイン酸(オレインさん、、数値表現 18:1(n-9)または18:1(Δ9))は動物性脂肪や植物油に多く含まれている脂肪酸である。炭素原子間の二重結合を介して結合している一価の不飽和脂肪酸である。シス型のシスモノエン脂肪酸。18:1 ("n"-9) の略号で表される。消防法に定める第4類危険物 第3石油類に該当する。一価不飽和脂肪酸のω-9脂肪酸に分類される。
オレイン酸の命名は、オリーブ ("Olea europaea") の油から単離されたことが由来である。浅黄色から黄褐色をした液体で、ラードのようなにおいをしている。水には溶けず、クロロホルム、アセトン、ジエチルエーテルなどの有機溶媒に溶ける。比重は25℃で 0.89、融点 16.3℃。一部の植物油、例えばオリーブ油などの不乾性油やそれを原料とした油の豊富な食品に多く含まれる。二重結合をひとつしか含まないので酸化されにくいが、飽和脂肪酸と比較すれば当然酸化されやすい。
オレイン酸は皮膚に塗布した場合に皮膚バリア構造を破壊しうる。特に脂漏性皮膚炎を悪化させうる。クリームやローション等の化粧品の原料に多く用いられている。
生成、変換.
植物、微生物、ヒトを含めた動物の体内では、脂肪酸シンターゼによってアセチルCoAとマロニルCoAから直鎖の飽和脂肪酸が作られる。順次アセチルCoAが追加合成されるので原則脂肪酸は偶数の炭素数となる。体内で余剰の糖質、タンパク質等が存在するとアセチルCoAを経て、飽和脂肪酸の合成が進む。脂肪酸の合成は炭素数16のパルミチン酸で一旦終了する。16:0のパルミチン酸は、長鎖脂肪酸伸長酵素により、18:0のステアリン酸に伸張される。ステアリン酸は、体内でステアロイルCoA 9-デサチュラーゼ(Δ9-脂肪酸デサチュラーゼ)によりステアリン酸のw9位に二重結合が生成されてω-9脂肪酸の一価不飽和脂肪酸である18:1のオレイン酸が生成される。融点70℃のステアリン酸が融点16℃のオレイン酸に変換されることで体内の脂肪酸の融点が下がり、体温環境下で脂肪酸を液体に保ち、流動性を増加させる。
例えば豚の体脂肪であるラードや牛の体脂肪であるヘットにはオレイン酸が全脂肪中50%近く含まれている。母乳の全脂肪中のがオレイン酸で占められている。
このオレイン酸から、植物や微生物中で、ω6位に二重結合を作るΔ12-脂肪酸デサチュラーゼ によりオレイン酸の二重結合が一個増えてω-6脂肪酸であるリノール酸が生成される。ついでω3位に二重結合を作るΔ15-脂肪酸デサチュラーゼ によりリノール酸の二重結合が更に一個増えてω-3脂肪酸であるα-リノレン酸が生成される。ヒトを含めた後生動物にはリノール酸・α-リノレン酸を作る酵素が存在しないので、これらの不飽和脂肪酸は必須脂肪酸となる。
植物油の脂肪酸組成は植物油の一覧#植物油の脂肪酸組成を参照。
生体反応.
マルラオイルは、伝統的にアフリカ諸国で保湿に使われており、構成比率はオレイン酸69%とパルミチン酸約15%とこれらが主要な脂質になっており、マルラオイルの肌への塗布は、皮膚の水分含有量を増加させる。 |
『ParaParaParadise』(パラパラパラダイス)はパラパラオールスターズによる同名のパラパラ教則ビデオシリーズなどをもとに2000年にコナミからアーケードゲームとして発売されたパラパラをテーマとしたダンスゲームのシリーズ名。またはその1作目のタイトル。BEMANIシリーズの1つである。
2001年3月15日にPlayStation 2版が発売されている。
韓国では"ParaParaDancing"(パラパラダンシング)に名称を変更して発売され、韓国国内の有名アーティスト・アイドルグループのユーロビート曲が数曲追加されていた。
概要.
筐体は八角形のステージとその前にあるモニターで構成されている。
ステージの上には前方180度の範囲で45度ごとに計5つのセンサーが付いており、このセンサーが腕の動きを判定する。
前のモニターには譜面などの、ゲームに直接関係のある表示がされる。画面の下には選択用の左右ボタンと決定用のスタートボタンがある。この横にパラパラオールスターズによる振り付けが再生されるサブモニター(v1.1まではダンサーがパラパラオールスターズでない曲があったが、1stMIX Plusの時にそれらの映像は全て再録された)があることが多い。
なお、PlayStation 2版ではアナログコントローラもしくは専用コントローラが必須であり、アナログコントローラの場合はアナログスティックの操作により腕の動きを模することになる。専用コントローラは5つのセンサーユニットからなり、床に置かれること以外はアーケード版の筐体と同じような感じになる。
ゲームプレイの詳細.
ここでは2ndMIXについて述べる。1st系列では、これらの仕様に違いがある。
収録曲.
収録曲はSUPER EUROBEATからの楽曲や、コナミオリジナル曲で構成されている。コナミオリジナル曲は殆どが既存のBEMANIシリーズの楽曲をリミックスしたものである。特筆すべき点は「CAN'T STOP FALLIN' IN LOVE -super euro version-」で、当作品の為にパラパラオールスターズが付けた振り付けが2010年にXbox 360で発売されたDance Evolutionにてそのまま収録を果たしている(2012年にアーケードで稼働を開始した、Dance Evolution ARCADEにも収録)。
サウンドトラックはエイベックスから発売されたが1st - 1stMIX PLUSまでの楽曲しかフォローされず、2ndMIXに新規収録された楽曲がCD音源化されないままである。 |
KID(キッド)は、2007年2月 - 2012年にサイバーフロントにより運営されていたコンシューマーゲームのブランド。また、株式会社キッドは、2006年11月末まで運営していた企業。同社の自己破産、倒産によりサイバーフロントへと継承されることとなった。KIDとは「Kindle Imagine Develop」の略。
概要.
シューティングゲームやアクションゲームを制作していた時期もあったが、1990年代後半以降のゲームの大半は恋愛アドベンチャーゲームをはじめとするギャルゲーや乙女ゲームで、アダルトゲームのコンシューマー機への移植にも積極的に取り組んでいた。また、『Memories Off』や『infinity』などの自社の人気シリーズをWindowsに移植し、旧キッドの手により自社通販などで販売していた。
旧キッドの本社所在地は東京都品川区東大井の京急本線の線路沿いにあり、音楽館のゲーム『Train Simulator Real THE 京浜急行』および『Train Simulator 京成・都営浅草・京急線』にも登場する。
旧キッドの代表取締役と制作部取締役がどちらも市川姓であったため、しばしば同族経営の企業と勘違いされたが、両名は親戚ではなく偶然名前が一致していただけである。
歴史.
株式会社キッドの創業は1988年。当初は大手ゲームソフトメーカーの下請けで開発を行っており『サマーカーニバル'92 烈火』などを開発、1991年発売のFM TOWNS用『雷電伝説』(販売は電波新聞社)と翌1992年発売の『デスブレイド』で自社のブランド名を出した。このころのゲーム誌では「シューティングゲームやアクションゲームが得意」と紹介されていた。
1990年代半ばにいわゆる「次世代ゲーム機」が登場してゲームで扱われる容量が激増すると、それに応じて研究費やスタッフ教育費もかさむようになり、下請けのままでは資金を捻出できなくなった。これを機にキッドは開発から販売までを手掛けるメーカーとして独立し、1996年の『きゃんきゃんバニー プルミエール』を皮切りに、主にセガサターンに向けて移植した美少女ゲームソフトを発売するようになった。当時はまだ高価で一般に普及しきっていなかったパソコンのゲームを、セガサターンのユーザー層であるゲーム少年の手にも届くようにしようという意図によるものである。移植作品の代表作としては、『きゃんきゃんバニー プルミエール』のほか、『ONE 〜輝く季節へ〜』や『プリズム・ハート』が挙げられる。
PlayStationに向けた移植版の制作が大半を占めるようになってからは『ポケットラブ』などのオリジナルタイトルも手掛けるようになり、『Memories Off』や『infinity』のような看板作品が出現したことでギャルゲー市場を席巻することに成功した。
また、双六のようなボードゲームのシステム作りも行っており、タカラのSFC及びSS、PSソフトの「人生ゲーム」シリーズの初期の作品の開発を担当し、ゲーム中の固有名詞やEDテロップ内にも同ブランド名が見られる。同社がこの時の技術を元にSS・PS用に開発・販売した「ゲームで青春」や「テナントウォーズ」などは後に「SuperLite1500シリーズ」として復刻されている(ゲームタイトルが変更になったものもある)。
2001年から2003年にかけて、都営バスの各路線にてラッピングバスが登場し、知名度を上げる。2005年、フジテレビ系ドラマ『電車男』の制作にスポンサーとして協力、KIDの制作したゲームソフトのポスターが同ドラマ内にも登場した。 |
しかしながら、業界全体における売上不振の影響を受けて開発体制を縮小させたことにより、売上高も落ち込み、2006年11月30日付で営業を停止し、翌12月1日付で東京地方裁判所に自己破産を申請した。同月6日には東京地方裁判所により破産手続の開始が決定されたことが発表されている。
ブランド活動再開.
2007年2月2日、サイバーフロントが破産管財人から旧キッドが保有していたゲーム関連の一切の権利およびソースコードなどの資産を取得し、KIDのブランドを継承することを発表した。同日にサイバーフロント、KIDの両公式サイトのトップページでも同じ発表がなされている。これにより、倒産発表前に新作として発売が予定されていた『Memories Off #5 encore』および『12RIVEN -the Ψcliminal of integral-』は、サイバーフロントが開発および販売を引き継ぐこととなった。
2007年11月30日、5pb.がサイバーフロントより『Memories Off』シリーズを独占的・排他的に利用する権利を取得したことが発表された。これにより、今後の同シリーズに関する企画・開発・販売に係わる全ての業務は5pb.が請負うこととなった。それ以降も『My Merry May with be』『Monochrome』など、『メモオフ』以外の旧キッド作品はサイバーフロントから発売されている。また、『家族計画』『魂響〜御霊送りの詩〜』のように株式会社時代のキッドがかかわらなかった作品や、『code_18』のような完全新作にもKIDロゴが施されており、サイバーフロントのギャルゲー用総合ブランドとして活用されていた。ただし美少女キャラクターが中心となるゲームでも、工画堂スタジオや戯画の作品のようにキッドに含まれないものもある。
ブランドの終焉とその後.
KIDブランドは、2012年に事実上消滅した。運営会社であるサイバーフロントも2013年に解散した。
サイバーフロント解散後もギャルゲーは発売されているが、発売日が2012年内から年をまたいで延期された『黄昏のシンセミア portable』を例外として、KIDロゴは施されていない。
2014年にはブラウザゲーム『メガミエンゲイジ!』において、『メモオフ』以外の作品も含めた旧キッドのゲームキャラクターが「MAGES. / 5pb.」枠扱いで登場している。ただしKIDの名称そのものは使用されていない。
作品一覧.
廉価版は除く。"斜字表記があるものはアダルトゲームからの移植で、カッコ内は移植元のブランド・原題。"
SDR project.
KIDの作品群のうち、『Memories Off』シリーズや『infinity』シリーズといったブランドの中核に位置するものは、ゲームプロデューサーの市川和弘を中心としたプロジェクト「SDR project」に含まれている。
市川は2020年に行われたKIDの元関係者との座談会の中で、表向きのプロジェクトの名前の由来として、ギャルゲーの要である「センチメンタル(泣き)、ドラマティック(劇的な展開)、ロマンティック(萌え)」を挙げている。一方、同席していたゲームディレクターの柴田太郎はオートバイのヤマハ・SDRからとったと話している。
このブランドが最初に付与されたタイトルは『Ever17』で、同作の発売に合わせて「『Never7』や『Memories Off』のスタッフが新ブランドを立ち上げた」との発表がなされたが、実際にはプロデューサーである市川和弘の個人ブランドである。
株式会社KIDの倒産後は、サイバーフロントやMAGES.(5pb.)から「SDR project」を冠したゲーム作品が出ている。
廉価版. |
池田 勇人(いけだ はやと、1899年〈明治32年〉12月3日 - 1965年〈昭和40年〉8月13日)は、日本の政治家、大蔵官僚。位階勲等は正二位大勲位。
大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・6・17代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。全日本居合道連盟創立者及び初代会長。
概説.
大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、吉田茂の右腕として頭角を顕し、吉田内閣の外交・安全保障・経済政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。19世紀生まれの最後の首相である。
所得倍増計画を打ち出し、戦後日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした。
生涯.
生い立ち.
広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)にて父・池田吾一郎、母・ウメの間に7人兄姉の末子として生まれた。長女とは歳の差が20歳もある。忠海中学校の1年時に陸軍幼年学校を受験するが、近視と背丈の低さで不合格となる。第一高等学校を受験するが2度落第、1浪で第五高等学校入学。五高を経て1924年3月に京都帝国大学法学部卒業。
大蔵官僚時代.
挫折と生命の危機の克服.
京都帝国大学法学部卒業後、高等試験行政科をパスし1925年、同郷の政友会代議士・望月圭介の推薦を受け大蔵省へ入省。銀行局属。入省同期は山際正道、植木庚子郎、田村敏雄など。大蔵省の中枢は当時からすでに東大出身者で固められており、京大卒の池田は出世コースから外れた傍流であった。本来ならば地方の出先機関の局長や税関長止まりというキャリアで、入省後は相場の通り地方を廻る。1927年、函館税務署長に任命される直前に、望月の秘書だった宮澤裕に勧められ維新の元勲・広沢真臣の孫・直子と結婚する。媒酌は時の大蔵大臣・井上準之助だった。
宇都宮税務署長を務めていた1929年、当時不治の病といわれた難病の落葉状天疱瘡を発症して大蔵省を休職、休職期間が切れたため1931年に退職、以後3年間、吉名村の実家で療養生活を余儀なくされた。原因不明の難病に対し、周囲には冷たい視線を向ける者もいる中で、栄進への道を絶たれたも同然の池田は、失意に沈み、出世の階梯を異例のスピードで駆け上がる、1期後輩の迫水久常に切歯扼腕する思いであった。少しよくなりかけたころ、島四国巡礼をする。 |
闘病中には、看病疲れから妻の直子を狭心症で失っているが、やはり看病に献身した遠縁の大貫満枝との出会いといった出来事もあり(後に結婚)、1934年に奇跡的に完治する。医者も「どうして治ったのか判らぬ」と言っていたといわれる。再び望月の世話を受けて日立製作所への就職が内定したが、挨拶を受けた秘書課長の谷口恒二や松隈秀雄から復職を薦められる。同年12月に新規採用という形で、34歳にして玉造税務署長として大蔵省に復職した。玉造では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた前尾繁三郎と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる。
財政家として基盤の形成.
復職後は病気での遅れもあり、出世コースを外れ税制関係の地味なポストを歩み続けたが、やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。池田の徴税ぶりは有名で「税金さえとれば、国のためになる」と、野間清治や根津嘉一郎の遺産相続時の取り立ては凄まじかったといわれる。
当時省内では、賀屋興宣と石渡荘太郎の二大派閥が対立していたが、池田は同郷の賀屋派に属した。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長を経て、主税局経理課長として本省に戻り、しばらくは重要会議には全く呼ばれず、当分冷や飯を食わされたが、1941年、蔵相となった賀屋の下で主税局国税課長となる。本人は後に、国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。丁度太平洋戦争と重なり、賀屋と共に、日本の歴史上最大増税を行い軍事費の膨張を企てた。国家予算のほとんどは戦費で、財源の大部分が国の借金となり、国家財政は事実上の破綻に至る。1942年、臨時軍事費を捻出するため広告税を導入した(1945年廃止)。1944年、蔵相が石渡に交代して主流から外され、東京財務局長。出世の遅れに嫌気が差し、1期上の飲み仲間で当時満州国の副総理格だった古海忠之に「満州に呼んでくれないか」と頼んで承諾を得たが、母親に猛反対され断念した。
1945年2月に主税局長となり、出世の遅れはここでほぼ取り戻した。初の京大出身の局長として新聞記事になったほどの異例の抜擢だった。
1944年9月~1945年9月の間埼玉県春日部市に家族(妻と次女と三女)を疎開させていた。当時の春日部市は春日部町と言う町であり、春日部駅東口周辺に税務署があった。池田家の居住地はその周辺になる。池田本人も家族の疎開先の春日部町から大蔵省に通っていた。5月25日の東京大空襲で大蔵省庁舎の一部が焼失したため、必ず狙われる都心を離れ、局ごとに建物を分散した。主税局は雑司が谷の自由学園明日館に移っており、同所で終戦を迎える。 |
終戦後、池田は戦後補償の担当者だったといわれ、軍需会社や民間の会社が大蔵省に殺到した。1945年9月、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) から「日本の租税制度について聞きたい」と大蔵省に呼び出しがあり、前尾を伴いGHQ本部に出向き、戦後の税制改革の協議がスタートした。戦時補償の打ち切りと財産税法創設問題に精力的に取り組み、1947年2月、第1次吉田内閣(大蔵大臣・石橋湛山)の下、主計局長だった野田卯一を飛び越えて大蔵次官に就任する。終戦、そして主計局長の中村建城をはじめとする公職追放による人事の混乱に加え、池田の政界入りの野心を見てとった石橋の親心も作用した(次官抜擢は別説あり)。石橋蔵相下では石橋に協力して戦後の財政再建の実務を担当した。
次いで成立した[[日本社会党|社会党]]首班(民主、国民協同と3党連立)の[[片山内閣]]は[[社会主義]]を標榜し、戦時中から続いていた経済統制や計画経済の中枢として[[経済安定本部]](安本)の強化を図ったため、必然的に安本に出向くことが増える。ここで安本次官だった同郷の[[永野重雄]]と親しくなり、[[財界]]に強い素地を作る。
[[1948年]]、梅林組及び[[竹中工務店]]に対する融資問題で[[衆議院]]不当財産取引調査特別委員会に[[小坂善太郎]]、[[愛知揆一]]らとともに[[証人喚問]]された。同年、48歳で大蔵省を退官した。浪人中に政治家になることを猛反対していた母が亡くなったことが、政治家転身を後押しした。
政治家として.
新人で大蔵大臣.
[[1949年]]の[[第24回衆議院議員総選挙]]に[[広島県第2区 (中選挙区)|旧広島2区]]から出馬し、選挙戦の第一声を出身校の[[竹原市立吉名小学校]]の裁縫室で上げた。演説の話が難しすぎ、100人近くの聴衆はポカーンとして拍手一つ上がらなかったというが、初当選を果たす。以降死去まで在任、選挙は7回全てトップ当選した。[[中選挙区制]]においては空前絶後の記録である。
池田の所属する[[民主自由党 (日本)|民自党]]は大勝したが、選挙後の組閣([[第3次吉田内閣]])において、大蔵大臣のポストだけがなかなか決まらなかった。この年2月1日に[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の財政顧問の[[ジョゼフ・ドッジ]] (デトロイト銀行頭取)が[[駐日アメリカ合衆国大使|公使]]の資格で来日し、日本の[[インフレーション|インフレ]]収束について強力な政策が要求されると予想され、それまでのような蔵相ではとても[[連合国軍最高司令官総司令部|総司令部]]に太刀打ちできそうもないためであった。 |
外交官出身の吉田はマッカーサーとの信頼を築くことに専一で外交は玄人だが、財政経済は素人でほとんど無関心だったため、信頼に足る専門家を見つけ出して任せるしかなかった。吉田は[[第2次吉田内閣|前内閣]]で、[[池田成彬]]に擬えて[[泉山三六]]を蔵相に起用し大失敗した苦い経験があった([[国会キス事件]])。吉田は[[宮島清次郎]]に人選を依頼したが、宮島が挙げる[[向井忠晴]]ら候補者はみな[[公職追放]]の憂き目に遭っていた。
宮島から[[桜田武]]経由で話を聞いた永野重雄は、安本時代の次官仲間だった池田を推薦した。宮島が池田にテストを行ったが、宮島の厳しい質問は、池田の最も得意とする領域で、スラスラ答えたといわれる。池田は記憶力が抜群で、数字を丸暗記できる特技があった。宮島は、当時は財界でもその名を知る者はほとんどいなかった池田を吉田に推薦した。こうして池田は当選1回で[[第3次吉田内閣]]の大蔵大臣に抜擢された(就任日は1949年2月16日)。この人事には[[林譲治 (政治家)|林譲治]]や[[大野伴睦]]ら[[党人派]]が反対したが、最終的には吉田に頼まれた[[日本自由党 (1945-1948)|自由党]][[幹事長]]の大野が反対派をまとめた。池田は吉田の全権委任の形で経済を任されており、その後3度の内閣改造を経て解散されるまで蔵相に留任した他、[[第3次吉田内閣]]で[[経済産業大臣|通商産業大臣]]を、[[第4次吉田内閣]]では[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)#歴代大臣|経済審議庁長官]]を兼務した。
池田は大蔵大臣[[秘書官]]として[[黒金泰美]]と、官僚時代に英語が堪能で贔屓にしていた[[宮澤喜一]]を抜擢した。まもなく黒金が[[仙台国税局|仙台国税局長]]に異動したため、後任に固辞する[[大平正芳]]を否応なしに秘書官に起用した。
占領下の経済政策.
[[ファイル:Hayato Ikeda meets Joseph Dodge.jpg|thumb|240px|[[1949年]]、ジョゼフ・ドッジ(手前右)と]]
講和の下交渉.
1950年、生活の圧迫感からドッジ・ラインの緩和を求める声が国民の間でも強くなり、占領政策自体に対する不満に転化する気配が漂い始めた。この年6月に[[第2回参議院議員通常選挙|参院選]]も予定されていたことから、[[世論]]の悪化を恐れた吉田は、池田を渡米させ財政政策の見通しについてドッジに打診させることを目論んだ。
しかし渡米の最大の使命はこれではなかった。ドッジや[[ウィリアム・マーカット|マーカット]]少将から「[[日本国との平和条約|講和]]の交渉に池田をアメリカに行かせたらどうか」という進言があった。当時、対日占領の経済的負担がアメリカにとって過重となっていて、アメリカ政府の中にも軍事的要求が満足できるなら必ずしも講和に反対しない、という意見が台頭しつつあったといわれる。アメリカは日本を独立させるという条件を提示し、[[朝鮮戦争]]に全面的に協力させようと考えていたとする見方もある。 |
こうして表向きは米国の財政金融事情・税制、課税状態の実情の研究として、実際は[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|講和・安保問題]]の打診、"吉田からの伝言を預かり、これをしかるべき人に、しかるべき場合に伝える"という、重大なミッションを抱えて同年[[4月25日]]、吉田の特使として[[白洲次郎]]、[[宮澤喜一]]蔵相秘書官と共に渡米した。池田は戦後、日本の[[国務大臣|閣僚]]がアメリカの土を踏んだ第1号でもあった。
池田はそりの合わない白洲とは別行動をとり、通訳の宮澤とともに役所や工場の視察を重ねたのち、[[ワシントンD.C.]]でドッジ・ラインの緩和を要請した。また池田は近い将来の日本経済の飛躍的発展と、その基盤を成す輸出振興のために輸出金庫([[国際協力銀行|日本輸出銀行]]、輸銀)設立の構想を持っており、[[国際通貨基金]](IMF)総裁を訪ね、日本政府のIMF加盟、[[国際復興開発銀行]]([[世界銀行]])加入要請、輸銀創設の要請などの話し合いを重ねた。最終的な権限はGHQにあるため、まとまってもそこでは結論は出さずに、形式的にはGHQの決定に委ねる形であった。
[[5月3日]]、池田と宮澤が[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]にドッジを訪問、吉田からのメッセージを口頭で伝えた。「日本政府は早期講和を希望する。講和後も日本及び[[アジア]]地域の安全を保障するために、[[アメリカ軍|米軍]]を日本に駐留する必要があるであろうが、もし米軍側が申し出にくいならば、日本側から提案する形をとってもよろしい…条約締結の前提として米軍基地の存続が必要だとしても、日本はすぐにでも条約締結の用意がある」などと、[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|日米安全保障条約]]の基礎を成す内容を伝えた。国務省の立場を非常によくする内容の安保条約的構想のオファーに、[[ウィリアム・ウォルトン・バターワース|バターワース]][[アメリカ合衆国国務次官補(東アジア・太平洋担当)|国務次官]]が「白洲次郎から聞いていたのとは違う。吉田さんがそういうオファーをするなら、これは[[ディーン・アチソン|アチソン]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]に伝えよう」と言ってアチソンにそれを伝え、アチソンはそれを持って対日講和を含む議題があった[[ロンドン]]での外相会議に出席した。コピーのもう一部はダレスとマッカーサーに行き、日本側からそういうオファーがあるならと講和の準備が進められた。
なお、2人とは全くの別行動をとっていた白洲は、吉田からの安保構想は聞かされていなかったといわれ、宮澤は「この時の渡米は白洲さんにとってはあまり重要な任務でなかったのではないかと思う」と話している。白洲は皮肉をこめて「池田勇人というのはアメリカにとてもモテたんです。不思議に数字丸暗記できるという、一種の特技ですよ。日本の国家予算はあの時分はインフレだから、兆でなく何千億ですけど、それを、こういうものはこうでありましてと、ひょうひょうと言うんです。聞く方は口開けて見てましたね。頭脳明晰な、とても偉い人だと思って。アメリカ人はそういうところはわりに感心するんです。第一回の訪米のとき、アメリカの財界人は池田を買ったのです」などと述べている。 |
帰国後、GHQを差し置いて池田が[[官吏]]の[[給与]]引き上げ、税の軽減などをワシントンに直接伝えたと、渡米中の池田の言動についてGHQ[[民政局]] (GS) の[[コートニー・ホイットニー|ホイットニー]][[准将]]とGHQ経済科学局 (ESS) 長だったマーカット少将が激怒した。池田がアメリカで話したことは、日本側では極秘に付されていたが、GHQでは皆知っていた。また池田が「GHQが細部にわたって干渉することは適当でない」と司令部の人員削除を提案したことがマッカーサーに通じていてGHQの反感を買っているといわれた。吉田はドッジラインの譲歩などの池田の渡米みやげを翌月に迫る[[第2回参議院議員通常選挙|参院選]]の政治的キャンペーンに利用しようと考えていたが、吉田はマッカーサーと面会の約束が取れず、池田もマーカットに面会を断られたため、池田の渡米みやげは発表できなくなり、やむなく「おみやげはない」という政府声明を出した。このため池田は蔵相辞職、あるいは追放ではという噂が上がった。池田の窮地を救うため吉田がGHQと交渉し、池田が主張した官吏の給与引き上げ、税の軽減、輸銀創設、IMF、世界銀行加盟、小麦協定([[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定|MSA協定]])への参加などほぼ司令部から了解が得られ、池田の立場も救われた。占領下という極めて困難な条件の下で、国政の要ともいうべき外交と経済を、吉田と池田が長期にわたって分担したという共通の経験と思い出が、二人の関係をいっそう親密なものにした。以降、池田は単なる数字に強い財政家の枠を超えて吉田に次ぐナンバー2の地位を築く。一方の白洲は帰国後、自身の果たした役割を世に説明することもなく、[[鶴川村|鶴川]]に引っ込んで好きな農民生活に戻っていった。
なお、マッカーサーは池田訪米の本当の目的を池田の帰国後まで知らず、報告書を読んで激怒したとする文献が多いが、宮澤は後年のインタビューで「マッカーサーが吉田に講和を薦めた」と話している。
この年6月ダレスが、講和条約起草という目的を持って来日し、以降吉田との話し合いが進んだ。[[1951年]][[9月8日]]、サンフランシスコ講和条約が調印されるが、講和会議に出席した全権団のメンバーで講和条約に関わったのは池田だけである。当時当選1回で、しかも[[外務大臣 (日本)|外相]]でもない池田が全権メンバーに加わったことに異議を唱える者も少なくなく、宮澤でさえ「これは、相当の贔屓だな」と思ったという。[[日本国との平和条約|対日講和条約]]と[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|日米安全保障条約]]が調印(後者は吉田のみ署名)した後、ドッジらと会談も行われ、占領中に生まれた対米債務が主に議論された。
講和・独立後の政権運営. |
産業金融システムとして池田が設立したのが[[政策金融機関|政府系金融機関]]である輸出金庫([[国際協力銀行|日本輸出銀行]]、輸銀)と[[日本政策投資銀行|日本開発銀行]](開銀)である。日本の再興期に於いて、当時の四大重点産業である[[電力]]、[[石炭]]、[[海運]]、[[鉄鋼]]など、輸出力のない基幹産業に、当時の[[民間銀行]]は資金不足で投資ができず、財政余裕資金を国家要請に基づき、それらの分野に重点的配分し、[[基幹産業]]を復活させる目的を持った。本来は1947年に設立された[[日本政策投資銀行|復興金融金庫]](復金)が面倒を見るべきであったが、ドッジは復金は超インフレの元凶とみて反対し、GHQの純粋主義者は戦前・戦中の[[国策会社]]的なものは一切認めないという態度を崩さなかった。復金は融資を受けていた昭和電工が1948年に事件を起こしたことで([[昭和電工事件]])、[[経済安定本部]]が監督していた復金を池田が大蔵省指導へ移していた。「どこか他に上手い資金源はないか」と池田が思案し思いついたのが[[アメリカ合衆国国務省|米国務省]]からの[[経済協力局 (アメリカ合衆国)#見返り資金|見返り資金]]と政府が運営する[[郵便貯金]]であった。郵便貯金は[[明治|明治時代]]から存続し、大蔵省の預金部資金として集められ、[[不祥事|スキャンダル]]や様々な政治目的のための不正使用の歴史でもあったが、占領期間中、GHQはこの資金の用途を[[地方債]]の引き受けに限定していた。インフレが収まると預金者が充分信用してない銀行ではなく、[[郵便局]]に預けるようになるにつれ資金量が増えていた。池田はこの二つの資金を重要プロジェクトに利用したいと考え、ドッジと協議に入った。池田は輸銀と事実上復金の再生である新しい機関・開銀の設立を提案、うち輸銀に関しては[[資本財]]の輸出促進のため、銀行から通常借りられるよりもっと長期の資金が必要であるという池田の主張をGHQは理解して受け入れ、見返り資金と政府の[[一般会計]]からの資金、合計150億円を[[資本金]]として1951年2月1日に輸銀は営業を開始した。
もう一つの開銀の設立は輸銀より難航した。開銀設立は池田が「戦後日本に特殊銀行がなくなり、復金は機能を失い、見返り資金も将来なくなることを考えると、何らか新しい特殊金融機関が必要でないか」とドッジに提案したのが最初である。しかし池田のたび重なる要請にもかかわらず、ドッジは開銀は資金運用部資金(郵便貯金)から借り入れることを許さなかった。1951年になってドッジはやっと政府の特別プロジェクトへの郵便貯金[[特別会計]]からの支払いを認めた。但しその資本金は見返り資金から100億円を供出したのみで、[[金融債]]の発行や外部からの原資の調達は行わない、貸し出しの際も[[運転資金]]は取り扱わないなどの厳しい条件をつけた。 |
こうして1951年4月、開銀は設立された。開銀は調整プールの役割を演じ、業績が好転した産業からの回収金を、資金の欠乏している産業に再貸出した。両銀行設立にアメリカが[[経済協力局 (アメリカ合衆国)#見返り資金|見返り資金]]を提供したのは、日本を[[朝鮮戦争]]の兵站基地とすべく日本の[[財閥解体]]を中止させ、[[軍需産業]]の復活を狙っていたためともいわれる。池田が輸銀の初代総裁には河上弘一、開銀の初代総裁には[[小林中]]とそれぞれ腹心をあてた。輸銀と開銀は官僚の直接支配から独立した形での銀行であり、どちらもドレイパーやドッジ、[[M資金|マーカット]]、つまり米国の意向に沿ったもので、どちらも池田の指導・監督下にあり、池田は大手企業にも隠然たる力を発揮できるようになった。産業界への資金供給の主要な役を日銀の[[一万田尚登|一万田]][[日本銀行#歴代日本銀行総裁|総裁]]から取り上げたため、小林はこれに恩義を感じ、以降財界の池田シンパの中心的な存在になった。小林は開銀の頭取として民間企業へ見返り資金1400億円を融資し、その謝礼として借り手から保守政治家に対する献金を受け取り、政財界に絶大な影響力を持つようになった。5年以上に及ぶ在職期間中に小林が振るった権力は日銀総裁を凌ぐものだった。朝鮮特需により大企業はこの二つの銀行をフルに利用し、日本経済を大きく飛躍させた。自身の資金源確保という一面もあるにせよ、池田はこの占領下時代に、日本の高度成長期の礎をすでに築いていたのである。輸銀と開銀は行政上は大蔵省の管轄下にあったが、政策面では通産省が支配的な力を振るい、大きな力を持つようになった。 |
1952年には、池田主導の下に[[長期信用銀行法]]が成立し、旧[[特殊銀行]]であった[[日本興業銀行]]と新設の[[日本長期信用銀行]](以下、長銀)が長期金融を担当する民間金融機関として改めて誕生し、官民ともに長期資金の供給体制が確立した。長銀の第二代頭取には池田が[[日本勧業銀行]]での権力闘争に敗れた[[浜口巌根]]を据えた。これら政府金融機関による融資は、貧弱な社会資本充実のために「国営・準国営事業」や「公共的事業」に対しても行われ、1953年度から財政投融資資金計画として「[[公社]]」に再編された[[日本国有鉄道|国鉄]]と[[日本電信電話公社|電信電話事業]]及び[[帝都高速度交通営団]]・[[日本郵政公社|郵政事業]]特別会計・特定道路整備事業特別会計(のちの[[日本道路公団]])・[[電源開発|電源開発株式会社]]・[[日本航空|日本航空株式会社]]などにも投資された。池田は税務畑の出身で、本来[[金融]]は畑違いだったのだが、苦心の対米交渉が実を結び、金融分野で思わぬ業績を挙げたことが得意だったらしく、「[[大手町 (千代田区)|大手町界隈]]は、オレの作った銀行ばかり。池田銀行街になったな」とよく自慢していたという。1949年「従来の[[一県一行主義]]に固執することなく、適当と認めるものは営業を許可する方針である」と表明し、この政策転換により1951年から1954年にかけて[[北海道銀行]]、[[東北銀行]]、[[千葉興業銀行]]、[[東京都民銀行]]など全国に12の新銀行([[戦後地銀]])が設立された。この他、戦後の[[投資信託]](投信)復活は、証券業界の要望を受けた池田が1951年に[[議員立法]]で投信法を提出し、証券会社が委託会社を兼ねることにGHQは難色したものの成立、同年6月の「[[投資信託及び投資法人に関する法律|証券投資信託法]]」公布が切っ掛けである。[[野村ホールディングス|野村]]、[[日興コーディアルグループ|日興]]、[[山一證券|山一]]、[[大和証券グループ本社|大和]]の四証券会社を皮切りに計7社が委託者登録・投信募集を開始し、これを機に株式投資ブームが興り、このブームを背景に増資ラッシュが起こったといわれる。戦後の様々な[[金融機関]]の設置はドッジ・ライン下で行われたため、事実上、池田・大蔵省が戦後日本の経済体制の基本を形成した。 |
吉田内閣は、成立当初は[[白洲次郎]]が吉田の懐刀のような仕事をしていたが、経済政策が政治・外交と結びついて展開していったため、池田が入れ替わって吉田の右腕になっていく。池田の自由党とは反目になる1954年の[[日本民主党]]結党時のころの池田の政財界への影響力について[[椎名悦三郎]]は「[[三木武吉|三木さん]]が[[岸信介|岸さん]]を幹事長にしたのは、自由党に財政通の池田君がいて、ずっと表裏の蔵相をつとめて大蔵省を仕切っていたからだ。あの当時は実業界もがらがらと変わり、みんな追放になったから総務部長程度が大幹部に収まっていた。財界といっても、勘定は少し儲かっていたが銭はない。しかし税金は納めねばならない。そこで大蔵省に頼み込み、税金を年賦にしてもらったり、[[日本政策投資銀行|復興金融金庫]]に[[融資]]を依頼したりした。財界はみんな池田参りをしてね。どいつもこいつも、池田君に助けられていた。だから財界に対する池田君の力は隠然たるものがあった。こちら側で池田君に対抗する人物は岸さんしかいなかった」と話している。ドッジ・ライン以降、池田が首相として「所得倍増計画」を打ち出すまでの12年間は、一貫してアメリカとの交渉を通じて対米信用を獲得しつつ、日本の経済復興を推進した時期といえる。
経済の停滞は続いたが、ドッジ・ラインという劇薬と、[[1950年]]6月の[[朝鮮戦争|朝鮮動乱]]勃発による[[朝鮮特需|特需ブーム]]により、ようやく戦後の日本経済は不況を脱した。また[[経済協力局 (アメリカ合衆国)#見返り資金|見返り資金]]の管理を重要視したドッジが、大蔵省から独立した見返り資金管理官という[[事務次官|次官級]]または[[国務大臣|大臣級]]のポストを新設してはどうかと池田に相談し、池田が吉田と相談し大蔵省内に次官クラスの役職として1949年6月に[[財務官 (日本)|財務官]]という役職を新設し、初代の財務官には[[渡辺武 (官僚)|渡辺武]]を任命した。また同月、大蔵[[政務次官]]として部下となった京大の後輩・[[水田三喜男]]を可愛がり、後の[[第1次池田内閣]]で[[大野伴睦|大野派]]ながら『所得倍増計画』を推進する大蔵大臣に抜擢した。
[[1951年]]、[[正力松太郎]]からの要請で、日本初の民放テレビ・[[日本テレビ放送網]]設立のための資金を財界人から調達。同年、[[日本医師会]]の[[田宮猛雄]]会長、[[武見太郎]]副会長から請求された[[健康保険|健保]]の[[診療報酬]]大幅引き上げは、1954年の「医師優遇税制」と形を変え導入された([[#閣僚時代|詳細は後述]])。1951年の[[増田甲子七]]の[[自由党 (日本 1950-1955)#歴代執行部役員表|自由党幹事長]]起用あたりから、自由党の人事にも関わり、吉田から相談を受けるようになった。1952年1月、戦死者遺族援護費をめぐり[[橋本龍伍]][[厚生省|厚生大臣]]と対立し、橋本が辞任した。 |
1952年8月、吉田と密談を重ねて[[抜き打ち解散]]を進言する。自由党の中でこの解散日を知っていたのは、吉田と池田以外は[[保利茂]][[内閣官房長官]]と[[麻生太賀吉]]の二人のみで、その二人も池田が後から伝えたといわれる。[[衆議院議長]]の[[大野伴睦]]も自由党幹事長・[[林譲治 (政治家)|林譲治]]さえ知らなかった。選挙資金の準備が整う前に抜き打ち解散をすれば、自由党の圧勝、[[鳩山一郎]]一派への大打撃になると池田が読んで吉田に進言したものであるが、自身の選挙も危ないという事情が一番にあった。当時[[公職追放]]を解除された恩人の[[賀屋興宣]]は東京から出馬することになったが、[[永野護 (政治家)|永野護]]が同じ[[広島県第2区 (中選挙区)|広島2区]]から立候補することになり、[[石橋湛山]]が当時盛んに池田財政の非を訴え、広島にも乗り込んで煽っていた。
講和の下交渉の際に打診していた日本の[[国際復興開発銀行]]([[世界銀行]])と[[国際通貨基金]] (IMF) 加盟が認められ、[[第25回衆議院議員総選挙|選挙期間中]]の9月に[[メキシコシティ]]で開催された総会に宮澤を伴い出席。ユージン・ブラック世界銀行総裁に只見川の電源開発資金([[只見特定地域総合開発計画]])の借り入れを打診し賛同を得た。また[[ジョン・スナイダー|スナイダー]][[アメリカ合衆国財務長官]]とドッジ国務長官顧問から後に[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定|MSA交渉]]で展開される軍事援助の問題を伝えられた。一本立ちした日本の大蔵大臣として、世界各国の蔵相や[[中央銀行]]総裁と、初めて対等の立場で物が言えた。池田は数多い外遊の中でも晩年までこのメキシコ行を懐かしんだという。
しかし帰国すると吉田一派と鳩山一派の対立は、手が付けられない状態となっており、やむなく池田と[[広川弘禅]]農相とで、吉田批判の元凶と目した石橋と[[河野一郎]]の[[除名#政党の除名|除名処分]]を強引に決め、吉田に進言して実行させた。当時、林譲治、[[益谷秀次]]、[[大野伴睦]]の「吉田御三家」といえども、池田、佐藤という新興勢力を抑えられなくなっていた。
同年[[10月30日]]に発足した[[第4次吉田内閣]]では、通商産業大臣と[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済審議庁長官]]を兼務し入閣した。この時、電力の分割民営化を目指す[[松永安左エ門]]が、[[三鬼隆]]、[[水野成夫]]、[[工藤昭四郎]]らの電力統合派と政府委員会で争うが、多勢に無勢で敗北濃厚となり、通産大臣の池田に直談判して来た。池田は松永の熱意に驚き協力を約束して形勢が逆転、その後[[電気事業再編成令]]の発令による分割民営化(九電力体制)が成された。これをきっかけに、松永が池田を可愛がるようになった。松永との関係が後の水主火従から火主水従という[[エネルギー革命|エネルギー切り替え]]に繋がった。 |
戦後GHQは保守化した農村を[[共産主義]]からの防波堤にしようと「[[農地法]]」の制定を農林省に命じた。与党自由党や農林省は反対したが、GHQと同様の考えを持っていた池田は保守の支持基盤ができると考え、池田の強い働きかけによって同法は1952年7月成立した。「農地法」の制定によって[[農地改革]]による零細な農業構造が固定され、規模拡大による農業発展の道は閉ざされた。戦前から有力だった農村の共産主義、社会主義勢力は消滅し、農村は保守化した。池田の狙いは見事に実現し、保守化した農家・農村は[[農業協同組合|農協]]によって組織化され、農協が自民党の集票基盤になった。農協は自民党政権下で、最大の圧力団体となっていった。
度重なる問題発言.
[[画像:IKEDA Hayato.jpg|240px|thumb|池田勇人(1952年)]]
池田は吉田からの信認厚く、その自信過剰のあまり問題発言を連発し、物議を醸すこともあった。大蔵・通産大臣(第3次吉田内閣)時代の[[1950年]][[3月1日]]、「[[中小企業]]の一部倒産もやむを得ない」、さらに[[12月7日]]、「貧乏人は麦を食え」と発言したとしていずれも問題となる。占領軍の権威を笠に着る吉田の、池田はその代弁者ということで攻撃を浴びた。また1年生で蔵相に起用されたことで、与党内はもちろん、野党議員まで反発し、国会でいろいろと意地悪された。池田自身も吉田に目を懸けられ得意気になっており、衆院本会議で質問に答弁しようとする閣僚を制して「これらが、いずれも予算に関係がありますから、私から代わってお答えします」と勝手に答弁をするなど、一人で内閣を背負っているような気持ちになっていた。日ごろから「池田というのは若いくせに生意気だ」という空気があり大問題になった。"貧乏人は麦を食え発言"をやったときには、委員会が騒然となり、「放言だ!」「重大問題だぞ!」と声が上がり、池田叩きのネタをつかんだ新聞は「またやった!」と大喜びした。
1952年[[11月27日]]、[[加藤勘十]](社会党)の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」とまた問題発言をしたため、翌日に野党が[[不信任決議]]案を提出した。吉田政権は与党内に激しく対立する反主流派を抱えており、その一部が採決時に欠席したことにより、不信任案が可決された。[[日本国憲法]]下での唯一の閣僚不信任である。閣僚不信任決議に法的拘束力はないが、無視した場合には[[内閣不信任決議]]にもつながりかねない状況であったため、池田は決議に従って大臣を辞任した。このとき、中小企業の育成に尽くしてきたという自負から、池田は発言を撤回しなかった。
雌伏期から自民党の大物政治家へ.
失言の度に、大衆の反感をかったことから、いかに大衆と結びつくべきかを考え、後の大衆に向けてのサービス精神を養った。この不信任案可決以降、池田に近い党人グループが「池田を慰める会」を設け、定期的に会合を開くようになった。このころから池田は[[派閥]]を作ろうという気を持ち「将来、おれを総理にやるんだ」といい始めた。 |
その後も党・政府の要職を歴任する。[[1953年]][[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]政調会長に就任。政調副会長には[[水田三喜男]]や前尾繁三郎など政策通を取り揃え「大政調会」と謳われた。実力は相当で、大蔵官僚は池田の許に何かと通い、人事から政策まで逐一相談した。当時の[[副総理]]は[[緒方竹虎]]だったが、池田は「もう一人の副総理だ」の声まで上がった。八方塞がりだったこの時期に池田がこれ程の力を持てたのは変わらぬ吉田の寵と、自身が築き上げた大蔵省内外に張り巡らせた人脈と政策力のためである。また[[松野頼三]]は池田の下で政調副会長として鍛えられ、政策通としての素地を作った。松野は「政調会長は権威がないかも知れないけど池田は権威があった。大蔵大臣は何をしているのだろうと思うくらい、全部池田がやっていた」と述べている。
1953年5月、[[朝鮮戦争休戦協定]]と前後して[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定|MSA問題]]が表面化。MSAとは米国が1951年10月に作った[[相互安全保障法]]のことで、対外経済援助と米国の世界軍事体制を結合させる役割を担うものだったが、米国はこのMSA援助を日本にも適用し、朝鮮戦争で用いた兵器を日本に転用して日本の防衛力を増大することを目指していた。これに対して日本側では、[[財界]]が[[朝鮮特需]]に代わる経済特需をこのMSA援助に期待しており、両者の思惑が食い違っていた。8月に[[ジョン・フォスター・ダレス|ダレス]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]が訪日、吉田に[[保安隊]]増強を提案したが不調に終わったため、防衛問題と経済援助での日米間の意見調整を目的として、10月、池田が吉田個人の特使として、宮澤と[[愛知揆一]]を伴い渡米。[[池田・ロバートソン会談]]で[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定|再軍備を巡る交渉(MSA協定)]]が行われた。烈しい交渉の結果、自衛力増強の努力を続けることで日米間の合意が成立した。
この交渉がきっかけとなって自主防衛への取り組みが進み、[[防衛省|防衛庁]]新設、[[自衛隊]]発足、[[日米相互防衛援助協定等に伴う秘密保護法|秘密保護法]]成立などの安保政策につながった。また、農産物取引によって米国の余剰農産物を受け入れたことによって日米間の農産物貿易自由化・日本の食卓の洋食化が進んだほか、教育分野でのいわゆる「[[逆コース]]」([[教育二法]]による[[日本教職員組合|日教組]]の影響力の排除や、[[道徳教育|道徳]]・倫理の科目増設など)のきっかけにもなった。
政界再編成と宏池会の結成. |
1954年の[[造船疑獄]]で[[東京地方検察庁|東京地検]]は、[[政治資金]]が豊かな池田と佐藤に焦点を当てて[[捜査]]を進めたが、佐藤逮捕の寸前に[[犬養健]][[法務大臣|法相]]の[[指揮権 (法務大臣)|指揮権]]発動によって免れ、事件そのものがうやむやになって池田の関与の有無も判然としないまま終息した。この事件で池田は[[参考人]]として[[事情聴取]]を受けたにも拘らず、5ヵ月後の同年7月26日、佐藤の後任として[[自由党 (日本 1950-1955)#党史|自由党幹事長]](12月29日まで)に就任。同年、重光、[[鳩山一郎]]、[[三木武吉]]、[[松村謙三]]ら党内非主流派と[[改進党]]による新党結成([[日本民主党]])の動きを見て、幹事長として自由党丸ごと新党なだれ込みを策したが、吉田退陣を明確にしなければ自由党丸ごとの合流は認めないと拒否され、新党に近づく岸と石橋を自由党から除名した。石橋は恩人ではあるが、反吉田派と吉田派という立場で長く敵対関係にあり、この時点で亀裂があった。[[1955年]]の[[保守合同]]に参加することは、鳩山を擁する三木武吉や[[河野一郎]]、岸らに頭を下げることになり吉田派は迷った。池田は反対グループの中心的存在だったが、現実的に判断し吉田派全体を長老の[[林譲治 (政治家)|林譲治]]・[[益谷秀次]]とともにまとめて[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に参加する。吉田にも入党を勧めたが佐藤が反対し、吉田と佐藤は[[無所属]]になった(吉田・佐藤の自民党入党は1957年2月)。
1954年12月から1956年12月までの鳩山内閣の2年間は、完全に冷や飯を食わされた状態になる。また鳩山政権下で吉田派は池田と佐藤の両派に次第に割れてゆく。政争の一環として、鳩山政権全期間にわたって大蔵大臣を務めた[[一万田尚登]]へ、背後から大蔵省に影響力を行使して嫌がらせをした。池田は一万田とは比較にならないほどの政治力を持っていた。ただし1956年5月の[[日本の戦争賠償と戦後補償|日比賠償協定]]締結には、[[藤山愛一郎]]に頼まれ、強く反対する大蔵省を抑えるなど協力している。吉田一派は親米嫌ソだったため、[[日ソ共同宣言|日ソ国交回復]]の際には、池田は「人気取りの思い付き外交、しかも国際的地位を傷つける二元外交」などと激しく反対し、「[[モスクワ]]に行くなら脱党だ」と息巻いたが、前尾がやっとの思いでなだめ思いとどまらせた。[[ジョゼフ・ドッジ|ドッジ]]、吉田という2人の強力な庇護者が権力を喪失した上、保守合同による新党結成の働きが大であった[[緒方竹虎]]という強力なライバルの台頭により、池田は鳴かず飛ばずの状態になった。保守合同の過程とこの後の岸内閣期に池田は岸と対立、または妥協したが、それには次期首相への伏線が張られていた。 |
[[1956年]]12月の鳩山退陣に伴う後継争いで池田は[[水曜会 (自民党)|石井派]]に加担、打倒岸へ向けて動いた。石井派は文教や財政の専門家は多いが党務の経験者がおらず、短期間でも自由党幹事長を務めた池田の系列の議員が選挙の指揮を執った。岸反対で共通する[[二日会|石橋支持派]]の参謀・[[三木武夫]]と2、3位連合の政略を立てた仕掛けが成功、[[石橋湛山]]が[[1956年12月自由民主党総裁選挙|決選投票]]で岸を僅差で逆転した。一説には、石橋が総理になった方が自身が蔵相として復帰できると計算、石橋が2位になるよう自派の票を石橋に流したといわれる。同年[[12月23日]]に成立した[[石橋内閣]]で、石橋は積極財政を展開するため蔵相に池田を起用しようとし、党内から猛反発を受けたが「他の人事は一切譲ってもいいから」と池田蔵相に固執し大蔵大臣を引き受け、石橋・池田コンビは「1000億円施策、1000億円減税」という積極政策を打ち出す。この「1000億円施策、1000億円減税」というアイデアは、決選投票後に池田が石橋に伝え、石橋が概ね賛成した。1961年から1964年までアメリカの[[大統領経済諮問委員会]]議長を務めた[[ウォルター・ヘラー]]が後に[[ジョン・F・ケネディ]]の減税政策にこの[[キャッチコピー|キャッチフレーズ]]を真似たともいわれる。しかし同内閣が2か月の短命に終わり、池田も後継候補に挙がったが党内の抵抗があり、石橋の療養中に臨時首相代理を務めた外相の岸が後継となる。
[[1957年]]2月、[[第1次岸内閣]]となり、政敵の岸に抱き込まれ大蔵大臣を引き継ぐ。岸は、金融政策を含め、経済政策を池田任せにした。ここで岸とコンビを組み、政官一体を演出するが、[[第1次岸内閣 (改造)|1957年7月の内閣改造]]で、岸が[[日本銀行|日銀]]寄りの一万田を蔵相に起用。池田は他ポストへ横滑りを要請されたが「蔵相以外はノー」と蹴飛ばし閣外に出て党内野党に転じる。しかしこの雌状期に池田を支える後援組織が整い、政権への道が地固めされていく。それは政治力だけでなく、後の「所得倍増計画」に繋がる池田の政策路線が確立される過程でもあった。すなわち、健全財政と積極主義とを結びつける理論的裏付け、そして世論を取り込む政治的[[スローガン]]の獲得であった。[[1957年]]10月ごろには旧自由党の吉田派を佐藤と分ける形で自らの政策集団・[[自由民主党の派閥|派閥]]である[[宏池会]]を結成した。宏池会は経済を旗印にした初めての政策集団であり、自民党派閥の原点といわれる。宏池会は1957年10月に[[機関紙]]「進路」を発刊し公然と派閥を旗揚げした。これを見た自民党執行部が、岸の意向を受けて「党内の派閥を解消すべきだ」と唱えだした。国民が自民党内の"派閥"の存在を明確な図式として意識するようになったのはこの時からだった。 |
宏池会の政策研究会「木曜会」のメンバーだった[[下村治]]をはじめとする[[エコノミスト]]や官僚系議員たちとともに、このころから「所得倍増」の基となる政策構想を練り上げていく。下村ら研究会の論争は宏池会事務局長・田村敏雄を通じて池田に報告された。池田の"勘"と下村の"理論"を結びつけたのは田村で、3人の独特の結びつきの中から『所得倍増』は生み出されたといわれる。池田は大蔵省の税務畑を歩き、その実務に通暁していた。同時に数字について異常な関心と能力があり、経済現象の予見を可能にした。池田の頭の中には、数字で構成された世界ができており、下村たちの理論が池田の頭脳の中で強い反応を起こして導き出されたのが「所得倍増論」である。
また財界人のバックアップも、この時期強化された。池田は大蔵省出身者の集まりは勿論、[[桜田武]]や[[永野重雄]]、[[近藤荒樹]]、[[小田原大造]]、[[廿日出要之進]]といった広島出身者、[[奥村綱雄]]や[[太田垣士郎]]、[[堀田庄三]]、[[堀江薫雄]]ら、五高や京大の学閥の集まりや支援者を既に持っていた。他に吉田が「池田の将来のため、みんなで応援してくれないか」と財界人に声をかけて作られた「末広会」という[[財界四天王]]を中心として集まったものや、[[松永安左ヱ門]]が池田の支持者を集めて作った「火曜会」などがあり、これほどの人脈が参集したケースは歴代内閣でも例を見ないといわれた。。特に池田と同じ明治32年生まれで集まる[[小林中]]ら「二黒会」のメンバーとは親密な付き合いだった。財界四天王に[[鹿内信隆]]を加えた少人数で話し合う会は極秘中の極秘だった。経済担当相を歴任した池田は、財界とのつながりが深く、財界も特に戦後の資本主義的再建に果たした池田の手腕を高く買っていた。吉田やドッジの庇護から自立しながら政治的地位を引き上げなければならなくなった池田は、異能なブレーンやアドバイザーを多く擁して足場を固めた。また保守合同をめぐり佐藤との関係が複雑になり、佐藤の実兄の岸が総理になったことで吉田とも距離を置くようになった。 |
[[1958年]]、[[話し合い解散]]による同年5月の[[第28回衆議院議員総選挙|総選挙]]では、岸派、佐藤派、河野派、大野派の主流4派から外された池田派は、自民党から公認が得られず、大半が非公認のまま選挙を戦った。池田は自派全ての候補者の応援に回り、のちに池田の妻が秘書に「あんな強行日程は組まないで欲しい」と言われたほどの強行軍の結果50名が当選、岸派57名に次ぐ第2派閥に躍り出る。しかし選挙後の[[第2次岸内閣]]では、主流四派で組閣が進み、池田には最後に[[防衛大臣|防衛庁長官]]を提示された。しかし岸政権への協力が政権獲得の近道と見て、無任所の[[国務大臣]]を引き受ける。11月、アメリカ[[シアトル]]で開催された[[コロンボ会議]]に出席し、アメリカの[[中間選挙]]で大勝した[[民主党 (アメリカ合衆国)|アメリカ民主党]]の[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]・ジョン・W・シュナイダーにお祝いを言った際、後に標語として用いた「寛容と忍耐」という言葉をシュナイダーから聞いたと言われる([[#低姿勢・寛容と忍耐首相時代|諸説あり]])。反岸を鮮明にし同年12月31日、岸の[[警察官職務執行法|警職法改正案]]の審議をめぐる国会混乱の責任を迫り、池田、[[三木武夫]]、[[灘尾弘吉]]の三閣僚で申し合わせ、揃って辞表を叩きつける前例のない閣僚辞任を画策。岸が辞任を認めないため、今度は反主流派三派、池田、三木、[[石井光次郎|石井]]らで刷新懇談会を作るなどして岸と主流四派を揺さぶり、また行政協定についても、三木や[[河野一郎]]らと謀り、そろって改訂を主張して岸に圧力をかけた。保守合同以来、はじめての自民党分裂の危機だった。 |
[[1959年]][[2月22日]]、郷里の広島に戻り、[[広島市立袋町小学校]]の講堂で行われた時局演説会にて、後に歴史的なキャッチコピーとも評される「[[所得倍増計画]]」「月給倍増論」を初めて口にした。同年[[6月18日]]の[[第2次岸内閣 (改造)|第2次岸改造内閣]]では、「悪魔の政治家の下にはつかん」と断言していたが、岸が「陛下が、政局の安定、ひいては内閣の統一を希望している」と持ちかけ、池田を感動させた、岸と佐藤の使い・[[田中角栄]]から「政局の安危は貴方の閣内協力にかかっております。天下のため入閣に踏み切って下さい。そうすれば次の政権は貴方のものです」と口説かれて、あるいは影のブレーン・[[賀屋興宣]]が「内閣に入って首相を狙え」と口説かれたともいわれるが、大平は「あの時は、1日に株が30円も下がって、内閣改造がもう1日のびたら岸さんは、これを投げ出すという段階に来ていたから、再入閣は私がすすめた」と話している。大平以外の側近は「たった半年で変節したら世間から何と言われるか」などと猛反対していたが、池田自身も後述する理由から無視して通産大臣に就任した。保守政界の一方の雄として政治家池田の擡頭を印象付けたが、ここで岸内閣の閣内にいたことは大きな意味を持った(後述)。[[安保闘争#闘争の激化|安保闘争が激化]]した同年6月には、[[自衛隊]]の[[治安出動]]を強く主張した。治安出動に強硬だったのは、池田と[[川島正次郎]][[自由民主党幹事長|幹事長]]だった。
内閣総理大臣.
[[File:Hayato Ikeda Cabinet 19600719.jpg|220px|thumb|1960年7月19日に発足した[[第1次池田内閣]]]]
[[File:Korea-Photo-News-3.png|thumb|220px|[[朴正熙]]大統領と池田(1961年11月11日)]]
安保闘争と差し違えで倒れた岸内閣の後継として、池田は[[1960年]]7月19日に[[内閣総理大臣]]に就任、[[第1次池田内閣]]が発足する。池田政権はその後、2度の解散総選挙と4度の内閣改造を経て、[[1964年]][[11月9日]]まで続く長期政権となった。
池田は安保闘争の時の強硬な立場から、安保改定を強引に押し通した岸政権の亜流になるのではないかと見られていた。しかし、池田は60年安保を通じて、テレビをはじめとするメディアが大衆の世論形成に影響を与えることを肌で実感し、それを逆に利用する戦略をとる。吉田内閣時代や安保闘争で定着していた自身の反庶民的・高圧的なイメージを払拭することに努め、「低姿勢」「寛容と忍耐」の信条をテレビを通じて国民に見せ、「庶民派」を演出した。一方、重要政策と見られていた安保・外交や憲法などを封印し、数年来自身のブレーンらとともに懐で温めていた「[[所得倍増計画]]」を池田内閣の目玉政策として発表、日本の社会を「政治の季節」から「経済の時代」へ巧みに転換した。さらに、内閣総理大臣官房広報室(現・[[内閣府大臣官房]][[政府広報]]室)の機能を拡充させ、現在の[[タウンミーティング]]のはしり(当時は「一日内閣」と呼称)も行われた。 |
[[第29回衆議院議員総選挙|1960年11月の総選挙]]では、当初は安保を争点とするつもりであった社会党など野党もあわてて経済政策を前面に出すなど、選挙戦は自民党のベースで進み、結果は戦後最高となる301議席、自民党の圧勝であった。さらに、社会党は得意としていた「貧困対策」を自民党の「所得倍増計画」で先取りされ、安保闘争からの党勢拡大の勢いが頭打ちとなり、結局社会党は自民党を議席数で上回ることが一度もなかった。
また、所得倍増政策の一環として、[[国土計画]]の第一歩である「[[全国総合開発計画]]」(全総)を発表(1962年10月)、[[太平洋ベルト地帯]]の形成を始め、政府主導のインフラ設備投資が始まる。後に、自民党の政治家と後援会は選挙区への[[公共事業]]の誘導で密接なつながりを形成し、自民党は1970年代の派閥政治へと向かってゆく。
通商政策としては、[[自由貿易]]が日本の[[先進国]]入りには不可欠であるとの認識を持っており、首相在任中に、輸入自由化率を43%から[[西ヨーロッパ|西欧]]諸国並みの93%にまで引き上げた。池田は自由化を推し進めるために、選挙区内の[[広島レモン|レモン]]農家までを敵に回した。さらに、石油の輸入自由化によって石炭は斜陽産業となり、[[日本炭鉱労働組合|炭労]]や社会党の打撃となった。その一方で、労働者保護のための社会保障政策の拡充も成し遂げられる。
文部行政としては、それまでの文科系学問の優遇(国庫補助など)を改め、技術革新による経済成長に対応させるために、医学をはじめ理工系を重要視した予算を組んだ。また、[[高等専門学校]](高専)の設置も進んだ。
[[第一次産業]]に関しては、1961年に[[農業基本法]]を成立させ、遅れていた農業の近代化に取り組んだ。この政策においても、利益団体との癒着が見られるようになる。
また、総理在任中に行われた[[朝日新聞社]]の世論調査においては、鳩山内閣から宮澤内閣までの全自民党政権を通じ、唯一内閣支持率が内閣不支持率を下回った事がなかった。
退陣、死去.
[[画像:Grave of Hayato Ikeda.jpg|240px|thumb|池田の墓]]
[[1964年]][[9月9日]]、[[国立がんセンター]]へ[[喉頭癌]]の治療のため入院した。すでに癌は相当進行していたといわれる。病名は本人に告知されることなく、「前がん症状」と発表された。政治家、とりわけ首相や実力者が病に倒れた場合には政局変動の要因になるため、その病状がひた隠しされることが通例と言われる。池田の場合も池田派の側近議員らが癌であることをひた隠し通した上で、任期を残して退陣する演出を行った。[[1964年東京オリンピックの閉会式|東京オリンピック閉会式]]翌日の[[10月25日]]に退陣を表明、自民党内での後継総裁選びの調整を見守った上で[[11月9日]]の[[議員総会]]にて[[佐藤栄作]]を後継総裁として指名した([[池田裁定]])。後継総裁選びを、退陣予定の総裁の指名に委ねた戦前・戦後を通じて最初のケースであった。 |
その後療養に努めたが、1965年7月16日の検診で癌が広範囲に転移していることが判明、7月29日[[東京大学医学部附属病院|東大病院]]に入院。がんは食道、肺に転移している状態だった。8月4日手術をしたが手術後肺炎を起こし[[1965年]][[8月13日]]12時25分に死去した。享年65。なお、葬儀は自民党葬で執り行われた。墓所は[[青山霊園]]。
評価.
経済重視の姿勢.
池田以前の戦後の保守政党出身の歴代首相の関心はもっぱら独立と戦後処理の外交で、吉田内閣は[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|講和独立]]、鳩山内閣は[[日ソ国交回復]]、岸内閣は[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|安保改定]]と、歴代内閣はいずれもハイポリティックスのレベルで大きな課題を処理してきた。それが左派勢力から「[[逆コース]]」と批判を受け、1960年の安保闘争で頂点に達した。一方で、内政面での政策はほぼ[[日本の行政機関|各省]]の立案に頼っており、経済政策を全面に押し出す首相はいなかった。池田は、吉田内閣では大蔵大臣として外交に傾注する吉田に代わり経済政策を主導したが、岸内閣ではハイポリティックスの安保改定を特に強硬に主張していた。政権発足当初は池田内閣は"岸亜流内閣"というのが世間一般の見方で、政治・軍事を中心とする外交の課題を前面に押し出してくると考えられていた。
政権発足時に秘書の[[伊藤昌哉]]が「総理になったら何をなさいますか」と尋ねると、池田は「経済政策しかないじゃないか。所得倍増でいくんだ」と答えたが、伊藤は池田が本気で「所得倍増計画」に取り組むとは思っていなかった。側近の[[前尾繁三郎]]も大平も宮澤も反対した。財界も池田は切り札だから、安保のような状態で泥まみれにして殺してしまうのはまずいと考えていた。池田が額面通りに経済政策を推し進め、徹底した岸の裏返しに出てくるとは、誰も信じていなかったのである。しかし池田は「火中の栗を拾う。これで駄目でも結構だ」と腹をくくった。また「国民の人心を一新するためには経済政策しかない」との強い使命感を抱いていた。とかく「ゼニカネのこと」を軽視、蔑視しがちだった、それまでの政治指導者とは、ひと味違った政治目標を掲げたといえる。 |
しかし、当時国民を広く覆っていた経済観では、この難局を経済重視で乗り切れると想像することは難しかった。貿易自由化を進めて日本を重化学工業の国として高度成長させると提唱しても、当時は日本が欧米先進国に伍して、世界市場で競争しようとするなどということは無謀だと思われていた。貿易自由化などは日本市場をいたずらに欧米製品の餌食にするだけで、資本力の弱い日本の産業はすべて欧米の巨大資本に踏み潰され、下請けの部品メーカーになって生き延びられれば上出来などと論じられていた。精密な軽工業製品・酪農・観光で生きる"東洋のスイス"という、敗戦直後に社会党首班の[[片山内閣|片山哲内閣]]が描いたヴィジョンは、まだ根強く生き残っていた。伊藤はこの経済観の転換について、「池田という人は経済を中心に政権に近づいたのですが、政治家と財政家がひとつである、という珍しいケースです。普通この両方は兼備しないものです。ケンカは好きですね。うまいですよ。政治的判断は素晴らしいものがありました。一旦決めたら動かない。それまでは柔軟な姿勢ですがね。あの激動期に頼りになる、それが経済の面でも現れる、財界人でも政界人にもファンができるわけです。『所得倍増政策』を成功させたものは、下村の理論と勉強会と池田の鋭いカンです。政治の上に経済学的な科学性を導入した。それまでの政治はいわば腹芸だった。この科学的な政策によって、池田が革命期とも激動期ともいえる一時代を開き得た。あの頃"所得倍増"なんて誰も信じてませんでしたよ」、「いちばん重要なことはオリエンテイションです。こっちへ行けばいいんだと示した点で、池田は大変大きな仕事をしたと思います。そのことから外交問題を解決する経済力が出てくるわけです。池田は経済合理主義という形で政治というものを変えた。これはそれまでの政治には全然なかったと思います」などと述べている。[[萩原延壽]]は「池田内閣の経済優先主義は、統治技術という点からみても、極めて巧妙なものであった。政治の分野における低姿勢にもかかわらず、経済の分野においては、極めて強気な態度をとり続けた。池田は1964年(政権最終年)元日の日経新聞の年頭所感で『日本経済の西欧水準への到達は、かつては遠い将来の夢に過ぎなかったが、今日では"倍増計画"最終年次からほど遠くない時期の可能性の問題に変わりつつある。[[明治維新]]以来の日本経済百年の歩みの中で解決できなかったこと |
また、池田の経済政策全体につけられた[[命名|ネーミング]]「所得倍増計画」も、目標がそのまま名づけられた、史上最も明快な経済政策と映った。「所得倍増計画」は、戦後の首相が掲げた[[スローガン]]の中で、最も分かりやすく、かつ説得力もあった。この呼称について、「日本は自由主義経済の国。所得倍増計画の"計画"という言葉は不適当では。別の言い方に変えた方がいいと思います」と大平が進言すると池田は「何を言うか。"計画"と謳うから国民は付いてくるんだ。外すわけにはいかん」と一蹴した。[[武田晴人]]は「"所得倍増計画"という巧みな[[修辞学|レトリック]]によって、民間企業の投資行動の背中を押すとともに、経済諸政策の立案の焦点を明確化し、高成長の実現を目標として、これを前提として創造的な活動を次々生み出すこととなった」と評している。[[黒金泰美]]は「"所得倍増計画"というのは空前絶後の選挙用スローガンだった。あの言葉を聞いただけで、なんだかみんな金持ちになれるような気になってしまう。とにかく明るい感じにさせる力がありました」と述べている。[[橋本治]]は「"所得倍増計画"という、えげつない名前の政策は"新時代の始まり"だった。戦後という貧乏を克服し、その後に訪れる"新しい時代"の素晴らしさを語ろうとする時、"月給が倍になる"は、いたって分かりやすい表現だった。人は、その分かりやすさに魅せられたのだ」と述べている。池田はそれまでの内閣が必ずしも明示しなかった[[資本主義]]と[[社会主義]]の優劣を政治争点として改めて国民に突きつけ、その選択を迫ったのであるが、池田の「所得倍増計画」は肩肘張ったイデオロギー的な議論の対象としてではなく、さしたる抵抗もなく、あっさりと国民の間に浸透した。官僚をはじめ民間企業の経営者や労働者たちの気持ちが"成長マインド"に移行した。 |
池田は国民の政治観をも転換させた。池田はそれ以前の首相と異なり戦前に政治活動歴がなく、敗戦後に政界に入った政治家としては最初の首相であるが、池田は「所得倍増論」を提起することによって、経済成長中心の「戦後型政治」を国民に提示した。[[藤井信幸]]は「岸は新安保条約の強行採択で国家と国民の間に対立を生んだが、池田は所得倍増という民間に自由にやらせる開放的な経済政策を打ち出すことで国家と国民を結びつけることに成功しました。強兵なき富国を実現する最善のシステムは資本主義だという思いとともに、戦時を過ごしてきたことからくる『やり返すんだ』という[[ルサンチマン]]もあったと思います」と述べている。萩原延壽は「とりわけ対立するエネルギーが灼熱し、激突した安保闘争のあとであっただけに、言い換えれば、高度に政治的な季節のあとに訪れる"政治"についての倦怠感や疲労感を味わっていたときだけに、池田内閣が"国民所得倍増計画"において提供した"豊かな生活"というイメージは、いっそう新鮮なものとして国民の眼に映ったに違いない」などと述べている。池田は独自のブレーンによって政策を構想し、政権に就任するとそれを実行するスタイルを初めて明確にした。誰にでもわかる数字を駆使したことと、池田とそのブレーンたちの演出も効果的だった。[[高度経済成長]]は、[[1950年代]]後半から始まっていたが、ここに分かりやすい目標を得たことで一段と活気づいた。政府が強気な成長見通しを明確に示したことで、民間企業は投資を拡大し、現実の高度成長を呼んだのである。池田内閣は、「政治の季節」から「経済の季節」にギアを切り替えた、戦後史の重大な局面転換であった。「所得倍増政策」は、のちに宮澤が「結果として日本は非生産的な軍事支出を最小限にとどめて、ひたすら経済発展に励むことができた」と解説したように、[[日米安保条約]]に経済成長の手段という役割を与えることになった。いわゆる「安保効用論」は、安保条約体制も結局は豊かさの追求に従属するものだという安心感を誘い、安保に同意する人々の数を増やす効果を生んだ。[[御厨貴]]は「安保闘争の後、池田は『所得倍増』をスローガンに経済成長を唱え、それに続く佐藤の長期政権で"富国民"路線が定着した。吉田の弟子で後に首相となる池田勇人、佐藤栄作の二人によって再軍備の問題はほぼ棚上げになった。日米安保体制の下で、自由な市場経済を守り通して |
[[安保闘争#60年安保|60年安保]]で高揚した「反体制」「反政府」のエネルギーは、池田内閣のさまざまな施策の前に、なし崩し的に拡散した。「反体制」の闘争が最も激しかった6月から、まだ半年ほどしか経っていない1960年12月、反対運動の理論的支柱の一人と目されていた[[法政大学]][[准教授|助教授]]・[[松下圭一]]は『[[朝日ジャーナル]]』に「安保直後の政治状況」という論文を書き「池田内閣は"安保から経済成長へと完全に政治気流のチェンジオブペースをやってのけたかのごとき観"がある」と、ある種の無念さを込めて記した。日本中が[[左翼]]のようになり、インテリは早く[[共産主義革命]]が起きて欲しいと考えていたような時代に、池田が混乱した社会を安定化させようと「所得倍増計画」のような、資本主義のままで年収を二倍にするという政策を打ち出して、本当にそれが実現してしまったので、革命前夜みたいな状況がリアルな革命運動に向かっていかなかったとも論じられる。[[池上彰]]は1960年の安保闘争最中でさえ、[[第29回衆議院議員総選挙]]で池田率いる自民党が圧勝したことからマスコミと当時珍しかった大学生、一部のインテリ・学生以外は、今のように左派の主張に賛同していたわけではなかったと当時の多数派と左派との認識の乖離の存在を述べている。[[高畠通敏]]は「池田内閣が安保の教訓を踏まえながら[[保守政党|保守党]]の新しい路線として、戦前への[[逆コース]]の夢を捨てる。[[憲法改正論議|憲法改正]]をあきらめ、戦後の新しい現実に即して[[マイホーム主義|マイホーム]]という形での私生活解放を認め、その上に立つ繁栄と成長としての自民党という路線を打ち出す。私はそのとき、国内における戦後は、基本的に終わったと思います。そこから戦後のあとの時代が始まった。また60年安保を支えた戦後革新勢力の分解も始まった。池田路線は戦前的な体質を持った佐藤内閣でも実質的には継承された。つまり60年代を通じて持続されたわけですが、その中で国民の私生活の解放、欲望の肯定を経済大国の形成へ編成しなおしていった。戦後民主主義は圧力民主主義に、平和主義はマイホームの平和へと風化し、労働運動は[[春闘]]の儀式として収斂する。60年代の運動を支えてきた民衆はその中に巻き込まれて分解していった。池田内閣の路線転換に沿って60年代に発展した知識人の特徴的な政
また、社会福祉の増進や農業政策にかなりの予算を振り向けた。それらは個々には批判の余地のあるものであったとしても、やはり強烈な政府指導がそこにあったといえる。[[内田健三]]は「池田政権こそは、古典的な保守政治支配の方式に、はじめて"[[管理]]"の[[概念]]を導入した政権だった」と論じている。
外交面での評価.
[[ファイル:JFKWHP-KN-C18092.jpg|thumb|212px|left|池田・[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]会談([[1961年]][[6月20日]])]]
池田は外交面においても、その後の日本を形作った。また、[[ドッジ・ライン]]、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]・[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|日米安保]]の下交渉を経て、[[池田・ロバートソン会談]]、池田・ケネディ会談まで、池田は今日の日米体制を作った最大の[[キーパーソン]]でもある。 |
フランスの[[シャルル・ド・ゴール|ド・ゴール]][[共和国大統領 (フランス)|大統領]]から「トランジスタのセールスマン」と揶揄されたとする逸話が有名であるが、これは池田が[[ソニー]]の最新の[[トランジスタラジオ]]を首脳会談で売り込んだことで、ド・ゴールが側近にそう漏らしたと反ド・ゴール派の『[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]』が記事にしたものが日本の新聞に紹介され有名になったもので、池田の帰国後、日本で大騒ぎになり、多くの日本人は嫌な思いをした。しかし池田は「会談の内容を知りもしないで、何を言うか」と一蹴しており、また『フィガロ』は[[ジョン・F・ケネディ]]を「鶏肉のセールスマン」と評したこともあり、日本や池田のみが槍玉に上げられたわけではない。[[八幡和郎]]は「当時は首脳が経済について語ることが珍しかったためにド・ゴールも意外に思ったもので、その後同じフランスの[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン|ジスカール・デスタン]]大統領は、経済を主題にした[[主要国首脳会議|サミット]](先進国首脳会議)を始めて日本をメンバーにしてくれたし、[[フランソワ・ミッテラン|ミッテラン]]や[[ジャック・シラク|シラク]]は"[[エアバス]]のセールスマン"として何機売ったかを海外訪問の成果として誇った。経済外交重視は世界的にみてもその後の大きな流れになったことから、池田は世界の外交史の中で先駆者であり、世界史的偉人である」と評価している。池田の経済優先の発想は今日まで続いており、日本が経済大国を実現できたのも「[[吉田ドクトリン]]」というよりも「池田ドクトリン」の所産ともいわれる。1965年、愛弟子・池田の逝去の報を受け、吉田茂は「今日の繁栄は池田君に負うことが多かった」と呟いたといわれる。[[下村治]]は、池田死去翌日の[[日本経済新聞|日経新聞]]に追悼文を寄せ「池田勇人が果した歴史的な役割は、日本人が内に秘めていた創造力、建設力を『成長政策』という手段によって引き出し、開花させたことである」と記した。
戦後日本体制の確立. |
池田は[[ドッジ・ライン]]以来の念願の国内経済産業体制の再編と自由化を、まさに"一内閣一仕事"でやり遂げた。池田内閣以後の自民党政権による政治・外交運営は、池田が築いた国内安定と国際的地位を基盤として展開された。憲法改正を事実上棚上げにし、経済成長と豊かさの追求を最優先したからこそ、池田以降の自民党政権は、それなりに戦後的価値観を共有し、長期政権を維持できたのである。池田は戦後日本の原型を、国内経済政策面でも経済外交面でも創り上げたといえる。高度経済成長は、池田の経済政策を踏襲した佐藤内閣の時期に最盛期を迎えるが、佐藤政権も池田政権という大きな括弧の中に入るともいわれる。その佐藤も池田同様引退後まもなく死去する。両者は[[1970年代]]の田中角栄や福田赳夫が[[1980年代]]にも穏然たる影響力を持ったのとは対照的である。高度経済成長とともに敗戦と占領の残滓を最終的に清算したのが池田と佐藤といえる。池田と佐藤の時代に自民党政権は安定の中で成熟を遂げた。東京オリンピックと[[日本万国博覧会|大阪万博]]による[[都市圏|大都市圏]]の開発、[[公共事業]]を通じた国土・列島の整備によって自民党は[[包括政党]]の道を進めていく。「[[55年体制]]」は成立こそ1955年であったものの、その確立は1960年代前半の池田内閣にあった。日本の国内政治の基本的な枠組みを作り上げたのが池田であった。この戦略は、田中角栄、大平正芳、[[鈴木善幸]]、[[中曽根康弘]]ら、その後の内閣にも担われることになる。「池田時代に、経済発展を国家目標の中心に置いた政治が始まった。田中角栄はその子である」、「田中の『[[日本列島改造論]]』は池田の『所得倍増計画』の延長線上にある」、「『日本列島改造論』は『所得倍増計画』の地方版」、「『日本列島改造論』や[[小泉純一郎]]の『[[骨太の方針]]』も、いわば池田の政治手法にあやかったもの、池田の後に登場した政権の大半は[[イデオロギー]]なしの、無定見な高度成長を追い求めていた」などと評される。経済成長による社会の多様化は、自民党内に於いては党内派閥の分散化にとどまり、野党の方が多党化していくことで、自民党支配を維持させていくことになった。[[田中浩 (政治学者)|田中浩]]は「池田内閣登場以後、日本政治は、ほとんど"事なかれ主義"を旨とする安全運転、無風状態が続き、[[保守]]の安定化(
新たな政治スタイルの創出. |
自民党がこのように全く違った個性を持つ「総理・総裁」を起用して、国民の批判をかわす「振り子」の手法は、金権批判の[[田中角栄]]からクリーンイメージの[[三木武夫]]へバトンタッチした時にも使われ、自民党が長期政権を維持したカギの一つといえる。池田は発言でも舌禍事件を何度も引き起こすなど、歴代首相の話題性ナンバーワンだった。官僚臭を感じさせない、[[庶民]]的でガラガラ声の[[キャラクター]]も、安保改定で騒然となった世情を一変させることに役立った。池田は[[テレビ]]を利用して政策をアピールした最初の首相でもあった。国民の関心がもっぱら生活水準の向上に移っていた頃合いを見逃さなかったともいえる。池田は政治を生活の延長にある[[祭|祝祭空間]]と見て、その[[演出]]を試みる[[演出家]]だったとも評される。池田は首相就任後の[[予算委員会#委員|参議院予算委員会]]において、所得を2倍にするのではなく、2倍になるような環境を作るのだと答弁した。すなわち経済の成長は国民自身の努力によって実現するものであり、政府の任務は、かかる成長実現への努力を円滑に働かすことのできる環境と条件を整備することにあると明言した。池田の最大の功績は、日本の国民に自信を与え、すすむべき方向を示したこととも評される。「敗戦国」から高度成長を進め「経済大国」「先進国」に変貌していった日本に、そして日本国民の[[ナショナリズム]]に居場所を与えた。[[森田実]]は「ケネディが日本に対しても干渉する考え方を取らなかったため、高度経済成長路線を打ち出した池田内閣の時期が(アメリカの支配を受けない)戦後日本で一番自立していた時期だった」と述べている。
発言と報道.
池田勇人の語録には、本人の発言とは異なる見出しで発言を歪曲されて報道されたことで後世に歴史的失言として記憶されているものや、当時の[[流行語]]にまでなった有名な発言などが多い。
堺屋は「池田はマスコミが面白おかしく発言を歪曲しても怒らなかった」として、これがマスコミにも人気を得た理由としている。[[池上彰]]は池田がマスコミに発言を歪曲されて、それを野党に利用されていたことに同情を示しながら、「わかりやすい言葉で聴衆の心をとらえる抜群の発信力が、池田の魅力のひとつだった」「高度経済成長期の立役者」と絶賛している。
エピソード.
[[ファイル:Cenotaph for tax collector who was killed in the line of duty.JPG|thumb|200px|池田の筆による[[神奈川税務署員殉職事件]]の殉職税務官顕彰碑の碑文]]
[[ファイル:Hayato and Mitsue Ikeda.jpg|サムネイル|1961年6月の訪米時に妻・満枝と]]
関連項目.
本文中・表中にリンクのあるものを除く
外部リンク.
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ポリウレタン()とはウレタン結合を有する重合体の総称で、通常イソシアネート基と水酸基を有する化合物の重付加により生成される。ウレタン(-NH・CO・O-)が介する結合をウレタン結合と言う(右図参照)。ウレタン樹脂(ウレタンじゅし)、ウレタンゴムともいう。プラスチックの分類を表す略号はPU、ゴムの分類を表す略号はUである。
1937年にドイツのIGファルベン社で最初に実用化されたが、工業用に広く用いられるようになったのは1950年代以降である。
化学的性質.
抗張力や耐摩耗性、耐油性に優れるが、耐熱性や耐水性は他の合成ゴムに比べ低い。水分による加水分解や空気中の窒素酸化物(NOx)、塩分、紫外線、熱、微生物などの影響で、徐々に分解される。分解はその素材が合成された時から始まる。
劣化.
素材が合成された時点から加水分解などによる劣化が始まり、高湿度下では、劣化が促進される。
日用品で経時劣化に伴うトラブルも多い。靴底に使用されているウレタンの劣化破損では、捻挫などの怪我を負う例が報告されている。登山中であれば遭難など深刻な状況に発展する可能性もある。この劣化は、使用回数などとは無関係で進む。
但し、上記はエステル結合を持つエステル系ポリウレタンの話である。エーテル系ポリウレタンはエステル結合を持たないため、加水分解には極めて強い。
合成法.
通常、グリコールを主とするポリオールと、主として2官能のイソシアネートである、ジイソシアネートを反応させて合成する。カルボキシ基、アミノ基などの官能基も併用することができ、非常に多様な性質の製品を作ることができる。ウレタンフォーム(発泡ポリウレタン)を製造するためには、発泡剤を加えて重合させる。
用途.
ポリウレタンの主な用途は次のとおりである。 |
グアラニー語(グアラニーご)またはグアラニ語(グアラニご)、ワラニー語(ワラニーご)、ガラニ語(ガラニご)、Guaraní、原語名: アバァニェエン ("Avañe'ẽ")は、トゥピ語族に属する南アメリカ先住民の言語である。パラグアイではスペイン語と共に公用語として用いられるほか、同国人口の88%がこれを解し、地方部では住民の半数がグアラニー語のみを母語としている。またパラグアイに限らず、アルゼンチンのメソポタミア地方やブラジル南西部など近隣諸国の住民の間でも用いられており、ボリビアでは他の先住民言語とともに公用語のひとつとして、アルゼンチンのコリエンテス州ではスペイン語に次ぐ第二公用語に指定されている。
グアラニー語はアメリカ先住民諸語としては最も話者が多い言語の一つであり、中でも唯一大きな比率で非先住民の話者を擁する。これは南北アメリカ大陸では興味深い例外である。というのは、グアラニー語を除くと、スペイン人とアメリカ先住民の混血であるメスティーソや、文化的同化の進んだ上昇指向の強いアメリカ先住民の中では、植民地言語(この場合、他の公用語であるスペイン語)への移行がほとんど全体に共通した文化およびアイデンティティの標識となっているからである。
イエズス会の宣教師で "" (グアラニー語の宝)を著したは、グアラニー語について「豊かで格調高く、最高の名声を受けるに匹敵すべき」言語であると述べている。
なお一般にグアラニー語といえばパラグアイの公用語を指すが、この言語はグアラニー諸語、もしくは方言連続体の一部であって、これらの言語群に属する姉妹語の過半も同じくグアラニー語と呼ばれていることに留意されたい。
歴史.
イエズス会はインディヘナに対するローマ・カトリックの布教をグアラニー語で行い、イエズス会伝道所のような自治共同体でもグアラニー語が用いられた。また往時のパラグアイを支配していた諸々の独裁者が国境を閉ざしてしまったために、国内の文化や言語は守られる結果となった。こうしてグアラニー語は活力を保って生き延び、公用語の地位を得たのであった。
分類.
一口にグアラニー語と言っても研究者は様々な方言に分かれるとしている。たとえば、まず Rodrigues (1984/85) により形態論的・音韻論的な根拠からトゥピ・グアラニー語族下の7組の言語群のうちの最初の組を以下のように分類した。
また Kaufman (1994) は以下のような分類を唱えた。
I. トゥピ・グアラニ語族(Tupí-Guaraní family)
Lewis "et al." (2015a, b, c, d, e, f) はグアラニー語と名のつく言語を以下の5種類に細分化している。
なお、ここまでで度々パラグアイグアラニー語の下位分類として見られるジョパラ(方言)とはスペイン語の要素が入り混じった、都市部で用いられる口語のグアラニー語である。
綴字法.
グアラニー語が書き言葉として使われるようになったのは、比較的最近になってからのことである。今使われているグアラニー語アルファベットは、基本的にラテン文字に準拠しつつ、2つのダイアクリティカルマークと6つの二重字を付け加えた文字体系となっている。正書法は非常に音素論的であって、個々の文字はスペイン語と似たような音価をもつ。 |
母音字はYを含め6字で、それぞれが鋭アクセント符号を伴って強勢を示す()が、これら強勢のある文字素は無強勢のものと同じ文字として扱われる。また、チルダも多くの文字と併せて用いられている。例えば、N/nにチルダを付してÑ/ñとすると、スペイン語と同様に歯茎鼻音でなく硬口蓋鼻音を表すものとして扱われ、またチルダ付きの母音字は、ポルトガル語のように鼻母音であることを示すことができる()。
グアラニー語アルファベットに特有の表記として、チルダにより鼻音化された軟口蓋子音G/g、すなわち軟口蓋鼻音であるところのがある。これがグアラニー語に導入されたのは20世紀半ばと比較的新しく、その使用を巡っては異論もある。またこの文字はユニコードでも正規合成済みとして扱われておらず、ダイアクリティカルマーク付き文字が充分にサポートされていないコンピュータやフォントを使用する際には、写植に手間がかかったりコンピュータ上の表示が完全になされないおそれがある。 では言及されていない。同書の同ページにおける音素と綴り字の対応関係は#母音、#子音を参照されたい。
音韻論.
分節音素.
母音.
a、e、i、o、uはスペイン語やIPAで用いられているものと概ね同じであるが、やといった異音がわりあい頻繁に用いられる。y(または î、ï、ĭ)の音価は非円唇中舌狭母音である。ここまでの 6母音は口母音()とも呼ばれ、各口母音はそれぞれ対応する鼻母音をもつ。口母音と鼻母音の区別は、後述する鼻音調和に関わってくる。
子音.
子音は以下の通りである。括弧内の表記は、基本的には において示されている、用いられる可能性のある全ての綴り方である。指定が複雑なものである場合には注釈を付した。
と、と、とはそれぞれ相補分布を示す。または方言によりと発音されることもあり、声門閉鎖音 は母音間にのみ認められる。なお、 では上表の他に /č/(綴りはch)、(綴りは f)、/δ/(綴りは d)、(綴りは l)、(綴りはr)、(綴りは rr)、(綴りは ll)が見られる。。
超分節音素.
強勢.
強勢については、鼻母音を含む語では鼻母音に置かれる。鼻母音がなければアクセントが付された音節に、それもなければ最後の音節に置かれる。
音節構造.
グアラニー語の音節は母音のみ、または子音+母音から成り立っており、閉音節や二重子音は存在しない。すなわち "(C)V(V)" として表される。
鼻音調和.
グアラニー語は世界でも数少ない、鼻音調和()を持つ言語である。すべての単語は語幹に下記の異音を一つでも含むか否かにより、鼻音と口音に分類される。そして特定の音素が「鼻音」である単語に現れる際には必ず鼻音化した異音が出現し、「口音」である単語に鼻音化した異音は現れず、鼻音と非鼻音である異音が共に現れる単語は存在しない。
また鼻音調和は、接頭辞や一定の前接辞を選ぶ際にも影響を及ぼしている。例えば後置詞である "pe" や "ta" は、それぞれ鼻音である単語の後では "me"、"nda" に変化する。
文法.
グアラニー語はきわめて膠着的な言語であって、複統合語に分類されることもある。また流動-Sの活格言語であり、ミレフスキの類型論にしたがえば、第六種に分類される。 |
グアラニー語には文法性と定不定を示す接小辞が存在しないが、単数を照応する定冠詞としての "la"、複数についての "lo" が、スペイン語の影響により使われるようになった。ただしこれらの語は口語グアラニー語では見られるものの、。
形態論.
Dryer (2013a) は から、屈折変化に接頭辞が関わる傾向と接尾辞が関わる傾向とでは、前者の方が圧倒的に強いと判断している。
人称標識.
グアラニー語では他動詞や動きの見られる( あるいは )自動詞の主語を共通の人称標識で表す一方、状態的な( あるいは )自動詞の主語と所有者はまた異なる共通の人称標識体系で表す。 は前者を「ジェンセンの Set 1」、後者を「ジェンセンの Set 2」と呼んでいる。いずれの体系にも、一人称複数について聞き手を含める包含形()と聞き手を含めない除外形()との違いが見られる。この区別は代名詞とも共通するものである。
また、 は「目的語」と称して以下のような接辞も紹介している。このうち "ro-" と "po-" 以外は「主語」として示された接辞にも同形のものが見られるが、Gregores & Suárez はあくまでも異なる体系として扱っている。一方、"ro-" と "po-" はいずれも動作の受け手が二人称で動作主は一人称であるが、Jensen (1998:498) はこうした特徴を持つ再建中の()の2種類の人称標識 "*oro-"、"*opo-" を "Set 4" に分類している。
ここまで挙げた人称標識の具体的な使用例については#動詞などを参照されたい。
代名詞.
一人称複数には包含形と除外形とがあり、この区別は先述の人称標識とも共通するものである。三人称複数の "hikuái" は動詞の後にのみ現れる。また再帰代名詞 "je" が用いられる。
文例:
動詞.
通常の活用.
グアラニー語の動詞語幹は活用の仕方に応じて3種類に分類され、それぞれ動詞を活用した際の一人称単数・二人称単数の接頭辞から名前を採って、順に "areal"、"aireal"、"chendal" と呼ばれている。なおaireal活用は、areal活用の一種として扱われる。
areal活用は参与者()が行為者にあたることを、chendal活用は非行為者にあたることを示すため、それぞれ用いられる。なお他動詞はいずれの活用も行いうるが、自動詞は通常areal活用しか行わず、chendal活用を行う際には習慣性が含意される。名詞もまた活用を行うが、叙述所有を表す際にはchendal活用も行う。
なお動詞についても、語幹が鼻音か口音かによって僅かながら異なった活用を行う。
否定.
グアラニー語で否定を表す際には、接周辞 "n(d)(V)-...-(r)i" が用いられる。動詞の前に現れる "n(d)-" は、語幹が口音に分類される場合は "nd-" 、鼻音に分類される場合は "n-" としたうえで、さらに主語が二人称単数である場合には "-e-" を、また一人称複数包含形である場合には "-a-" を、"n(d)-" と動詞の間に挿入することによって作られる。また、動詞の後に現れる "-(r)i" については、動詞の語幹が "-i" で終わる場合に "-r-" が挿入されることを示す。 |
否定表現は全時制で使うことができるが、未来または非現実について述べる場合には、通常の時制マーカーが "mo'ã" に置き換わり、"Ndajapomo'ãi" (私はするつもりがない)のような "n(d)(V)-"(語幹)"-mo'ã-i" という表現になる。またこの他にも、"ani"、"ỹhỹ"、"nahàniri"、"naumbre"、"na'anga" といった否定辞による否定表現も存在する。
統語論.
句.
名詞句.
後置詞.
グアラニー語は名詞(句)の後ろに後置詞をとる。 にある後置詞の一覧を以下に示す。この中では "pe" の使用域が非常に広いとされている。
通常、1音節のみの後置詞は直前の名詞(句)に複合され、2音節以上であれば分かち書きされる。
名詞句の語順.
パラグアイグアラニー語の口語について扱う によると、名詞句は「指示詞-(数詞)-冠詞-名詞-"名詞"-限定的 quality 動詞-唯一性を表す語("nte" など)-後置詞句-複数を表す語("kuéra" または "hikuãi")」という順番となるが、1つの名詞句に現れる限定語()の数は最大でも5までしか確認されていない旨が述べられている。また、左記のうち数詞と "kuéra/hikuãi" はいずれか一方のみが現れるともされている。
節.
語順.
Lewis et al. (2015e) はパラグアイグアラニー語について類型の欄に SVO と記している。パラグアイグアラニー語の口語について扱う によると、語順は基本的には自由であるが、「以下に述べることは印象主義者的な評価に基づく概算に過ぎないことと理解されるべきである」という断りを添えつつ、「主語-動詞-間接目的語-目的語-副詞的限定詞」の順が最も頻度が高いとしている。Dryer (2013b) は同ページの記述から、グアラニー語において優勢な語順は SVO であるとする判断を下している。
語彙論.
グアラニー語由来の英語.
グアラニー語からは動物の名称を中心に、若干の単語がポルトガル語を経由して英語へと取り込まれた。例えばジャガーは "jaguarete" に、ピラニアは "pira aña" にそれぞれ由来している。またアグーチは "akuti" を、バクの英名 "Tapir" は "tapira" を、アサイーは "ĩwasa'i"を語源としており、パラグアイやウルグアイは国名そのものがグアラニー語である。ただし、これらは姉妹語のトゥピ語に由来する可能性もある。
参考文献.
※以下は英語版記事(2010年9月10日 20:51 (UTC) 版)からの翻訳に伴って日本語版記事に移入された典拠であり、日本語版編集者が直接参考としたか否かの保証は存在しないという点に留意されたい。 |
ウレタン (urethane) とは、カルボニル基を介してアミノ基とアルコール基が反応し、アミンの窒素とカルボニル基の炭素の間で新たな共有結合を形成した化合物である。
カルバミン酸のエステルに相当し、カルバメートもしくはカルバマート (carbamate) とも呼ばれる。2つの部分がウレタン構造を介して連結している場合、その部分をウレタン結合と呼ぶ。
動物用麻酔薬として用いられるカルバミン酸エチル (ethyl carbamate) やポリウレタン(ウレタン樹脂)も、慣用的にウレタンと呼ばれる。
生化学におけるウレタン.
生化学において、ペプチド鎖のN末端またはアミノ酸のアミノ基と二酸化炭素が反応することでウレタン結合が形成し、付加したCOOH基(カルボキシ基)からプロトン (H+) を脱離してカルバミン酸イオンとなる。
この反応は可逆的(平衡定数 "K" « 1)であり、逆反応である脱炭酸は容易に起こる。
合成、反応.
ウレタン結合を含む物質は、通常は相当するイソシアネートとアルコールを反応させて合成する(この場合、耐水性はあるが強度が劣るポリエーテルタイプのウレタンが生成される)。
アミンに二炭酸エステルもしくはクロロギ酸エステルを作用させるとウレタンに変わる。そのウレタンは酸などで容易に分解させて元のアミンに戻せるため、この反応はアミノ基の保護のために利用される。
R' が "tert"-ブチル基の場合、-C(=O)OR' の部分は Boc と略される。この保護は酸で分解される(Tert-ブトキシカルボニル基を参照)。また、R' がベンジル基の場合は Z、または Cbz と略され、加水素分解や酸で脱保護される(ベンジルオキシカルボニル基を参照)。 |
ホセ・デ・リベーラ(José de Ribera, 1591年1月12日 - 1652年9月2日)は、バロック期のスペイン黄金時代美術を代表する画家。「フセペ・デ・リベーラ」(Jusepe de Ribera)とも称する。
スペイン出身だが、主にナポリで活動した。イタリアでの名はジュゼッペ・リベーラ(Giuseppe Ribera)。リベーラはスペインの画家ではあるが、若くしてイタリアに渡り、生涯の大半をナポリで過ごし、終生母国には帰ることはなかった。南部イタリア中心の都市ナポリは当時スペイン副王の支配下で、いわばスペインの飛地領土であった。リベーラはナポリで代々の副王の庇護を受けつつ、聖人、殉教者などをカラヴァッジョ風の劇的な表現で描いた。イタリア人たちからは「ロ・スパニョレット」(小さなスペイン人)のあだ名で呼ばれた。
経歴.
1591年、靴職人の息子としてバレンシア近郊のハティバに生まれた。後にイタリアに移住したものの、修業時代については不明な点が多い。画家で伝記作家であるアントニオ・パロミーノ・デ・カストロ・イ・ベラスコによると、リベーラはバレンシアにて、バレンシア派を創設したフランシスコ・リバルタに師事したとされる。ロンバルディアを遍歴し、その後1610年初頭にパルマに到着した。同時期にはの画家として一定の評価を得ていたとされる。初期のリベーラの画風は北イタリアの自然主義と、カラヴァッジョからの影響が強かった。1613年からローマにて、サン・ルカ美術アカデミーの会員として画業に取り組む。1616年には当時スペイン領であったナポリに移住する。この頃からリベーラの画風はカラヴァッジョの直接的な影響がより強くなった。その後死ぬまでナポリで活動を続けたリベーラはの中心的な画家として、歴代のスペイン人副王による庇護を受け、彼らからスペイン王室などの重要な顧客を得た。その中には16世紀末から17世紀初頭にかけて行われた、の拡張及び改築など、現地の重要な注文も含まれた。
一方で17世紀初頭以降、テネブリスモの画家たちによる表現はバルトロメ・エステバン・ムリーリョなどにみられる恍惚とした日常感のある親密さに人気を取られることとなった。その影響か1630年以降は主題のレパートリーの拡張やボローニャ派にみられる古典主義の吸収が見られ、安定した構図、明快な色彩、静謐な抒情性や高貴さからくる画風を作り上げた。
画風.
作品の大部分は宗教画で、聖人、殉教者像を得意としている。明暗の対比を強調した画面構成(テネブリスモ)、老いた聖人の衰えた肉体やたるんだ皮膚をも美化せずに容赦なく描写する写実表現にはカラヴァッジョの影響がうかがえる。『聖バルトロマイの殉教』(題名は『聖フィリポの殉教』とする資料もあり)はこうした画風の代表作である。また、庶民をモデルにした写実主義的な画風を確立した。
代表作『えび足の少年』.
この作品はルーヴル美術館所蔵で、1642年に描かれた。 |
わたらせ渓谷線(わたらせけいこくせん)は、群馬県桐生市の桐生駅から栃木県日光市の間藤駅に至るわたらせ渓谷鐵道が運営する鉄道路線。旧国鉄特定地方交通線の東日本旅客鉄道(JR東日本)足尾線を引き継いだ路線である。通称は「わた渓(わたけい)」、「わてつ」(呼称も参照)。
概要.
わたらせ渓谷線は、足尾銅山から産出される鉱石輸送のために私鉄の足尾鉄道が敷設し、のちに国有化された足尾線が由来である。桐生駅から大間々駅までは市街地を走り、大間々駅から北の区間では、路線名の通り渡良瀬川上流の渓谷に沿って沢や支川を渡りながら谷筋を遡る。特に初夏の新緑と秋の紅葉の風景が美しく、臨時運行されるトロッコ列車では、風に当たりながら渓谷美を堪能できる。足尾地区では、本路線の建設目的であった足尾銅山の跡地や関連施設が沿線に残っており、一部が観光・見学施設として開放されている一方、廃止された旧足尾本山駅付近では、過去の歴史的な公害である足尾鉱毒事件の影響によりいまだにはげ山が連なり、異観を呈している。
2008年7月23日に上神梅駅本屋などが、2009年11月19日には神戸駅本屋や城下トンネルなど37件が国の登録有形文化財に登録された。
沿線風景.
始発駅の桐生駅は、JR両毛線と共用し、駅の業務はJR東日本に委託している。桐生駅を出てからは両毛線と線路を共用(重複区間)し、1.9 km先の下新田信号場で両毛線から分岐し、足尾方面に向かう。分岐して最初の駅、下新田駅は同鉄道の中では一番新しい駅であり、JR高崎支社の職員訓練施設や引き込み線などがある。駅を発車し両毛線から離れると、左側から東武鉄道桐生線と合流し、相老駅に到着する。東京の浅草駅から直通する特急「りょうもう」「リバティりょうもう」の停車駅であり、乗り換え客も多い。また、LIXILや小倉クラッチなどの工業企業もあり、通勤で利用する人もいる。相老駅を出ると桐生線は左へ別れ、上毛電気鉄道上毛線のガード下を潜るとまもなく運動公園駅に至る。同駅は上毛線桐生球場前駅に近く、乗換駅となっている。この先は国道122号線にほぼ沿う形で桐生市相生町の住宅地を通り、北に向きを変えるとわたらせ渓谷鐵道の中心駅である大間々駅に到着する。大間々駅の近くには高津戸峡と呼ばれる渓谷や、歌舞伎舞台のある「ながめ余興場」があり、過去に歌舞伎が行われた時、大勢の見物客が大間々駅を利用した。 |
大間々駅からは渡良瀬川や国道122号線と並行して北上する。国道122号線は「銅街道」とも呼ばれ、かつての足尾線同様、銅の輸送路であったことが偲ばれる。大間々駅を出発して、「七曲の渓」と呼ばれる渓谷から、わたらせ渓谷線の見どころの沿線風景となる。この渓谷は、国道122号の地点からいえば桐生警察署大間々庁舎(旧大間々警察署)あたりで、福岡大橋の場所から、「対向車注意」など運転者に注意を促す電光掲示板がある辺りまでである。この間に3つトンネルがある(国道にはない)。次の上神梅駅は、国の登録有形文化財に登録された木造駅舎で、旧事務所にカラオケ教室がある。川の対岸の断崖のところに、京都貴船に本社のある貴船神社がある。
上神梅駅を発車して次の本宿駅を過ぎると、紅葉ポイントの一つである古路瀬渓谷と呼ばれる渓谷沿いを通る。国道122号線では城下トンネルあたりで、わたらせ渓谷線にも同名のトンネルがある。
中間の水沼駅には温泉センターが併設されている。畳敷きの広い休憩所があり、近所の人やハイカーがくつろいでいるほか、観光客が訪れることもある。
みどり市東町の最初の駅、花輪駅には、童謡の父「石原和三郎」の出生の地であることから、彼が作詞した童謡「うさぎと亀」の歌に登場するうさぎと亀の石像があり、列車が接近する時には同駅のスピーカーから「うさぎと亀」の曲が流される。列車は渓谷に沿いながら、中野駅・小中駅の両駅に停車し、次の神戸駅に到着する。
神戸駅構内には、廃車となった東武鉄道の特急車デラックスロマンスカー1720系2両を利用した列車のレストラン「清流」がある。また、列車利用促進を目的に花桃が植樹されており、春には、わ鐵主催の花桃まつりが開催されている。みどり市営バスが乗り入れており、鉄道利用で国民宿舎サンレイク草木や富弘美術館などへ行く場合の拠点駅ともなっている。
神戸駅を出ると列車は草木トンネルに入る。草木トンネルは草木ダム建設により水没した旧線からの付替のために建設され、わたらせ渓谷線で最も新しく長いトンネルである。付替後の旧線跡は神戸駅側の一部区間が遊歩道として利用されている。草木トンネルを通過した後すぐに草木湖を渡り、右岸から左岸に変わって沢入駅に到着する。沢入駅から原向駅間は、白御影石の天然岩などで景観が形作られる、沿線で最も車窓が美しい区間とされ、トロッコ列車は観賞のため減速・一時停車を行う。坂東カーブをはじめとする急カーブや、急勾配が連続する区間でもあり、普通列車もゆっくりと走る。また、ごく稀に、野生動物が線路の中にいることがあり、緊急停止することもある。沢入駅より3つ目の笠松トンネルで、群馬県から栃木県に入る。 |
原向駅を過ぎて足尾市街に入ると、足尾銅山の施設跡をたどりながら通洞駅・足尾駅を経て終着駅の間藤駅に到着する。通洞駅は、足尾市街地の中心地であり、鉱山の採掘跡の一部を観光施設として開放した足尾銅山観光の最寄駅ともなっている。間藤駅までは、桐生駅から出発して約1時間30分の所要時間となる。通洞駅・足尾駅・間藤駅の各駅には日光市営バスが発着しており、国道122号線を介して日光市街へ向かうこともできる。足尾鉄道時代より国鉄末期の休止時までは、間藤駅から足尾本山駅まで貨物線が伸びていたが、わたらせ渓谷鐵道としては未成線のまま鉄道事業免許が失効し廃線となっている。橋梁、トンネル等の線路跡は一部を除いて残っており、その探訪を目的としたわ鐵主催の観光ツアーも開かれている。
運行形態.
桐生駅 - 間藤駅間の列車が概ね1 - 2時間に1本程度で1日11往復(下り最終のみ足尾駅止まり)、桐生駅 - 大間々駅間の区間列車が通学時間帯を中心に1日7往復それぞれ運行されている。このほか、足尾駅 - 間藤駅間の区間列車が足尾駅発朝5・6時台の下りと間藤駅発夜21時台の上りに運行されている。沿線で祭りが開催される日は、桐生駅 - 水沼駅間および桐生駅 - 神戸駅間に臨時列車が運行される。また、大晦日には初詣列車として、桐生駅 - 上神梅駅間に1往復運行される。
2006年3月17日までは、運行本数が多く、朝に神戸駅折り返しの列車があり、最終が21時台の終わりに設定されていた。また一部は3両編成でも運行されていた。
ワンマン運転を実施しているが、平日朝の列車の桐生駅 - 大間々駅間、休日などの日中の列車などには多くの乗客に対応するため車掌が乗務する。平日の日中でもアテンダントが大間々駅 - 神戸駅間を中心に乗務することがある。ただし、車内補充券は朝の場合は取扱わず、日中の時間帯のみ取扱う。ワンマン運転時で2両編成の場合、大間々駅より先は2両目の乗降口は締切となり、1両目のみ乗降が可能となるが、車掌が乗務している列車で車掌が2両目にいる場合は、2両目も乗降が可能になる場合がある。
団体客貸切の場合や、大間々駅で切り離す場合、始発の桐生駅から1両を締め切りにする。団体で貸切列車を利用する場合、トロッコのダイヤで運行する場合を除き普通列車に連結されて各駅停車で運行される。先頭または最後尾車両のみ一般の乗客が乗車できる様にして、他の車両は専用列車として貸し切られる。
トイレのある車両での運行を基本としているが、1両編成のときはトイレのない車両で運行することもある。2両編成運行時には、1か所または2か所ある。トイレの場所は、一番前の右側のドアの横(間藤方運転席の近く)にある。水洗式。 |
営業時間内の大間々駅以外のすべての駅で運賃は車内精算となる。あらかじめ、運賃箱にある両替機にて両替をし列車遅延の原因にもなるため車内放送にて降車直前の両替はしないように注意が促される。両替ができるのは乗務員のいる運賃箱のため、進行方向の1両目の運賃箱のみ。わたらせ渓谷線の乗車券(切符)を持っている場合は、有人駅に限り開けてある最寄りのドアから降車できる。ただし桐生駅の場合は、JRが管理する駅であるため、運転士のいるドアから乗車券を見せて降り、窓口改札にて切符を渡す。
1998年10月10日から不定期であるがトロッコ列車「トロッコわたらせ渓谷号」が運転されている。2012年4月1日からは自走式のトロッコ気動車WKT-550形による「トロッコわっしー号」も運転されている。
国鉄時代は本数が少なく、最終列車も早かった。
観光列車.
座席定員制の観光列車として、1998年10月10日に運行開始した機関車牽引による「トロッコわたらせ渓谷号」と、2012年4月1日に運行開始した自走式気動車による「トロッコわっしー号」がある。わ鐵アテンダントによる車窓案内、渓谷の自然を満喫するための一部区間での減速運転や一時停車、草木トンネル通過時の車内イルミネーション点灯など、旅を楽しめるような工夫がされている。4月から11月までの土日祝日と観光適期の平日の一部にはトロッコわたらせ渓谷号1往復とトロッコわっしー号2往復の両方もしくはいずれかが運行され、冬季には日曜日と一部特定日にトロッコわっしー号1往復が運行されている。乗車には普通旅客乗車券もしくは一日フリーきっぷのほか、1回の乗車ごとにトロッコ整理券が必要である。下りのトロッコわたらせ3号を除き(後述)、全席自由席である。ガラス付き普通車両専用の整理券もあるが、その場合トロッコ車両には着席できない。整理券は大人片道520円、小児片道260円(2022年4月1日現在)で団体利用の場合割引がある。トロッコ整理券は大間々駅・相老駅・通洞駅のほか、桐生駅構内桐生市民活動推進センターゆい・ローソン、ミニストップチケット・旅行代理店等で1か月前から販売される。
トロッコわたらせ渓谷号.
4月から11月までの土日祝日と観光適期の平日の一部に、大間々駅 - 足尾駅間で1日1往復運行される座席定員制の観光列車である。冬季は運休となる。下りは3号、上りは4号となっている。3号では乗車当日9時より大間々駅にて先着順でトロッコ整理券所持者に対しトロッコ座席の指定を行い、途中駅からの乗車の場合には空席を指定席として案内される。4号及びガラス付き車両は全席自由席となっている。トロッコわたらせ渓谷号を往復で利用する場合、折り返しまでの時間に通洞駅を利用して足尾銅山観光の坑道見学もできる。また、3号の終点の足尾駅では同時刻発の桐生駅行き普通列車には乗り換えられない旨の案内がなされており、すぐに桐生方面へ折り返す場合には、通洞駅で折り返すように案内されている。 |
桐生駅では、わたらせ渓谷鐵道は通常時には1番線のみの使用であり(構造上は他の番線での着発も可能)、間藤駅では機関車の付け替え(機回し)ができないことから、付け替えができる大間々駅から足尾駅間での運転となっている(大間々駅では専用ホームの0番線発着)。なお、桐生駅 - 大間々駅間は普通列車が接続しているほか、3号に限り3号の整理券所持者のみが乗車可能な臨時列車(桐生・相老・大間々のみに停車)が運行される。
2008年9月の土曜日に限り、下り列車のみ相老発で運転された。これは、特急「りょうもう」を利用した乗客がトロッコ列車に乗り換えるためには、相老駅から大間々駅まで一度普通列車に乗り換えなければならないことから、相老駅で直接接続できるように変更したものであった。なお上り列車については従来通り大間々駅が終着駅であった。なお、桐生駅の時刻表には、大間々駅からのトロッコ列車乗り換えの案内はされていない。
また、当列車の車掌(アテンダント)をモチーフに、「足尾さきえ」というキャラクターが作られた。
トロッコわっしー号.
春や秋の紅葉シーズンにはトロッコ列車の整理券が完売することが多かったことから、2012年4月に新しく運行を開始したトロッコ列車である。自走式のWKT-550形気動車を使用し、機回しが不要となったことで桐生駅から間藤駅までの全区間通しでの運行が可能となっている。4月から11月までの土日祝日と観光適期の平日の一部には2往復(1号・2号・5号・6号)が運行される。冬季にはトロッコ車両に窓ガラスを取り付け、日曜日と特定日に1日1往復(3号・4号)運行される。号数の示す通り、冬季の1往復は夏季のトロッコわたらせ渓谷号の運行ダイヤに近い時刻で運行される。なお、列車名の「わっしー」は、わたらせ渓谷鐵道のキャラクターの名前である。
2014年5月22日にはお召し列車として運転され、当時の天皇・皇后が通洞駅から水沼駅まで乗車した。
歴史.
足尾銅山から産出される鉱石輸送のために足尾鉄道が敷設した路線である。足尾鉄道は資本金200万円、総株数4万株のうち20100株を古河虎之助が引受け社長は古河会社幹部の近藤陸三郎が就任した。開業にあたって汽車製造に注文していた蒸気機関車4両の完成が遅れたため急遽国鉄に払下げを願い出て機関車1両を確保し、客車は南海鉄道から電化により余剰となった木製2軸客車8両を譲受け貨車27両で開業に間に合わせた。鉱石輸送は国策上重要であったことから1913年には全線が国によって借上げられ、1918年には買収、国有化された。
最盛期には日本国内の銅産出量の4割を占めた足尾銅山だが、資源の枯渇により1973年に閉山され、その後も輸入鉱石の製錬が継続されたものの、1986年にはそれも縮小され、足尾線による鉱石、精錬用の硫酸の輸送も廃止された。 |
銅山の衰退と歩調を合わせるように、足尾線の輸送量も減少を続け、営業係数は677に達し、1980年の国鉄再建法施行により1984年に第2次特定地方交通線に指定。1987年の国鉄分割民営化によりJR東日本の路線となったのち、1989年にわたらせ渓谷鐵道に転換された。なお、貨物専用だった間藤 - 足尾本山間は転換時に廃線となり、わたらせ渓谷鐵道が同区間の鉄道事業免許を取得していたが、未開業のまま免許失効している。
駅一覧.
未成区間.
間藤駅 - 足尾本山駅
廃止区間.
神土駅(現・神戸駅) - 草木駅 - 沢入駅
文化財.
以下の施設が国の登録有形文化財に登録されている。
存廃問題.
わたらせ渓谷鐵道は開業以来赤字に悩まされ続けており、基金も2003年(平成15年)に尽きたことにより、近年はたびたび存廃問題が取りざたされている。ただし、2007年(平成19年)5月28日の「わたらせ渓谷鉄道再生協議会」の総会で、以前は「赤字補填のための税金は注入しない」という態度を貫いてきた群馬県が、省力化やサービス向上などのために「近代化設備費補助」として支援するとの考えを示した。
同鉄道は、幾つかの増収策を実行してきた。その大きなものとして2005年(平成17年)9月に発売された「わたらせ夢切符」が挙げられる。金額は1万円で、1年間全区間乗降自由で乗り放題というものであった。しかし、従来の通勤・通学用定期代よりもはるかに安価となることから、かえって減収を招き、2006年(平成18年)9月限りで発売中止となった。
2020年(令和2年)には新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行の影響で収入が大幅に減少したこともあり、2両で5,000万円となるトロッコわっしー号の検査費用の支援を目的としたクラウドファンディングの募集を行い、最終的に956万円の支援を受けた。
乗車券について.
普通乗車券は、片道乗車券は有効期間が当日限り、往復乗車券が購入日を含む2日間有効となる。また、事前に普通乗車券を購入している場合に限り、水沼駅・神戸駅で途中下車することができる。相老・大間々・通洞・足尾の各駅で、片道・往復ともにすべての区間の普通乗車券を販売しており、桐生駅では桐生発の片道乗車券のみ販売している。また、普通乗車券のほか、定期乗車券(通勤・通学)、回数券、団体乗車券、障害者割引(精神も含む)、運転免許証自主返納者割引の取り扱いがある。
販売される乗車券(後述の「一日フリーきっぷ」を含む)は、桐生駅発行分を除き裏の白い非磁気券であるため自動改札機を通過できない。桐生駅下車時、もしくはJR線・東武鉄道への連絡乗車券利用時には、下車駅に自動改札機が設置されていても有人改札からの出場となる。桐生駅から磁気券の乗車券を用いて入場・乗車する場合については例外として自動改札機を通過できる。なお、自動券売機設置駅である桐生・相老・大間々・神戸には注意書きが記されている。 |
わたらせ渓谷線ではSuica・PASMOなどのICカード乗車券は利用できない。桐生駅でJR線から乗り継ぐ際は、一度改札を出て乗車券を購入するか(券売機でICカード残額を用いての乗車券購入も可能)、ホーム上の簡易改札機で出場処理を行い、わたらせ渓谷線の車内で精算する必要がある。JR線を切符で乗車してきた場合、乗り継ぎの時間が少ない際には、その切符を改札に通すことなくそれを整理券の代わりにして乗り換えることが可能である。また、相老駅で東武線から乗り継ぐ際は、足尾方面行きホーム上もしくは改札口に設置されている簡易改札機で処理する。足尾方面行きのホームでタッチ出場処理した場合、他の駅での乗車時と同様に整理券を取って降車駅にて車内精算となる。また、桐生 - 相老間をICカード乗車券で乗車すると、JRと東武鉄道経由で利用したとみなされ、高額な運賃が減額される(従ってわたらせ渓谷線に対しては無賃乗車である)。
一日フリーきっぷ.
1枚大人1,880円、小児940円(2022年4月1日現在)で、購入日当日に限りわたらせ渓谷線を自由に乗り降りできる。JR桐生駅窓口・相老駅・大間々駅・通洞駅・足尾駅で販売している。また、水沼駅温泉センター入館料・陶器と良寛書の館・冨弘美術館入館料2割引の特典がある。相老・大間々・通洞・足尾の各駅で販売する券の表面には、沿線の風景や写真などが印刷されている。全区間往復利用の場合、片道1,130円で往復2,260円のところ、フリーきっぷを利用すると380円安い。「トロッコわたらせ渓谷号」の節で前述したように、トロッコ列車などの臨時列車でも利用できる。
宮脇俊三との関わり.
国鉄足尾線時代の1977年5月28日、紀行作家の宮脇俊三がこの路線を最後に国鉄全線完乗を達成した。著書『時刻表2万キロ』にその顛末と乗車記が1章を割いて記述されている。宮脇が最初に足尾線に乗車した際は全線完乗を企図する前であり、間藤の1駅前の足尾までしか乗車しておらず、最後の1駅の区間のみを乗車するために再度足尾線へ乗車することになった。日本全国に散在した未乗車区間を、会社勤めの間を縫って週末や年末年始の休みを利用し地域ごとに潰していった結果、宮脇の居所である東京から近く、かつ近傍に未乗車区間のない足尾線が偶然最後になったものであって、足尾線が最後になったのは必ずしも本意ではなかったと心情を吐露している。2003年に宮脇が亡くなり、同年6月1日に間藤駅で追悼行事が行われた際には、「宮脇先生追悼号」という臨時列車が特製ヘッドマーク付きで運転された。 |
1998年長野オリンピック(1998ねんながのオリンピック)は、1998年(平成10年)2月7日から2月22日まで、日本の長野県長野市などで開催された20世紀最後の冬季オリンピック。長野1998(Nagano 1998)と呼称される。日本で開催されたオリンピックとしては、平成唯一でもある。2024年現在、長野は、歴代の冬季オリンピック開催地のうち最南で、最も低緯度である。
72の国(地域)から選手・役員4638人が参加し、延べ144万2700人の観客が会場に集った。
長野オリンピックの競技会場は、長野市の他にも白馬村、山ノ内町、軽井沢町、野沢温泉村に配置され、このうち人口が最も多く県庁所在地でもある長野市が主催都市(Host City)だった。そのため、1994年リレハンメルオリンピックおよび長野オリンピックの閉会式では、いずれも次回開催地への引き継ぎセレモニーで、長野市の塚田佐市長(当時)が出席した 。
大会開催までの経緯.
1985年2月28日に信濃毎日新聞は、長野県への冬季オリンピック招致キャンペーンを開始した。同年3月25日に長野県議会はオリンピック招致決議を行った。その後は、長野県内の全市町村も招致決議を行った 。
1988年6月1日に行われた日本オリンピック委員会(JOC)の1998年冬季オリンピックの開催国内候補地選定投票で盛岡市、山形市、旭川市を破り、選定された。
長野オリンピックの開催は、1991年6月15日にイギリスのバーミンガムで開かれた第97回国際オリンピック委員会総会で決定された。2回目は1回目の最低得票がソルトレイクとアオスタの2都市になったために落選都市決定戦という形で行なわれた。
日本での冬季五輪の開催は1972年札幌オリンピック以来、26年ぶり2度目だった。(1940年も札幌で予定されていたが、第二次世界大戦の影響で中止となっている。冬季の場合は夏季と異なり、非開催は大会の回次番号が付かないため、公式にも日本で2回目の冬季五輪開催となる。)
概要と経過.
開会式.
長野オリンピックの開会式は、天皇(現在の上皇)・美智子皇后(現在の上皇后)臨席の下、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。当初は夜間の開催だったが、アメリカの放映権を持つCBSの要請により昼間に変更。同時に開催時間を2時間以内に設定していた。総合演出(総合プロデューサー)は劇団四季の浅利慶太が担当(シニアプロデューサーが萩元晴彦、音楽アドバイザーが小澤征爾、イメージ監督が新井満、映像監督が今野勉、総合司会はジャーナリストで元NHK記者の磯村尚徳と、当時NHKアナウンサーだった道傳愛子が務め、磯村はフランス語、道傳は英語と、それぞれが堪能な言語のアナウンスメントも担当した。日本語の会場アナウンスは、元ラジオ福島アナウンサーの轟美穂)。
善光寺の鐘の音を合図にスタートし、御柱祭の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱の曙の土俵入りが行われ、歌手の森山良子と子供達によりテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」が披露された。 |
選手入場はオリンピック憲章に則り、ギリシャを先頭にアルファベット順に行われた。入場の最後の日本選手団は県民歌でもある「信濃の国」に合わせて入場した。
大会組織委員会会長・斎藤英四郎および国際オリンピック委員会(IOC)のフアン・アントニオ・サマランチ会長が挨拶し、「ここに、長野における第18回オリンピック冬季競技大会の開会を宣言します。」との天皇の開会宣言後、湯浅譲二作曲の『冬の光のファンファーレ』が演奏された。
猪谷千春、笠谷幸生、金野昭次、北沢欣浩、長久保初枝、大高優子、橋本聖子、山本宏美の元冬季オリンピック日本代表選手8人がオリンピック旗を持って入場し、長野市児童合唱団の合唱でオリンピック賛歌が演奏され、オリンピック旗が掲揚された。雅楽による国歌演奏の後、クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場した。
1997年世界陸上選手権10000m銅メダリスト・千葉真子から1992年アルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピックノルディック複合団体の金メダリスト・河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一の3人へ、そして1997年世界陸上選手権女子マラソン金メダリストの鈴木博美が引き継ぎ、ジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ「蝶々夫人」の中の『ある晴れた日に』が演奏され、1992年アルベールビル五輪女子フィギュアスケート銀メダリストの伊藤みどりの手によって聖火が点火された。
オリンピック宣誓は、アルベールビル・リレハンメル両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・荻原健司、フィギュアスケート審判・平松純子によって行われ、審判宣誓終了直後、子供たちのメッセージカードが入った羽ばたいているように見える3種類の鳩の形の紙風船が1,998個空に放たれた。
開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京、ベルリン、ケープタウン、ニューヨーク・シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるベートーベン作曲の交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱であった。指揮は小澤征爾が行い、この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。
さらに演奏終了に合わせて航空自衛隊のブルーインパルスが開会式会場上空で五色のレベルオープナー展示飛行を行った。
競技.
屋外競技は全体的に悪天候に悩まされた大会であった。アルペンスキーは競技日程が変更され、スキージャンプ団体戦は競技が一時中断された。
アルペンスキー.
男子滑降が行われる予定だった大会2日目から悪天候が続き競技日程が変更され、大会10日目の16日には男子スーパー大回転、女子滑降、女子複合滑降の3レースが同日実施された。5日遅れで開催された男子滑降では、出場45人中15人が失格・途中棄権となり、うち14人がコース上の同じポイントで失敗をした(1998年長野オリンピックの滑降競技場設営問題も参照)。なお、このシーズンのワールドカップ総合1位のヘルマン・マイヤーも滑降でこの地点で転倒したが、スーパー大回転および大回転で優勝した。 |
志賀高原会場は東館山・焼額山2コースを抱えていたため、2コース同時に競技が行われても進行することができるようスタッフの人的リソース・機材等手配がされた。当初は2コース分のスタッフを揃えることに経費面等の理由により不要論もあったが、確実な競技運営を主張した全日本/長野県スキー連盟の意向、「この時期の天候は読めない」という志賀高原地元スタッフの意見が反映され、フル手配となった。結果的にスピード系競技(白馬会場)の連日にわたる大幅なスケジュール変更や、多量の降雪による影響をも柔軟に対応することが可能であった。
またコース整備は陸上自衛隊が協力し、降雪によりコースが埋没した際の排雪も行った。
ジャンプ.
日本勢が金2個(ラージヒル個人・船木和喜、ラージヒル団体・日本代表)、銀1個(ノーマルヒル個人・船木)、銅1個(ラージヒル個人・原田雅彦)を獲得した。
日本代表団体の金メダル獲得の裏側を描いた映画「ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜」が制作され、2020年に6月19日に公開予定だった。新型コロナウイルスの影響で延期し、2021年6月18日に公開された。
ノルディックスキー.
団体戦の日本代表は冬季五輪3連覇は成らなかったものの5位に入賞した。また個人戦で荻原健司が4位、荻原次晴が6位に入賞した。
クロスカントリースキー.
クロスカントリースキー男子15kmクラシカルではケニアから出場し、最下位ながらも完走したフィリップ・ボイトを優勝したノルウェーのビョルン・ダーリがゴール地点で出迎えた一幕があった。
スノーボード.
大回転とハーフパイプの2種目がこの大会から正式種目として採用された。最初のレースとなった男子大回転で、カナダのロス・レバグリアティがオリンピックチャンピオンになった。しかしレバグリアティは競技終了後、ドーピング検査でマリファナの陽性反応が出たために一旦はメダル剥奪が決定されたが、スポーツ仲裁裁判所(CAS)の裁定により処分は取り消された。
スピードスケート.
プレシーズンにスラップスケートが登場し、多くの選手がスケート靴を変えての大会となった。スラップスケートが特に威力を発揮すると言われた長距離種目では、エムウェーブの高速リンクと相まって世界新記録が連発した。大会2日目に行われた男子5000メートルでは、メダリスト3選手全員が従来の世界記録を上回った。
日本勢では清水宏保が男子500メートルで金メダル、男子1000メートルで銅メダルを獲得した。また、女子500メートルでも岡崎朋美が銅メダルを獲得した。
フィギュアスケート.
多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳のタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミシェル・クワンが金メダルを争い、リピンスキーは当時15歳8か月で金メダルを獲得した。なお、リピンスキーはソニア・ヘニー(ノルウェー)の持つ最年少金メダル記録(15歳10か月)を更新した。その後、オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録の更新は難しくなった。
アイスホッケー. |
この大会からプロ選手の参加が認められ、ナショナルホッケーリーグ(NHL)は2週間中断した。NHLの選手を多く所属した6カ国は2次リーグからのシード参加となった。その中でもスター選手揃いのアメリカとカナダが注目されたが、ドミニク・ハシェックを中心とした堅い守備を持ったチェコがロシアとの決勝戦を制して金メダルを獲得した。
フリースタイルスキー.
モーグル女子で、里谷多英が冬季オリンピックで日本女子選手初となる金メダルを獲得した。
カーリング.
正式競技としては1924年シャモニー・モンブランオリンピック以来74年ぶり2度目の実施となった。公開競技として行われた大会を含めると、1992年のアルベールビルオリンピック以来2大会ぶりの実施であった。
なお、観客に内容がわかるように無料でラジオ受信機が配られ、場内で解説が聴けるように工夫された。
閉会式.
閉会式は2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムで開催され、天皇・皇后が臨席した。
各国の選手が入場し、「日本の祭り」というプログラムで長野県の祭りが一堂に集結、創作和太鼓『勇駒、信濃田楽、万岳の響き』の総勢2,000人揃い打ちが小口大八総指揮のもと演じられた。その後、近代オリンピック発祥の地ギリシャ、今大会の開催国でもある日本、次回大会の開催国・アメリカの3ヶ国の国歌が演奏され、オリンピック旗が長野市の塚田市長からソルトレイクシティの市長に引き継がれたあと、ソルトレイクシティオリンピック組織委員会によるデモンストレーションが行われた。大会組織委員会副会長の吉村午良とIOCのサマランチ会長のスピーチが行われ、最後はサマランチによって「アリガトナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられた。その後、大会ファンファーレが陸上自衛隊中央音楽隊によって演奏されたあと、オリンピック旗の降納とともにオリンピック賛歌が演奏・合唱された。
聖火の納火の後、杏里と子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱を行い、司会を務めたタレントの萩本欽一が「私たちのふるさとは?」と問いかけると、会場は「地球!!」と叫んだ。フィナーレでは花火5,000発が打ち上げられ、AGHARTA(長万部太郎こと角松敏生率いる覆面バンド)が登場し、「WAになっておどろう〜イレアイエ〜」を演奏した。なお、生中継を行った日本テレビの視聴率も30.8%を記録した。
鉄道への影響.
長野オリンピックの開催決定により、1991年には北陸新幹線が現存する在来線(信越本線、現しなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線規格から、軽井沢駅~長野駅で新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。もともと北陸新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989年時点ではフル規格での建設が決まっていた高崎駅~軽井沢駅のみが建設されていた。 |
軽井沢〜長野がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。ミニ新幹線計画時には小諸市を通る信越本線が新幹線に転用される予定だったが、計画変更により、信越本線が通らない佐久市をフル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。詳細については小諸駅、佐久平駅も参照。
その他の影響として、1994年にはスキー・スノーボード会場となる志賀高原への人員輸送に伴う列車増発対応のため、長野電鉄河東線(現長野線)北須坂駅と延徳駅が交換駅化された。1997年には選手村への最寄り駅として、信越本線上に今井駅が新設された。また、当時現役で運行されていた新幹線200系電車は本来北陸新幹線区間を走行することはないが、オリンピック期間中のみ列車増発のため、乗り入れに対応した編成が運転された。
記念発行物.
また、記念切手も発行された。
競技内容はもちろん、オリンピックの精神や理念を学習する教材資料として1996年3月に長野県教育委員会が製作・発行し、長野県内すべての小中学校全校生徒に配布された。
批判.
不法滞在者にまつわる問題.
長野五輪で使用される施設は、少なからずの不法滞在を含む外国人が入り、施設や道路造りに加わったとされる。しかし、その外国人らの多くが入管法違反(不法残留・入国など)で摘発されていると地元紙の信濃毎日新聞は報じている。同記事によると、長野県警は多数の摘発について「ホワイト・スノー作戦」という名称を付けていると言う。これについて、佐久地域国際連帯市民の会の横田隆志代表が「不法滞在の外国人労働者が日本社会を支えているという暗黙の現実がありながら、五輪が来る場にはいられない。日本の現実の姿だと思いますね」と述べている。また長野市内でスナックを経営するフィリピン人の女性が、日本人客から「五輪までに街をきれいにしなきゃいかん。そのうちあんたらも居られなくなるかもな」と言葉を投げつけられたとも同記事は伝えており、信濃毎日新聞はオリンピックの祝福ムードの陰にある外国人への「排除の論理」についても報じている。
大会運営費にまつわる問題.
1998年長野冬季オリ・パラ大会では、国際オリンピック委員会(IOC)で招致段階における不正疑惑が浮上したが、当時の長野大会組織委員会が帳簿を焼却し、真相は藪の中となった。 |
数学、とくに幾何学において等長写像(とうちょうしゃぞう)または等距離写像(とうきょりしゃぞう)とは、"長さ" を変えない(距離を保つ、distance preserving)写像のことである。全単射であるものに限って等長写像 (isometry) という場合もある。
定義.
距離空間 ("X", "d") の任意の元を "x", "y" とする("d" は距離関数)。このとき、"X" から別の距離空間 (" X' ", " d' ") への写像 "f" が、
なる関係を満たすとき、写像 "f" は距離を保つ、あるいは "f" は等長写像であるという。定義から、等長写像が単射であることはすぐに分かる。
距離空間 "X", "Y" の間に距離を保つ全単射 (isometry) が存在するとき、"X" と "Y" は距離空間として等長 (isometric) であるという。また、距離空間 "X" からそれ自身への距離を保つ全単射を "X" 上の等長変換という。"X" 上の等長変換の全体は群を成し、それを "X" の等長変換群とよぶ。
定義をノルム空間に適用すると、ベクトル空間 "X" におけるノルムを || · ||"X" で表すとき、写像 "f": "X" → "X"' が等長写像であるための条件は
となる。特に "f" が線形写像ならばこれは ||"x"||"X" = ||"f"(x)||"X"' と同じである。
計量.
以下では "X" をノルム空間とする。"X" の部分集合 "W" に対して、"f"("W"):= {"f"("x") | "x"∈"W"} とする。"X" 内の二つの部分集合 "C", "C に対し、等長写像 "f" が存在して "f"(" C' ") = "C" が言えるとき、"C" と " C' " は合同であるという。また、"aC":= {"ax" | "x"∈"C"} としたとき、ある正数 "k" が存在して "f"(" C' ") = "kC" がいえれば、"C" と " C' " は相似"'であるという。
"X" がさらに計量ベクトル空間であって、||"x"|| = <"x", "x">1/2 であり、"f" が線形変換ならば、"f" は内積を変えない。これは次のようにして分かる。"X" の元 "x", "y" に対し、内積の実部に関して
となる。虚部が等しいことは、"x" を -"ix" に置き換えると <-"ix", "y"> の実部が <"x", "y"> の虚部に等しいことから確かめられる。逆に内積を保てばもちろん等長写像になる。
直交変換・ユニタリ変換.
"X" が実ベクトル空間であるとき、線形な等長変換として直交変換が対応する。これは直交行列 "T" を用いて "Tx" と書くことができる。複素ベクトル空間では同様な写像にユニタリ変換(およびその行列表現としてのユニタリ行列)が対応する。 |
やすり(鑢、英:File )は、おもに金属の研削を行う手動工具である。
やすりの語源は、「鏃(やじり)をする」の「やする」が「ヤスリ」になった説と、ますますきれいに磨くという意味の「弥磨(いやすり)」が「ヤスリ」になった説がある。
歴史.
紀元前2000年ごろのブロンズ(青銅)製のやすりがギリシャのクレタ島で見つかっている。
19世紀に鋼の大量生産が可能となり、やすりの目を立てる(目切りという)機械が発明(1864年にW・T・ニコルソンが特許を取得)されるまで、やすりの目は手作業によって立てられ、切れなくなったものは何度も目立てをしなおして使用していた。現在はほとんどが機械切りのやすりになり、手切りのやすりはほとんど見かけなくなった。また、やすりを目立てして再生することも少なくなり、使い捨てにすることも多くなった。
西欧ではやすりは、1960年代まで多くシェフィールド(イングランド)で製造されていた。
日本においては、5世紀後半の岡山県隨庵古墳からやすりらしき物が出土しているほか、奈良時代の宮城県東山遺跡からも発掘されている。
やすりの製造は、農村鍛冶の副業から始まり、しだいに手作りの家内工業として発達してきた。明治後半には目立機が考案され、大正初期に目立機が電動化、圧延機も開発されたことにより、量産化が可能となった。戦前までは、大阪、新潟、東京などもやすり産地であったが、戦災で衰退した。広島県呉市仁方地区は戦争の被害が少なく、やすりメーカーが集まった「やすり団地」という地区があり、そこで生産される仁方やすりは国内生産量の95%を占める。
種類.
用途別に、鉄工やすり(金やすり)・木工やすり・ダイヤモンドヤスリが主である。
やすりの目には、刃の配列が平行のもの「単目」(一度切り)と交差しているもの「複目」(二度切り)および三度目(三度切り)がある。また、複目に似ているが刃の構造の少し異なるもの(シャリ目)、曲線のもの(波目)、溝がなく突起を多数備えているもの(鬼目/石目)等がある。また加工物の表面を筋状に加工する「筋目やすり」という特殊なやすりもある。
断面形状は平、半丸(甲丸)、丸、角、三角などの種類がある。他に、先細、鎬(しのぎ)、楕円、刀刃(かたなば)、腹丸(はらまる)、蛤(はまぐり)、両甲(りょうこう)、菱(ひし)がある。
目の粗い順に荒目(粗目)、中目(ちゅうめ)、細目、油目、精密などに分かれる。
爪を整えるのに使用されるやすりは「爪やすり」といい、簡易なものが爪切りなどに組み込まれている。
普通のやすりは鋼に目を切ったものであるが、目を切るかわりにダイヤモンドの粒子を電着メッキで付したダイヤモンドやすりもある。焼入れ鋼など特に硬度の高いものを切削するのに用いられる。
また、紙や布に研磨粒子を接着剤等で塗布したものは紙やすり等といわれる。
使い方.
やすりには刃の方向があるため、基本的に押す方向で削る。
刃の間に加工カスが詰まる場合はワイヤブラシ等によって切り粉を落とす。
製造方法.
成形(熱間鍛造)、焼きなまし、研磨、目立て、焼入れの工程を経て作られる。
やすりのひとつひとつの刃は、目の数だけたがねを打ち込んで作る。 |
生野町(いくのちょう)は、かつて兵庫県の中部にあった町。朝来郡に属した。兵庫県但馬県民局管轄。
2005年4月1日に同郡山東町、朝来町、和田山町と合併して朝来市(あさごし)となったため消滅した。
地理.
兵庫県のほぼ中央に位置し、周囲を山々に囲まれた海抜約300mの盆地状の町である。日本海と瀬戸内海の分水嶺(れい)に位置する。
但馬地方の南の玄関口に当たり、東は丹波、南は播磨地方と隣り合う。歴史的には但馬の中心都市豊岡市より姫路市との結びつきが強い。
歴史.
町の発展を支えてきた生野銀山の開坑は、807年(大同2年)とも伝えられ、江戸幕府はこの地に代官を置いた。1863年(文久3年)、大和の天誅組に呼応して尊皇攘夷派の平野国臣らがここに兵をあげたが、失敗に終わった(生野の変)。1889年(明治22年)に皇室財産となった後、1896年(明治29年)に三菱が払い下げを受けた。昭和48年(1973年)に資源の枯渇等により閉山したが、全国各地の文化の流入を受け、生野銀山独特の町並みを形成した。現在でも昔懐かしい風景が数多く残っている。
古くからの鉱山であることや、周辺に重金属を含む岩石が多く存在することから、かつてはカドミウムによる土壌汚染が発生した。農用地の土壌の汚染防止等に関する法律により土壌汚染除去事業が施され、汚染地域指定は2001年に解除されている。
行政.
※長谷文五郎
経済.
産業.
農家数と林家数が総世帯数のそれぞれ1割前後をしめる。 |
ペトロナスツインタワー(マレー語:)は、マレーシアのクアラルンプールにて1996年に完成した高さ451.9メートルの超高層ビル(ツインタワー)である。ペトロナスタワー、ペトロナスタワーズとも呼ばれる。
概要.
20世紀の超高層ビルとしては最も高く自立型建築物としては553メートルのCNタワーが、全建築物のカテゴリーでは629メートルのKVLYテレビ塔が当時世界で一番高かった。高さ451.9メートルの88階建てであり、クアラルンプール市中心部のシンボルとして
、当時のマレーシア首相であったマハティール元首相の先導によって建築された。名前の由来はマレーシアの国立石油会社ペトロナス。
ツインタワーはアルゼンチン出身のアメリカの建築家であるシーザー・ペリ&アソシエーツが設計し、イスラム様式のマレーシアのモスクに近似する特徴的な尖塔を持有するようにデザインされた。海側から吹き寄せる強風に起因する振動を防ぐために既存の柔構造を採用していない。鋼材を用いずに高強度コンクリートを積み上げる特徴的な構造であり、重厚な造りを醸し出している。
マレーシア政府は2人の建築専門家、ロバート・プラットとジョン・ダンスフォードにそれぞれの塔の建築を任命した。限られた予算と時間での施工を可能にする為、タワー1を日本の建設会社ハザマが、タワー2を韓国の建築会社サムスン物産建設部門と極東建設が施工し、最初に完成させたグループが41階と42階の2箇所に設けられた2本のタワーを結ぶ連絡橋であるスカイブリッジを建設する権利を得るようにして競争するようにした。
建設前の試算によって、元々の建築予定地は建物を建設するには不適当であると分かり、その場所で建設した場合にはしばらく経つと建物が傾く可能性があると判断したため、初期の設計より強固な基礎をもって従来の予定地から南東に60メートルの位置にて建設することに決定した。しかし、ロバート・プラットによると、72階まで建設した段階で、ハザマ側が建設したタワー1が垂直から25mmほど傾いていることが判明したため、それを修復しつつ工事を進めたという。なお、スカイブリッジを建設する権利の競争は建設途中で中止されたが、結果的にスカイブリッジの施工はタワー2側が引き継ぎ、同時に施工完成予定だった尖塔もジョン・ダンスフォードの指示によりタワー2側が早く完成した。
建設当時は尖塔を含めた高さが451.9メートルであり、全高442メートルのシアーズ・タワーを抜き、超高層ビルとして高さが世界一であったが、2004年に台湾の台北市に建てられた全高509メートルの台北101に高さ世界一(当時)の座を譲り渡した。ただしそれ以降も2本のビルが対であるツインタワーとしては世界一の高さである(2019年7月現在)。
テナント.
ツインタワー.
主にオフィスビルとして使用されている。タワー1は主にペトロナスとその子会社などのオフィスがおいてあり、タワー2は企業などのオフィスなどに使用されている。
スリア KLCC.
このタワーの下はショッピング等の複合施設、スリア・クアラ・ルンプール・シティ・センター ("Suria KLCC") となっている。ここには、日本の伊勢丹、紀伊國屋書店などが入居している。
設備. |
とは、量を数値で表すための基準となる決められた一定量のことである。
意義.
人類の歴史における量の観念は数の観念と並行して発達してきた。計量には客観的な基準がなければ困難であり、計量の基準には時間的普遍性、空間的不変性、再現性がなければならない。
同じ種類の量を表すのにも、社会や国により、また歴史的にも異なる多数の単位がある。
なお、漢語の「単位」は本来仏教用語で、禅宗寺院で修行僧1人ごとに与えられる一畳のスペースを「単」もしくは「単位」と呼ぶ。ここから、一区切りを「単位」と言うようになった。
科学技術.
科学技術に関する文書中では、「単位」は計量単位を意味することが多い。
国際単位系では計量単位の定義と単位記号の書き方は国際的に決められており、数値の後にスペース(通常は半角スペース(thin space))を空け、単位記号を書く。例えば、1.50 kgと書く。
計算において、単位記号は文字式の文字のように扱えるため、基本的には単位記号も一緒に計算する。例として、100 g+300 g=400 gや、100 m÷25 s=4.0 m/sのように単位記号を書きながら計算することで、計算ミスを減らすことができる。
数学.
単位(identity).
数学において、単位とは、「恒等の作用をするもの」()を意味する。積では、数の1がこれに当たる。
単位(unit).
また、数学において、単位は数の「1」を意味し()、またそれを想起させるさまざまな意味で用いられることもある。
学校制度.
学校制度における単位()とは、学校における「科目ごとの学習量」のことである。学校の進学や卒業に必要となる履修すべき学習量を科目毎に表した量である。詳細は、学年制と単位制を参照のこと。 |
エラー(Error)は、コンピュータにおいて、プログラムがそれらの実行が正常な動作でないと判断し、処理を中断または停止させる状態。エラーの原因は、システムやソフトウェアの不具合、バグなどの多岐にわたる。
概要.
コンピュータの動作におけるエラーは、プログラム自身の文法的な誤りによってそれ以上の処理が続行できない状態と、与えられたデータ(情報)に誤りがあり処理が続行できない場合、あるいはオペレーティングシステム(OS)やコンピュータシステムがプログラムの要求に応じられない場合などに発生する。
プログラム上においてエラーとしての認識がなされていない不正な処理ルーチンをバグと言う。また、OSの停止を伴うものはフォルトまたはストールと言う。OSが停止していない場合には、OS側が持つエラー処理ルーチンから排出するエラー情報からバグを見つけられることもある。またOSが停止してもコアダンプなどファイルの形で静的データが保存されている場合は、これを手掛かりとして異常を調査することも可能である。
通常のプログラム開発においては、こういったエラーはエラートラップ(エラー処理とも・後述)と呼ばれる特別の関数(サブルーチン)が処理を引き継ぐよう設計される。エラートラップに引っ掛かったエラーは、予測されるエラーに対して、どうすれば解決できるかを予測できる範疇で対応する。
エラートラップ.
エラートラップは、予測されるエラーに対して予め何らかの対抗策をプログラム中に組み込んでおくことである。例えば入力されたデータが異常であれば、プログラム利用者にデータの訂正を求めたり、あるいはデータそのものを処理できないものとして飛ばしてしまう(先送りや後回し)などである。
また、プログラムが複雑化してくると、こういったエラートラップで処理すべき原因が広範囲に及ぶため、特に対応せず処理続行不能としてプログラムを強制的に終了させてしまう場合もある。この場合は、問題となりうる部分のログ出力したり、あるいは寸前の問題なく動作していた時点の状態をセーブして、以前の状態を復旧させる場合もある。
最も単純な対応方法は「エラーが出たらプログラムを強制終了させてしまう」ことである。この方法であれば、最悪コンピュータシステム全体を巻き込んで動作停止する危険性だけは回避できる。ただしこの方法では途中までの処理が失われてしまうことから、プログラム利用者によっては、ストレスを受ける方法である。また、対処方法が明確ではないエラーメッセージも同様で、システムエラーの多くでは、専門の教育を受けたコンピュータ技術者以外には対処が難しいこともあり、同様に一般の利用者にはストレスを与える傾向がある。
エラーとユーザー.
パーソナルコンピュータなど、個人が様々な用途に用いるコンピュータは、21世紀初頭に前後して急速に社会に浸透している。この中では高度化されたOSやアプリケーションソフトウェア、あるいはユーティリティソフトウェアなどが、デバイスドライバなど様々なプログラムの介在によって動作している。
この状況下に於いて、コンピュータ周辺機器まで含めると、コンピュータのメインとなるシステムは、その内外とひっきりなしに通信(情報を信号として遣り取り)して処理を行っているが、これはユーザーにほとんど意識されていない。この場合に於いてユーザーが直接目にしているのは、コンピュータの画面に映し出された利用目的に添ったアプリケーションソフトウェアのグラフィカルユーザインタフェース(GUI)などであるが、ここでひとたびエラーが表示された場合、ユーザーにとっては「コンピュータのどこかに異常があってメッセージが出た」という認識しかない。 |
パオロ・ヴェロネーゼ(、1528年 - 1588年4月19日)は、ルネサンス期のヴェネツィアで活動したイタリア人画家。『カナの婚礼』、『レヴィ家の饗宴』などの作品で知られる。パオロ・カリアーリ ("Paolo Cagliari", "Paolo Caliari" ) と呼ばれることもあるが、出身地のヴェローナから「ヴェロネーゼ」として知られるようになった。
ヴェロネーゼはティツィアーノとティントレットと並んで、ルネサンス後期のヴェネツィアを代表する画家であると評価されている。非常に優れた色彩感覚の持ち主で、フレスコ、油彩ともに幻想的な色使いの装飾的絵画作品で知られている。ヴェロネーゼのもっとも有名な作品は劇的で色彩に満ちたマニエリスム様式で描かれた精緻かつ物語性豊かな連作絵画群で、壮重な建築物と壮麗な画面構成が特徴である。ヴェネツィアとヴェローナの修道院の食堂をモデルとした、聖書に書かれた饗宴のエピソードを題材とした大規模な絵画群はとくに重要な作品となっている。異端審問におけるヴェロネーゼの言葉は、当時の芸術に対する識見として引用されることも多い。
生涯と作品.
若年期.
当時のヴェローナの国勢調査記録から、ヴェロネーゼが1528年にガブリエーレという名前の石工とその妻カテリナの息子として生まれたことが分かっている。14歳のころまでにヴェローナの画家アントニオ・バディーレ () のもとへ、おそらくジョヴァンニ・フランチェスコ・カロート () とともに弟子入りしている。バディーレが1543年に描いた祭壇画には、当時のヴェロネーゼの手によると思われる印象的な小路が描かれている。早熟なヴェロネーゼの才能はバディーレの工房の水準を超えており、1544年の時点でバディーレから学ぶものはなくなった。ヴェロネーゼは、当時パルマで主流だったマニエリスム様式の絵画教育を受けたが、たちまちのうちに輝くような色彩に満ちた独自作風を身につけた。
ヴェネツィア.
ヴェロネーゼは1553年にヴェネツィアへと移住しているが、1548年にマントヴァに短期滞在し、当地のドゥオーモでフレスコ画を制作している。ヴェネツィアで受けた最初の絵画制作依頼は、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会 () からの『聖会話』だった。1553年にはヴェネツィア政府から庁舎の「十人委員会の間 (Sala dei Cosiglio dei Dieci)」のフレスコ装飾を公式に依頼された。その後、サン・セバスティアーノ教会 () の天井画『エステルの生涯』を描いている。このサン・セバスティアーノ教会の天井画と、ドゥカーレ宮殿、マルキアナ図書館(聖マルコ国立図書館、())にそれぞれ描いた天井画によって、ヴェロネーゼは当時のヴェネツィア絵画界の巨匠という名声を確立した。これらの作品には、コレッジョの人体表現におけるデフォルメと、ミケランジェロの雄雄しい人体描写からの影響がわずかに見られる。
『カナの婚礼』. |
『カナの婚礼』はバルバロ邸と同じくアンドレーア・パッラーディオとの共作となった作品で、『新約聖書』の『ヨハネ福音書』2章1-11節に記述されている、ガリラヤのカナで催された婚宴に招待されたキリストが水をワインに変えたとする、キリストが起こす最初の奇跡のエピソードが描れている。1562年にヴェネツィアのサン・マルク島サン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院のベネディクト会修道僧から依頼を受けて制作された。このときの制作契約条件として、66平方メートルの壁を覆う巨大な絵画とすることがうたわれており、使用する顔料の品質と種類も最上級のものが求められている。例えば青色の顔料には天然鉱物であるラピスラズリを使用した、非常に高価なウルトラマリンを使用することなどが契約書に指定されていた。さらに契約書には、可能な限り多くの人物像を描くことも盛り込まれている。『カナの婚礼』は、15か月かけて1563年に完成し、その後235年間サン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院の食堂に飾られていた。しかしながら、1797年のナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍のイタリア侵攻時に修道院から略奪された。輸送するにはあまりに大きな絵画だったために2枚に裁断され、パリに持ち込まれた後に元通りに修復されている。
ナポレオン失脚後に結ばれた講和条約でフランスからイタリアへ返還された略奪美術品もあったが、『カナの婚礼』はフランスが返還を拒否した。その代償としてシャルル・ルブランの絵画がヴェネツィアへと送られ、現在もこの作品はアカデミア美術館に所蔵されている。『カナの婚礼』は普仏戦争時には箱詰めされてフランス西部のブレストへと疎開していたほか、第二次世界大戦時には巻き上げられた状態でトラックに積まれてフランス各地を転々としている。
1989年にルーヴル美術館が100万ドルの費用をかけて、システィーナ礼拝堂天井画の修復に比肩するような『カナの婚礼』の修復計画を開始した。これに対し、歴史的美術品の擁護者を自認する芸術家の集団が異議を唱え、再検討を要求していた。そして1992年6月にルーヴル美術館は『カナの婚礼』の修復途中に、2つの異なる要因によって作品に損傷を与えてしまったと不面目にも公表することを余儀なくされた。空気弁から吹き出した水がキャンバスに飛び散ったことと、その二日後に総重量1.5トンに及ぶ『カナの婚礼』を壁の高い位置に掛けようとしたときに誤って床にたたきつけてしまったことである。このとき修復用に使用されていた金属枠が『カナの婚礼』に五カ所、最長4フィートの裂け目を生じさせた。建物が描かれている部分と背景部分が損傷を受けたが、人物が描かれた箇所には影響がなかった。噂が広まるまで、これらの事故についてルーヴル美術館は一カ月の間公表しなかったため大きな批判を受けている。
画面には当時最新の事物と古典的な事物の両方が描きこまれている。建物は古典的なグレコローマン様式で、低い手すりに囲まれた中庭にはドーリア式とコリント式の柱が建ち、遠景にはアーチが付いた空想的な尖塔が描かれている。前面中央で楽器を奏でる人物のうち、 |
白のチュニックを着てヴィオラ・ダ・ガンバを手にしているのはヴェロネーゼの自画像、その向かい側の赤い服の人物はティツィアーノ、さらにヴェロネーゼの背後にはティントレットが描かれているといわれている。その他、フランス王フランソワ1世、フランス王妃レオノール・デ・アウストリア、イングランド女王メアリー1世、オスマン帝国皇帝スレイマン1世、オスマン帝国大宰相ソコルル・メフメト・パシャ、ペスカーラ侯爵夫人ヴィットリア・コロンナ、神聖ローマ皇帝カール5世、ヴェネツィア共和国外交官マルカントニオ・バルバロ ()、イタリア貴族ジュリア・ゴンザーガ ()、枢機卿レジナルド・ポールら、当時の貴顕が描かれているとされている。
画面中央には背光とともにキリストと聖母マリアの姿が見える。その背後のバルコニーには肉を解体する人物が描かれており、美術史家からは解体されているのは羊で、キリストの真上の人物が刃物を振り上げていることとともに、将来キリストが神の子羊として処刑されることの象徴だとされている。『カナの婚礼』には宗教的象徴が描かれているために、正式な饗宴儀礼が無視されており、客人であるはずのキリスト、マリア、使徒が中央の席を占め、新郎新婦は画面左横の隅に追いやられている。
『レヴィ家の饗宴』.
ヴェロネーゼは1573年にヴェネツィアのサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会の食堂の壁画『レヴィ家の饗宴』として知られる作品を描いた。この食堂に飾られていたティツィアーノがキャンヴァスに油彩で描いた絵画が火災で焼失してしまったため、ヴェロネーゼが依頼を受け、もともとは『最後の晩餐』として描き始めたものである。ヴェネツィア風の祝宴を表現した、縦5m超、横12m超という非常に大きな絵画で、ヴェロネーゼの食事の光景を描いた作品群の中でも最高傑作とされている作品である。十二使徒が集う「最後の晩餐」の情景だけではなく、ドイツ軍人、小人の道化、様々な動物など、ヴェロネーゼが作品に物語性を持たせるために多用した異国風のモチーフがともに描かれている。ヴェロネーゼの特徴である輝くような色使いとともに、豊かな物語性、感情表現、非常に繊細かつ深い意味合いを持たせて描かれている人物間の身振りなどに優れた描写が見られる作品となっている。 |
前述したように、『レヴィ家の饗宴』はもともと「最後の晩餐」を主題として描かれていた。10年前の作品『カナの婚礼』の場合、依頼主のベネディクト会修道僧は、作品に可能な限りの人物を描くことを望んだ。しかしながら『レヴィ家の饗宴』では、聖書のエピソードの「最後の晩餐」を贅沢な衣装を着たヴェネツィアの貴族階級の祝宴のように描いた上に、本来の聖書のエピソードとは無関係な「道化、酔っぱらったドイツ人、小人などの下品な」モチーフを用いたことが不信心ではないかとしてローマ・カトリック教会の対抗宗教改革で問題視され、1573年7月にヴェロネーゼは異端審問会に召還を受けた。この審問自体は懲罰ではなく警告を主としたもので、3カ月以内に作品を描き直すように命じられたが、ヴェロネーゼは「我々画家は、詩人あるいは狂人と同じく、心に思ったことを自由に表現する権利を持っている」と言い放ち、作品を描き直すのではなく単に作品の題名を「最後の晩餐」から『レヴィ家の饗宴』に変更するだけで、この異端審問会を切り抜けたのである。
『レヴィ家の饗宴』は様々な議論を巻き起こした作品である。1960年代にもモンティ・パイソンが、ミケランジェロがカンガルー、28人の弟子、3人のキリストを『最後の晩餐』に描いたために、ローマ教皇に召喚されるというコメディを披露した。このコメディにはヴェロネーゼがあっけらかんと『最後の晩餐』を『最後から二番目の晩餐』に題名を変更して問題を解決しようとするというオチがついている。
その他の作品.
1556年ごろにヴェロネーゼは、祝宴の子を描いた最初の大規模な作品『シモン家の饗宴』の制作依頼を受け、1570年に完成させている。しかしながら、構成が散漫であり作品の焦点がはっきりしていないことから、この壁画はそれほど重要視されてはいない。1550年代の終わりに、ヴェロネーゼが手がけていたサン・セバスティアーノ教会の天井画制作に割り込む形で、マゼールに建築家アンドレーア・パッラーディオが設計した、新築のバルバロ邸(ヴィッラ・バルバロ)の室内装飾依頼を受けた。このとき描かれた一連のフレスコ壁画はキリスト教的精神に溢れた日常生活を主題とする独創的なもので、依頼主のバルバロ家の人々も壁画に登場人物として描かれており、天井部分にはギリシア・ローマ神話の登場人物が描かれている。遠近法と騙し絵(トロンプ・ルイユ)の手法が採用された複雑な構成で、きらめくように鮮やかな彩色とあいまって視覚化された詩とも言われている。バルバロ邸における建築家と芸術家の共作は成功したといえる。 |
ヴェロネーゼは食事の情景を描いた作品と同様に『アレクサンドロス大王の前に出たダレイオスの家族』(1565年 - 1570年)の画面構成でも建物を画面とほぼ平行に描いており、この手法には列を成すように配された人物たちを強調する効果がある。居間や礼拝堂といった場所に飾る絵画の場合、過度に透視図法を用いて描かれた作品ではなく、物語性を持つ鮮やかな多色使いで描かれた作品のほうがより相応しいということを、室内装飾に関する天与の才を持っていたヴェロネーゼは十分に理解していた。人物像は画面水平にごく落ち着いたポーズで描写されており、そこからは感情表現を見取ることはほとんどできない。人物像に感じられる豊かな感情表現は、光の描写と鮮やかな色彩からきているのである。このような明るい表現描写は、ヴェロネーゼの充実した私生活を反映したものである。ヴェロネーゼは1565年ごろに最初の師匠であるアントニオ・バディーレの娘エレーナと結婚しており、二人の間には四人の子供が生まれている。
『アレクサンドロス大王の前に出たダレイオスの家族』と同じく結婚当時に描かれた作品に『エリサベト、幼児洗礼者ヨハネ、聖ユスティナと聖母子』(1565年 - 1570年、ティムケン美術館がある。パドヴァとヴェネツィアの守護聖人である聖ユスティナ () が聖母マリアの向かって右側に、幼児キリストが画面中央に描かれている。およそ100年前のルネサンス初期に描かれた絵画と比べると、キリストとヨハネはより写実的に幼く表現されており、このくらいの年齢の幼児であれば母親にばかり目が行くのが普通だが、キリストは傍らのユスティナに向かって手を伸ばしている。マリアの従姉妹でヨハネの母エリザベトは画面左側に描かれている。繊細なバランス構成で聖家族を描いた絵画で、使用されている絵の具の暖色寒色比率も優れた作品となっている。
天井画や壁画以外に、ヴェロネーゼの作品には『聖ニコラオスの聖別』(1561年 - 1562年)のような祭壇画、『キューピッドによって結ばれるマルスとヴィーナス』(1578年)のような神話画、『女性の肖像(ラ・ヴェッラ・ナーニ)』(1555年)のような肖像画などがある。さらにペン、インク、水彩など複数の素材で描かれた多くのスケッチ、チョークを用いた人物習作などが世界各地に現存している。ヴェロネーゼは存命時から美術愛好家たちに最高の画家の一人だと見なされていた。
ヴェロネーゼは自身の一族で構成されていた工房を経営していた。この工房に従事していた弟のベネデット、息子のカルロ ()とガブリエーレ () は、1588年にヴェロネーゼが死去した後も活躍した画家である。親族以外のヴェロネーゼの弟子で著名な画家としては、ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼロッティ ()、ジョヴァンニ・アントーニオ・ファゾーロ ()、アンゼルモ・カネーリ、ルイージ・ベンファット () らが挙げられる。
評価.
バロック期のイタリア人画家、伝記作家カルロ・リドルフィ は、1648年に『レヴィ家の饗宴』について「抑制された歓喜、荘重な美しさ、陽気な笑い声」と評している。
また、20世紀のイギリス人芸術家、著述家、キュレータのローレンス・ゴウィング () は次のように述べている。 |
アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル( , 1833年10月21日 - 1896年12月10日)は、スウェーデンの化学者、発明家、実業家。
ボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させた。350もの特許を取得し、中でもダイナマイトが最も有名である。ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれた。
遺産を「ノーベル賞」の創設に使用させた。自然界には存在しない元素ノーベリウムはノーベルの名をとって名付けられた。やアクゾノーベルのように現代の企業名にも名を残している(どちらもノーベルが創業した会社の後継)。
生涯.
スウェーデンのストックホルムにて、建築家で発明家の (1801–1872) とカロリナ・アンドリエッテ・ノーベル (1805–1889) の4男として生まれた。両親は1827年に結婚し、8人の子をもうけた。一家は貧しく、8人の子のうち成人したのはアルフレッドを含む4人の男子だけだった。父方の先祖にスウェーデンの科学者オラウス・ルドベック (1630–1702) がいる。幼少期から工学、特に爆発物に興味を持ち、父からその基本原理を学んでいた。
事業に失敗した父は1837年、単身サンクトペテルブルクに赴き、機械や爆発物の製造で成功。合板を発明し、機雷製造を始めた。1842年、父は妻子をサンクトペテルブルクに呼び寄せた。裕福になったため、アルフレッドには複数の家庭教師がつけられ、特に化学と語学を学んだ。そのため英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語で流暢に会話できるようになった。学校に通っていたのはストックホルムでの1841年から1842年にかけての18カ月間だけだった。
化学の家庭教師として雇われたのは化学者である。その後化学をさらに学ぶため、1850年にパリに行き、テオフィル=ジュール・ペルーズの科学講座を受講している(アスカニオ・ソブレロは彼の生徒の一人)。翌年にはアメリカに渡って4年間化学を学んだ。そこで短期間だが発明家ジョン・エリクソンに師事している。その後、父の事業を手伝う。最初の特許を出願したのは1857年のことで、ガスメーターについての特許だった。 |
クリミア戦争 (1853–1856) では兵器生産で大儲けをするが、戦争終結と同時に注文が止まったばかりでなく、軍がそれまでの支払いも延期したため事業はたちまち逼迫し、父は1859年に再び破産する。父は工場を次男の (1831–1888) に任せ、アルフレッドと両親はスウェーデンに帰国した。なお、ルドヴィッグは受け継いだ工場を再開して事業を発展させた。アルフレッドは爆発物の研究に没頭し、特にニトログリセリンの安全な製造方法と使用方法を研究した。アルフレッド本人がニトログリセリンのことを知ったのは1855年のことである(テオフィル=ジュール・ペルーズの下で共に学んだアスカニオ・ソブレロが発見)。この爆薬は狙って爆発させることが難しいという欠点があったので起爆装置を開発。1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功。1863年にはスウェーデンで特許を得た。1865年には雷管を設計した。ストックホルムの鉄道工事で使用を認められるが、軍には危険すぎるという理由で採用を拒まれる。
1864年9月3日、爆発事故で弟エミール・ノーベルと5人の助手が死亡。アルフレッド本人も怪我を負う。この事故に関してはアルフレッド本人は一切語っていないが、父イマヌエルによればニトログリセリン製造ではなくグリセリン精製中に起きたものだという。この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。ニトログリセリンの安定性を高める研究に集中した。また合成者のアスカニオ・ソブレロ (Ascanio Sobrero) に対し充分な対価を支払った。1866年、不安定なニトログリセリンをより安全に扱いやすくしたダイナマイトを発明。彼の莫大な利益を狙うシャフナーと名乗る軍人が特許権を奪おうと裁判を起こしたがこれに勝訴し、1867年アメリカとイギリスでダイナマイトに関する特許を取得する。しかしシャフナーによる執拗な追求はその後も続き、アメリカ連邦議会にニトロの使用で事故が起きた場合、責任はアルフレッドにあるとする法案まで用意されたため、軍事における使用権をシャフナーに譲渡。
1871年、珪藻土を活用しより安全となった爆薬をダイナマイトと名づけ生産を開始。50カ国で特許を得て100近い工場を持ち、世界中で採掘や土木工事に使われるようになり、一躍世界の富豪の仲間入りをする。1875年、ダイナマイトより安全で強力なゼリグナイトを発明。1887年にはコルダイトの元になったの特許を取得している。
1878年、兄ルドヴィッグとと共に現在のアゼルバイジャンのバクーでを設立。この会社は1920年にボリシェヴィキのバクー制圧に伴い国有化されるまで存続した。
1884年、スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれた。また同年、フランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を授与される。さらに1893年にはウプサラ大学から名誉学位を授与された。
1890年、知人がノーベルの特許にほんのわずか変更を加えただけの特許をイギリスで取得。アルフレッドは話し合いでの解決を希望したが、会社や弁護士の強い意向で裁判を起こす。しかし1895年最終的な敗訴が確定する。 |
1891年、兄ルドヴィッグと母の死をきっかけとして、長年居住していたパリからイタリアのサンレーモに移住。
1895年、持病の心臓病が悪化しノーベル賞設立に関する記述のある有名な遺言状を書く。病気治療に医師はニトロを勧めたが、彼はそれを拒んだ。1896年12月7日、サンレーモにて脳溢血で倒れる。倒れる1時間前までは普通に生活し、知人に手紙を書いていた。倒れた直後に意味不明の言葉を叫び、かろうじて「電報」という単語だけが聞き取れたという。これが最後の言葉となった。急ぎ親類が呼び寄せられるが、3日後に死亡した。死の床にも召使がいただけで、駆けつけた親類は間に合わなかった。現在、アルフレッドはストックホルムのNorra begravningsplatsen(北の墓地)に埋葬されている。
私生活.
ヨーロッパと北米の各地で会社を経営していたため、各地を飛び回っていたが、1873年から1891年まで主にパリに住んでいた。孤独な性格で、一時期はうつ病になっていたこともある。生涯独身であり、子供はいなかった。伝記によれば、生涯に3度恋愛したことがある。最初の相手はロシアの娘アレクサンドラだが、彼のプロポーズを拒絶した。
1876年には結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を5ヶ国語で出し、5ヶ国語で応募してきたベルタ・キンスキーという女性を候補とする。しかしベルタには既にという婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。そして1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞。
また同じく1876年、当時20歳のゾフィー・ヘス(Sofie Hess)と出会い、交流が始まる。ゾフィーとの関係は18年間続き、218通の手紙を残した。しかし1891年に、ゾフィーが他の男(ハンガリー人の騎兵隊の将校)の子供を宿していることが分かり2人の関係は急速に冷えた。ゾフィーはこの子供の父親と結婚。ノーベルの死後、ゾフィーはこれらの手紙をノーベル財団に高額で買い取らせることに成功したためすべてが残っており、またノーベル財団により1955年から公開もされている。ゾフィーはこの手紙の売却で巨万の富を得ている。
正式な高等教育を受けていないが、ノーベルは母語であるスウェーデン語に加えて、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語が堪能だった。また少年時代から文学に関心を持っており、特にバイロンとシェリーの詩に熱中して自らも詩を書いていたが、それらのほとんどは晩年に破棄された。最晩年に書き上げた戯曲「ネメシス」という作品はベアトリーチェ・チェンチを主人公としたストーリーで、シェリーの『チェンチ』が着想の一部になっている。これはノーベルが亡くなったころ印刷されていたが、スキャンダラスで冒涜的な内容だったことから3部だけ残して全て廃棄された。残っていたものをベースとして2003年、スウェーデンで2言語版(スウェーデン語とエスペラント)が出版され、その後スロベニア語やフランス語に翻訳された。2010年にはロシアで新たな2言語版(ロシア語とエスペラント)が出版されている。
発明. |
ニトログリセリンの衝撃に対する危険性を減らす方法を模索中、ニトロの運搬中に使用していたクッション用としての珪藻土とニトロを混同させ粘土状にしたものが爆発威力を損なうことなく有効であることがわかり、1867年ダイナマイトの特許を取得した。同年イングランドのサリーにある採石場で初の公開爆発実験を行っている。また、ノーベルの名は危険な爆薬と結びついていたため、そのイメージを払拭する必要があった。そのためこの新爆薬を「ノーベルの安全火薬」(Nobel's Safety Powder) と名付ける案もあったが、ギリシア語で「力」を意味するダイナマイトと名付けることにした。
その後ノーベルはコロジオンなどに似た様々なニトロセルロース化合物とニトログリセリンの混合を試し、もう1つの硝酸塩爆薬と混合する効果的な配合にたどり着き、ダイナマイトより強力な透明でゼリー状の爆薬を生み出した。それをゼリグナイトと名付け、1876年に特許を取得した。それにさらに硝酸カリウムや他の様々な物質を加えた類似の配合を生み出していった。ゼリグナイトはダイナマイトより安定していて、掘削や採掘で爆薬を仕掛けるために空ける穴に詰めるのが容易で広く使われたため、ノーベルは健康を害したがそれと引き換えにさらなる経済的成功を得た。その研究の副産物として、ロケットの推進剤としても使われている無煙火薬のさきがけともいうべきも発明している。
遺産とノーベル賞.
1888年4月12日、カンヌを訪れていた兄ルドヴィッグが死去。この時、ノーベルと取り違えて死亡記事を載せた新聞があり、見出しには「死の商人、死す」とあった。さらに本文には「アルフレッド・ノーベル博士:可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」と書かれていた。ノーベルにとってダイナマイトが戦争で使われることは想定内であり、むしろ破壊力の大きな兵器は戦争抑止力として働くと予想していたが、実際には高性能爆薬の普及により戦争の激化を招いたことで世間的には「死の商人」というイメージが広まっていた。これらのことからノーベルは死後の評価を気にするようになったという。
1895年11月27日、財産の大部分をあてて国籍の差別なく毎年授与するノーベル賞を創設するとした遺言状に署名した。税と個人への遺産分を除いた全財産の94%、3122万5千スウェーデン・クローナを5部門のノーベル賞創設に割り当てている。これは当時の為替レートで168万7837ポンドに相当する。ノーベルの莫大な遺産の相続をめぐって、兄弟やその子達が当然のようにトラブルを起こしたために指名された相続執行人は苦労した。ノーベル本人は1890年に起こした訴訟の経験から弁護士を信用しておらず、直筆で自分だけで遺言状を書いたために遺書の内容には矛盾点が多く、このことも相続執行人を悩ませた。
遺言で賞を授与するとされた分野のうち最初の3つは物理学、化学、医学または生理学だった。4つめは「理想的な方向性の (in an ideal direction)」文学とされ、5つ目は軍縮や平和推進に貢献した個人や団体に贈るとされている。数学分野の賞は含まれていなかった(アーベル賞も参照)。ノーベル本人はこの賞に名はつけていないが、現在この賞は「ノーベル賞」と呼ばれている。 |
文学賞については "in an ideal direction"(スウェーデン語では ')の解釈が問題となった。これについてスウェーデン・アカデミーは "ideal" を「理想主義的」(idealistic、')と解釈したため、ヘンリック・イプセンやレフ・トルストイらが受賞できない結果となった。その後解釈は修正され、理想主義的ではないダリオ・フォやジョゼ・サラマーゴといった作家も受賞するようになった。
ノーベルは遺言状の内容について生前誰にも相談しなかったため、物理学賞や化学賞についても選考方針に解釈の余地があった。遺言状には、物理学における発明・発見、化学における発見・改良に賞を与えると記されていた。つまり工学的貢献も念頭にあったと見られるが、科学と工学の区別については何も記されていなかった。ノーベルが選考者に指定した組織は科学寄りだったため、それらの賞は工学者や発明家ではなく科学者に与えられるようになった。
2001年、ノーベルの兄弟のひ孫 Peter Nobel (b. 1931) がスウェーデン国立銀行に対して「アルフレッド・ノーベルを記念」した経済学者への賞を上述の5部門とは区別するよう依頼した。このことに現れているように、ノーベル経済学賞を「ノーベル賞」に含めるか否かについては議論がある。
その他.
現在もノーベルの名を冠する会社は欧州各地にあり、爆薬製造や化学工業を行っている。特にドイツのダイナミット・ノーベル社は、対戦車兵器パンツァーファウスト3やケースレスライフルH&K G11用弾薬など、現在も兵器の開発・製造を行っている。
日本の菓子製造会社で大阪市生野区に本社があるノーベル製菓はノーベルの名を冠しているが、ノーベル本人とは全くの無関係である。1949年に湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞した際にノーベルの登録商標を取得、1959年に社名をノーベル製菓に変更しているためで、ノーベル製菓の初代社長が湯川秀樹と交友関係であったことから単にノーベル賞に因んだ社名を付けただけである。 |
メフィストフェレス(一般にMephistopheles、他にMephistophilus, Mephistophilis, Mephostopheles, Mephisto, Mephastophilis)は、16世紀ドイツのファウスト伝説やそれに材を取った文学作品に登場する悪魔。「メフィスト(Mephisto)」とも略称される。
一般にファウスト博士が呼び出した悪魔として知られ、ファウストを題材とした作品での風貌や性質がよく知られている。中でもゲーテの『ファウスト』が有名。
名前の由来と表記法.
名前の由来については定説はない。有力な説としては、以下の3つが挙げられる。
また、名称・表記にも揺れがあり、ウィリアム・シェイクスピアは "Mephistophilus" の名称を使用し、クリストファー・マーロウは "Mephostophilis" の名を採用している。日本語でも元の表記や訳によって「メフォストフィレス」などと表記される。
J・B・ラッセルは「名前の由来は不確かで、純粋に近代の創案であるという、そのことが、彼を近代的悪魔のひとつの洗練された象徴となし、数多の小説に様々な形で登場させることとなった。」と指摘している。
ファウスト伝説におけるメフィストフェレス.
大元のドイツの民衆本によると、錬金術師であり降霊術師でもあったゲオルク・ファウストが、己の魂と引き換えにメフォストフィレスを召喚し、自己の尽きせぬ欲望を満たそうとしたとされる(それについては1587年に出版された『実伝ヨーハン・ファウスト博士』、通称「ファウスト本」に詳しい)。このファウスト伝説が広く知られると、格好の創作対象となり、多くのファウスト伝説及びメフィストフェレスが描かれた。比較的早い時期では劇作家のクリストファー・マーロウが1593年に『フォースタス博士』を書いている。19世紀に書かれたゲーテの『ファウスト』は、彼の代表作としても知られる。
ファウスト伝説のメフィストフィレスは、この世におけるファウストの望みを叶える代わりに、その魂をもらう(死後は自分の支配下に置く)ことをファウストと取り交わす。メフィストフィレスは契約に忠実な様子を見せる一方で、巧みな弁舌でファウストを操作しようとする。その結末は作品によってかわり、メフィストフィレスの目的が達成される場合もあれば、ファウストの魂を手に入れられないこともある。また悪魔としての設定も、作品によって異なる。マーロウの『フォースタス博士』に登場するメフィストフェレスは、ルシファーに仕える悪魔で、彼と共に神に反逆したことになっている。ゲーテの『ファウスト』に登場するメフィストフェレスは誘惑の悪魔とされ、神との賭けでファウストの魂を悪徳へ導こうとする。
コラン・ド・プランシーの『地獄の辞典』では、「ファウストの魔神」と紹介されている。17世紀までには、ファウスト伝説は広く世に知られ、ファウストやメフィストフェレスを主題としていなくても彼らの名前が登場することがあった。例えばシェークスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』では相手を罵倒する言葉として「メフィストフェレス」が用いられている。 |
尾崎 行雄(おざき ゆきお、1858年12月24日〈安政5年11月20日〉- 1954年〈昭和29年)10月6日〉は、日本の政治家、教育者。号は咢堂(がくどう。最初は学堂、愕堂を経て咢堂)。
日本の議会政治の黎明期から第二次世界大戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有し、「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる。政友会時代を除き、政権与党に属したことはなかった。東京市長時代の1912年(明治45年)にアメリカ・ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜(ソメイヨシノ)の苗木を寄贈したことでも知られ、返礼として日本に初めてハナミズキをもたらした。
聖公会信徒。正三位勲一等(1946年5月4日付返上)。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。伊勢神宮内宮前の饗土橋姫神社左隣の参道の奥に鎮座する合格神社の祭神。世界連邦建設同盟(現・世界連邦運動協会)初代会長。
略歴.
生い立ち.
安政5年11月20日(1858年12月24日)、相模国津久井郡又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)生まれ。幼名は彦太郎。
行雄の父・尾崎行正の生家は漢方医を業とし、漢学者・藤森弘庵の私塾に桂小五郎(木戸孝允)の先輩として学んだ。尾崎家の先祖は今川義元の家来で、武田信玄に攻め立てられて没落した。尾崎家は天正18年(1590年)に後北条氏が滅びてから又野に移り、累世相続いて里長となる。掃部頭行永以前の尾崎家先祖が住んでいたといわれる伏馬田城というのは現在の相模原市緑区牧野(まぎの)にあったが、その城跡一帯は現在尾崎ヶ原といわれている。
父・行正(彦四郎)は、戊辰戦争の際、官軍土佐藩迅衝隊総督の板垣退助の徳を慕って馳参じ、隊長・美正貫一郎の率いる断金隊(旧武田家臣の子孫たちで構成された部隊)に加わって会津戦争を戦い抜き、貫一郎の討死後は断金隊の2代目隊長に任ぜられた。明治維新後は弾正台の役人となった。
行雄は11歳まで又野村で過ごした後、父・行正に従い明治元年(1868年)に番町の国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾にて学び、次いで明治4年(1871年)に高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。その後、明治5年(1872年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。父は熊本転任が予定されていたため、東京遊学を許し、行雄に弟を同行させて慶應義塾へ向かわせた。 |
明治7年(1874年)に弟と共に上京し、当時「日本一の学校」との名声を得ていた慶應義塾童子局に入学するやいなや塾長の福澤諭吉に認められ、十二級の最下級から最上級生となる。福澤諭吉は慶應義塾の英語教師を務める聖公会のカナダ人宣教師のA・C・ショーに塾生に対するキリスト教教育の機会も与え、信仰を持った尾崎は、明治8年(1875年)のクリスマスにショーよりキリスト教の洗礼を受ける。この時、8人の日本人がショーから洗礼を受けたが、そのうちの3人は尾崎を含む慶應義塾に学ぶ生徒だった。
また、当時慶應義塾で学んでいた尾崎は工学寮(のちの工部大学校、現・東京大学工学部)に転じようと決意したとき、ショーについて英語と高等数学を学んだ。
その後、直ちに世の中で役に立つ学問を求めた尾崎は、反駁する論文を執筆して慶應義塾を退学し、福澤の友人で工学寮(のちの工部大学校)の校長ダイヤーと大鳥圭介に紹介文を書いてもらい、染物屋になるため明治9年(1876年)に工学寮に再入学した。しかし、学風の違いや理化学への嫌気から『曙新聞』などに薩摩藩閥の横暴を批判する投書を始め、それがいずれも好評を博したため、一年足らずで退学。その後、慶應義塾に戻り、朝吹英二が経営した『民間雑誌』の編集に携わり、共勧義塾で英国史を論じたり、三田演説館で演壇に立ったりするなどした。
明治12年(1879年)には福澤諭吉の推薦で『新潟新聞』の主筆となる。
官吏・新聞記者・政界へ.
当時、海軍省の長谷川貞雄相手に講演した強兵論『尚歩論』が機縁となり、矢野文雄に誘われ、明治14年(1881年)に統計院権少書記官という官職に就任する。しかし明治十四年の政変でわずか2か月あまりで下野した。
明治15年(1882年)、『報知新聞』の論説委員となり、立憲改進党の創立に参加するが、大隈重信の奇妙な脱党に不信感を覚えた。翌年、東京府会の改選で日本橋から推薦されて最年少で府会議員となり、常置委員に選出される。政府の条約改正案に対して強い反対運動が起こると、尾崎は反欧化主義の急先鋒となり、後藤象二郎を担ぎ出し、大同団結運動を進めた。相談した結果、後藤を正装させて、宮内省に向かわせたが明治天皇と会うことは許されず、クーデターを計画し始めた尾崎は、明治20年(1887年)、保安条例により東京からの退去処分を受けた。尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて“愕”のりっしんべんを取り咢堂とした)。星亨や林有造らの土佐派と友好を結び、知己の間を廻った。
政界の麒麟児. |
父が神風連の乱で九死に一生を得て伊勢で余生を楽しんでいた縁故をたどり、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬して当選。以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる(これは世界記録でもある)。伊勢では投票用紙に「尾崎行雄」としか書いたことのない選挙人が2代・3代にわたって少なくない。この時代の選挙はまさに戦争同然であり、尾崎も何度も刺客に襲われそうになっているが、地元の猪狩の鉄砲隊を組織してこれを追い返すなどしている。
第1次松方内閣の第3議会における軍艦製造費削除問題などで活躍し、『朝野新聞』などから絶賛される。
第2次伊藤内閣では第6議会で、民党六派は内閣弾劾上奏文を提出し、尾崎がその説明に当たった。第一に政府の不当解散、第二に政府の軟弱外交、第三に政府の議会軽視、第四に伊藤博文の事ごとに袞竜の袖に隠れる行為を批判し、伊藤博文は顔色を変えたといわれる。この採決は149対144というわずか5票の差で否決された。
日清戦争が始まると、東亜の大計を立てるべきとの論文を次々に執筆し、世論の指導に努めた。日清戦争後の第4回総選挙後は各派とも従来の恩怨を忘れ、挙国一致して外敵に抗する議決を広島の大本営で可決した。伊藤博文が後に幾多の障害を排して自ら政党の組織に乗り出し、立憲政友会を創ったのは、日清戦争における各派の協力ぶりを見て政党敵視の観念を放棄したからだといわれている。三国干渉に伊藤が屈すると対外強硬派の先頭に立ち、政友有志会を組織して演説した。
この間、尾崎は進歩党に属した。時局便乗派の徳富蘇峰の『国民新聞』などが松方正義と大隈重信の近接が最上の時局救治策であるとの主張を盛んに唱導したこともあってか、第2次松方内閣が成立すると、その外務大臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、「二十六世紀事件」や樺山資紀の食言などで、尾崎自身も倒閣に動いた。しかし、勅任官でありながら進歩党の会議に出席し、内閣を攻撃したことで懲戒免職処分となった。大隈はその後10月31日に辞表を提出し、進歩党系の官僚も政府から去った。
東京市長・憲政擁護運動. |
明治31年(1898年)6月21日、進歩党と自由党が合同して憲政党が結成された。大隈と板垣に大命が降下し、第1次大隈内閣(が成立した。尾崎は40歳の若さで文部大臣として入閣した。この際、大隈の保証によって明治天皇が懲戒を免除する裁可を行っている。そのうちに第6回総選挙は同年8月14日に行われ、憲政党は圧倒的に勝利したが内部抗争や猟官運動が露骨となり、星亨が大隈を攻撃するなど内閣は大揺れに揺れた。8月22日、尾崎は帝国教育会からの依頼により神田一ツ橋の同会で演説したが、大隈内閣の外相候補でもあった伊東巳代治の経営する『東京日日新聞』に言葉尻をとらえられて攻撃された(共和演説事件)。倒閣を目指していた星亨ら自由党派閥による尾崎攻撃は10月頃から激しさを増し、10月21日、板垣が尾崎の罷免を上奏した。これを受けた天皇は大隈と尾崎に不信感を持っていたこともあり、首相である大隈に是非を問うこともなく辞職を求めた。10月24日、尾崎は病気を理由に文相を辞任し、後任に星亨と江原素六を挙げていたが、その後任を巡って憲政党は分裂、隈板内閣も総辞職した。
第2次山縣内閣が発足すると、憲政本党の最高幹部に属していたが、伊藤博文を訪問して義和団の乱以来のロシア帝国との関係を話し合って意気投合。立憲政友会の創立に参加して憲政本党を離脱、政友会の総務委員の一人となり、尾崎は星亨と共に院内総務を任じられた。桂内閣が発足すると党務執行の常務委員の5人に選ばれた(尾崎、原敬、星亨、片岡健吉、大岡育造)が、まもなく星が暗殺され、党務の中心は尾崎と松田正久の2名に命じられた。しかし、その後に伊藤とも対立して離党。片岡健吉や加藤高明もこれに倣い、同志研究会を組織し、その後は猶興会などを経て政友会に復党と、めまぐるしく所属政党を変遷する。
明治36年(1903年)から同45年(1912年)まで東京市長に就任。尾崎の東京市長在任中に、東京市が東京鉄道を買収し、東京市電気局を設置した。夫人の逝去を受けて外交官の尾崎三良の娘・テオドラ(日本名は英子。尾崎三良と彼が下宿していたモリソン家の当主で英語教師のウイリアム・モリソンの娘パディアとの間に生まれた)と再婚したが、ハーフの英子との結婚は尾崎に対する種々の誤解を生じさせたようである。結婚後は英子の勧めもあって駐日英国公使館員ジョン・ガビンズから軽井沢の土地を購入し別邸「莫哀山荘」(莫哀は「哀しみのない」という意味)を設け、莫哀山荘は軽井沢の名所とさえなった(後述)。 |
明治37年(1904年)2月、日露戦争の開戦後に第1次西園寺内閣が発足。西園寺公望が桂太郎の反撃を受けて総辞職し、第2次桂内閣が発足すると、明治41年(1908年)12月21日、尾崎は猶興会を改組して紅葉館で河野広中らと又新会を成立させるが、自身は総裁・西園寺の下で再び政友会に復帰する。他方、犬養毅や大石らは立憲国民党を結成した。この時、幸徳秋水らの大逆事件と南北正閏問題が起こり、桂内閣は西園寺を推薦して総辞職した。
西園寺公望が二個師団増設案から陸軍大臣・上原勇作の声明・辞任で退陣に追い込まれ、長州軍閥によって内務大臣となっていた桂が擁立されて桂園時代が終わると、桂太郎が宮中・府中の別を乱るものと難じ全国的な国民運動が巻き起こった。大正元年(1912年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とするもの」と首相・桂を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。これらの集会は全国で行われ、各地に咢堂会が生まれ、尾崎が壇上に立つと聴衆からは「脱帽々々」と喝采が鳴り止まず、しばしば口を開かせなかった。
第3次桂内閣退陣後、山本権兵衛が組閣すると、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党。以後、政友倶楽部、亦楽会、中正会、憲政会、革新倶楽部と移る。
また、この時期に日本の若年層の、より一層の教育レベルの向上を目標として河野正義に請われ、「大日本国民中学会」の会長を務める。当時レベルが玉石混淆であった「講義本」をシステム化し、日本最高の教授陣を集めてこの再編纂にあたらせた。また自らも教科書の執筆をし、全国の中学生の学力向上に尽力した。国民中学会の「講義本」は日本最高レベルと評され、通教生が続々と有名公立中学校へ編入するなど実力が証明された。また支部を甲種中学校に格上げ創立するなど全国的な教育改革に邁進した。(⇒「大日本国国民中学会」参照)
第一次世界大戦後.
第1次山本内閣がシーメンス事件で総辞職し、清浦奎吾が首相就任に失敗すると、大隈重信に再びお鉢が回り(第2次大隈内閣)、尾崎は中正会を代表して司法大臣として入閣した。部下には平沼騏一郎や鈴木喜三郎を置き、蔵相・若槻禮次郎、外相・加藤高明、海相・八代六郎辞職後の内閣改造で活躍する。加藤高明を党首に担ぎ出して憲政会を結成、最高幹部に就任する。
大隈重信が疲労などから辞職し、後を受けた寺内内閣がシベリア出兵問題で早々に終焉するとついに原内閣が誕生した。尾崎はこれを好意に思い、1919年、第一次世界大戦後のヨーロッパ(欧州)諸国視察の外遊に出る。当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、このヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを見聞して以後は、態度を変化させ一貫した軍縮論者となった。既に欧州の主流は反軍国主義であり、日本はこれに逆行しようとしていたからである。 |
また、ポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援した。また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢や、西尾末広と反軍演説を行った斎藤隆夫の除名に反対の意思を示す(棄権など)など議会制民主主義を擁護する姿勢を示したが、政界では次第に孤立していった。
憲政会を離党すると、ついに無所属議員となり、のち30年あまりを無所属で通した。無所属になったことは政界での尾崎の出世の妨げとなり、閣僚経験は2度の大隈内閣で経験したのみに止まり、総理大臣はおろか衆議院議長・副議長、戦後国会での常任委員長になることは終に無かった。
政党政治から翼賛政治へ.
国家主義・国民主義的な観点から軍縮論者となっていた尾崎は、全国遊説の旅に出る。大正13年(1924年)、超然内閣である清浦内閣が成立すると、これに反対する第二次護憲運動が始まる。護憲三派が成立し衆議院総選挙の結果、護憲三派が勝利し、加藤高明内閣が成立する。
昭和に入り政党内閣が続き、昭和4年(1929年)には「政党内閣の頂点」と言われる立憲民政党の濱口内閣が成立する。だが昭和6年(1931年)に満州事変の勃発後、軍部の政治介入が相次ぎ、政党政治は危機に陥った。昭和7年(1932年)に5・15事件で犬養毅が暗殺されると政党内閣は終焉した。尾崎はこの現状を憂慮して『墓標に代えて』と題して遺言を執筆し、雑誌『改造』に掲載された。
二・二六事件の後の廣田内閣が1年足らずで潰れ、林銑十郎が組閣すると昭和12年(1937年)2月17日、尾崎は議会で登壇し『正成が敵に臨める心もて我れは立つなり演壇の上』なる2時間におよぶ辞世を詠み、新聞は全面を埋めて尾崎の演説を掲げた。近衛内閣が誕生して日中戦争が泥沼化へ入ると、西尾末広の演説に連座した事件で、議院の構内に尾崎の銅像を建設する計画も中止された。大政翼賛会結成、ドイツ、イタリアとの三国同盟を経て東條英機が内閣を組閣すると、尾崎は議会政治に見切りを付け山荘に篭り、もはやあまり上京もしなかった。太平洋戦争開戦後の昭和17年(1942年)に行われた第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には非推薦出馬で当選。昭和18年(1943年)、前年の総選挙の際に田川大吉郎の応援演説で翼賛選挙批判を行った中に引用した川柳の「売家と唐様で書く三代目」が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬罪で起訴される(尾崎不敬事件。一審で懲役8か月・執行猶予2年の判決、1944年(昭和19年)に大審院で無罪確定)。
戦後. |
敗戦後には逗子市の山荘・風雲閣は訪問客に溢れ、宮中にも招かれるとともに新憲法案を自ら構想している。
1945年(昭和20年)11月1日に発行された雑誌『新生』に寄稿。この時の原稿料は1枚100円、コメや肉付きという待遇であった。
尾崎は勲一等旭日大綬章を返上(1946年)して政界引退を決意していたが、三重県を中心とした支持者が中心となって無断で推薦し、1946年の総選挙では全県一区でトップ当選。中選挙区制となった1947年の総選挙でも三重2区からトップ当選を果たした。戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力するが、支持層の高齢化に加えて自身の健康も優れず、終に昭和28年(1953年)のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙)で落選した。これを機に政界からの引退を表明し、衆議院から名誉議員の称号を贈られた。94歳まで衆議院議員を務めたのは日本史上最高齢記録であり、当選25回・議員勤続63年も同じく日本記録である。
昭和29年(1954年)10月6日、直腸がんによる栄養障害と老衰のため入院先の慶應病院で死去。享年97()。墓所は鎌倉の円覚寺。
家族・親族.
旧尾崎行雄邸.
尾崎が英子のために東京市長時代の1907年に麻布に建て、その後知人の英文学者が譲り受けて1933年に世田谷区豪徳寺2丁目に移築した木造2階建ての洋館が現存する。2020年6月にその解体予定が明らかになると、漫画家の山下和美らが「旧尾崎行雄邸保存プロジェクト」を立ち上げ、所有者である住宅会社へ保存請願の署名を提出した。世田谷区による内部の調査などを経て、漫画家の笹生那実・新田たつお夫妻が資金協力を申し出たことで購入に成功。老朽化や内部の傷みが進んでいるため、今後はクラウドファンディングなどで資金を集めて耐震改修工事を施す予定。 |
テンゲン(Tengen Inc.)は、アメリカのコンシューマーゲームメーカー。アメリカのアーケードゲーム会社・アタリゲームズのコンシューマ部門を担当する子会社として1987年に設立された。
アメリカ本社.
アタリゲームズは元々アタリという名前で、アーケード部門とコンシューマ部門の両方を持っていたが、赤字続きのコンシューマ部門をアタリコープとして別の会社に売却し、アーケード専業メーカーアタリゲームズとなった際、一時的にコンシューマから撤退することになっていた。経営を立て直した後、新たにアタリゲームズのコンシューマ部門として設立した子会社がTengenである。
社名の由来は「アタリ」同様、囲碁用語の天元よりとられているが、アタリの創設者であるノーラン・ブッシュネルとは関係がない。
1986年、任天堂がNintendo Entertainment Systemを引っ提げてアメリカ市場に進出すると、テンゲンは直ちに参入を決定。『ガントレット』など、親会社の人気ゲームの移植作を投入しようとした。
しかし製造ロット数などを巡って米国任天堂(Nintendo of America. NOA)との確執が生じ、テンゲンはNESのリバースエンジニアリングを行って、独自にNES用ソフトを販売。実際には特許当局からNESチップのコードを盗用していた。これに対してNOAも契約違反やコード盗用などを挙げての訴訟に踏み切り、『テトリス』の販売権なども絡んで、対立は90年代前半まで続いた。これは結局任天堂に有利な条件で和解する。アタリショックから立ち直ろうとしたアタリゲームズはこれで再度傾き、挙句にはセガがメガドライブ用に準備していた『テトリス』がお蔵入りになるという波紋も呼んだ。
1994年、アタリゲームズの親会社・タイムワーナーの方針で、テンゲンやアタリゲームズといったタイムワーナー傘下のインタラクティブ・メディア部門が「タイムワーナー・インタラクティブ」(TWI)の名称の下に再編され、テンゲンはタイムワーナー・インタラクティブ社となった。
1997年、『モータルコンバット』のミッドウェイゲームズやピンボールの老舗メーカー・バリーを傘下に持つウィリアムス(WMSインダストリーズ)がタイムワーナー・インタラクティブを買収。テンゲンの資産はアタリゲームズの資産とともにミッドウェイゲームズに引き継がれた。
日本法人.
日本において「テンゲン」という場合、Tengen Inc.の日本法人「株式会社テンゲン」(Tengen Ltd.)を指す。ファミコン時代からメガドライブ時代にかけてはTENGEN米国本社が開発した作品の日本語ローカライズ版の他、『ハードドライビン』、『ピットファイター』、『ガントレット』、『マーブルマッドネス』等の移植作品を主に発売していた。メガドライブ版『ガントレット』とメガドライブ版『マーブルマッドネス』は日本法人が直接移植に携わっており、特にメガドライブ版『マーブルマッドネス』においては、先にElectronic Arts社より北米Genesisで発売されていたものよりも、テンゲンが開発した国内メガドライブ版の方が移植度は高く、当時のゲーマーからの評価も高かった。 |
1994年、テンゲン日本法人は社名を「株式会社タイムワーナーインタラクティブ(TWI)」に改めると共にセガサターンとプレイステーションに参入。日本オリジナル作品の制作も開始した(第1作は『TAMA』)。しかし1997年、ウィリアムスがタイムワーナー・インタラクティブ米国本社を買収。同社は「日本に開発拠点を置くメリットがない」としてTWI日本法人を解散した。最終作はアクションゲーム『心霊呪殺師 太郎丸』。開発中だった『レイディアントシルバーガン』はトレジャーが引き継いで完成させた。
日本国内版メガドライブ版『マーブルマッドネス』や、メガドライブ用マルチタップ「セガタップ」の原型となるハード(『ガントレット』で4人プレイを可能とするため、自ら設計しセガに持ち込んだ)などを開発した天内潤は渡米。アタリブランドを引き継いだ米ミッドウェイゲームズで『ガントレット・レジェンド』の開発などに携わった。
テンゲンマニュアル.
テンゲンが日本のゲーマーに注目され始めたのは、日本国内の家庭用ゲーム機市場に参入した1990年の、『ハードドライビン』(メガドライブ)、『クラックス』(PCエンジン)辺りとされているが、発売していたゲームのクオリティもさることながら、当時他社にはあまり見受けられなかったジョークやギャグを織り交ぜた取扱説明書のマニュアル内容も評判を呼んだ。
といった感じの砕けた軽いノリの文章で構成されたものが、日本国内で発売されるテンゲンブランドのソフトのマニュアルでは恒例となっており、特に一時期ほぼ月1本に近いペースでメガドライブ用ソフトを発売していた頃には、マニュアル内に読者のおたよりコーナーまで設けていた。通常こういった取扱説明書というものは、多くは製品の取扱いの説明や注意事項に終始した無味乾燥なものであり、当時の同業他社と比較してもテンゲンのマニュアルは一線を画したものだった。この独特な路線はユーザーからは大きな注目を集め、後にタイムワーナー・インタラクティブ時代になってもこれらの路線は継続された。
その上でテンゲンの移植作品のクオリティはゲーマーを納得させる内容のものが多く、奇抜なマニュアル内容に頼ったウケ狙いなものではなかったことも当時の「メガドライバー」と呼ばれる熱狂的メガドライブユーザーには評価され、『BEEP!メガドライブ』1994年2月号でも特集記事が組まれた。
テンゲンの面白い説明書を執筆した天内潤は、テンゲンに入社する前はもともと「Oh!FM」誌のライターをしながら、誌面と連動した『ぐっちゃんばんく』などのオリジナルソフトを手掛けており、そのセンスが踏襲されている。
翻訳テロップ.
もともとアタリゲームズのアーケードゲームの日本語版は、例えば『ピットファイター』の「Brutality Bonus」を「残虐行為手当」と翻訳するなど、直訳的かつどこか外してる珍妙な翻訳で知られたが、テンゲン日本支社によるコンシューマー版も、それがそのまま踏襲された。「タフすぎてソンはないのですから」(メガドライブ版『ピットファイター』の説明書)など、説明書でもネタにされた。
また、テンゲン米国本社で開発された作品を日本語にローカライズする際も、例えば『ペーパーボーイ』の「YOUR CUSTOMERS」を「きみの おきゃくさんだよ」(ファミコン版)、または「新聞を配る家だ!」(メガドライブ版)と翻訳するなど、ジョークめいた日本語テロップが付けられた。 |
『科学忍者隊ガッチャマン』(かがくにんじゃたいガッチャマン)は、タツノコプロが制作したSFアニメ。世界征服を企む秘密結社ギャラクターと戦う、5人の少年・少女で結成された科学忍者隊の活躍を描いた作品。
複数の派生作品があり、2015年時点で「ガッチャマン(GATCHAMAN)」を冠する映像作品は以下8作品がある。
本項では、テレビアニメ第1作『科学忍者隊ガッチャマン』とそのバリエーション、およびリメイク版であるOVA作品『GATCHAMAN』について扱う。
ストーリー.
国際科学技術庁(ISO)のウラン貯蔵庫が、亀の姿をした巨大な怪獣型ロボ(鉄獣メカ「タートルキング」)に襲撃されウランを強奪される事件が発生した。地球征服を狙う謎の秘密結社「ギャラクター」による犯行だ。
ISO「マントル計画」主任である南部博士は、この危機に対して対ギャラクター用に密かに結成していた特殊部隊「科学忍者隊」を出動させる。忍者隊の活躍で「タートルキング」は破壊され、ギャラクターの目論見は潰えたかに思えたが、それは科学忍者隊とギャラクターとの長きにわたる戦いの序幕に過ぎなかった。
科学忍者隊は次々と新手を繰り出すギャラクターのテロ攻撃に、時には生身で、時には大型戦闘機「ゴッドフェニックス」で立ち向かって行く。
作品解説.
テレビアニメ版は1972年10月1日から1974年9月29日までフジテレビ系で毎週日曜日18時00分から18時30分に全105話が放送された。2年間の平均視聴率は約21%(タツノコプロの保存資料によると平均視聴率17.9%、最高視聴率は第53話の26.5%)。本作品の成功により、『新造人間キャシャーン』『破裏拳ポリマー』『宇宙の騎士テッカマン』といった変身ヒーローによるSFアクション物が続き、タツノコプロの一つの路線を構築した代表作である。人気や知名度の高さからその後、映画版や続編、OVAも制作された。
タツノコプロ企画文芸部の鳥海尽三と陶山智によって企画が練られた。鳥海によると、『忍者部隊月光』『世界少年隊』といった吉田竜夫の漫画は特に意識したわけではないというが、結果的に少年少女によるチームが敵と戦う構成は踏襲することになった。一方、プロデューサーの九里一平は前述の2作をベースにしたとし、「太平洋戦争が舞台の『忍者部隊月光』では夢がないので科学忍者とした」と述べている。吉田竜夫と九里一平のデザインによる斬新なコスチュームと劇画タッチで個性溢れるキャラクター、SF作家小隅黎(柴野拓美)によるSF考証、さらには中村光毅のデザインしたメカニックとそれを演出した本作品が監督デビューになる鳥海永行によるメカ描写が当時としては未来的でリアルな物であったため、その後のSF・ヒーローアニメの方向性に多大な影響を与えている。
当初は巨大メカと戦う低年齢向けのアクション物として開始したが、公害、科学、戦争などの現実的でシリアスなテーマ、肉親の情や過去といったドラマ性、場合によっては主人公らが敗北することすらある展開など、子供向けアニメの枠に収まらないエピソードが人気を呼んだ。視聴率は高く、当初1年間の放送予定が2年に延長され、タツノコプロを代表する作品となった。 |
当時のタツノコプロには実写用カメラが装備されており、実写映像やオプチカル合成のシーンも随所に採用されている。オープニング冒頭に登場する地球は、質感を出すため調理器具のボウルを紙粘土で覆い、その上に海や雲を描いたものを撮影している。発案は撮影の細野正、描いたのは美術設定の中村光毅とされる。。
連続テレビアニメでありながら、1話あたりのセル画枚数は平均5千から6千枚に及び、1万枚を超えた驚異的な回もあった。第1話「ガッチャマン対タートル・キング」は特に秀逸とされ、怪獣映画のスケール感があると評価された。後のオリジナルビデオアニメ版でこの回のリメイクが試みられている。作画面では同じく劇画タッチだった『アニメンタリー 決断』から引き続き、作画監督の宮本貞雄をはじめ、須田正己、湖川友謙、加藤茂らが参加。さらに前番組の『いなかっぺ大将』から二宮常雄らが加わり『決断』での経験も活かされ、リアルタッチの作画でタツノコプロの名を高めた。
また、韓国に発注した回では、画面に気泡が混じったシミが見られることがあった。これは現像液がネガに付着・定着したため。また当時の韓国と日本の電力事情の違いで、日本の国内で見ると画面が薄暗くなり、韓国現像のフィルムは国内で調整しながらプリント出ししていた。
本作品の仮タイトルには「科学忍者隊バードマン」や「科学忍者隊シャドウナイツ」があったが、広告代理店の読売広告社の松山貫之専務による発案により『ガッチャマン』に決定。松山によると、メカが合体するときの「ガッチャン」という擬音から発想したというが、「まるでギャグものだ」とタツノコプロのスタッフ側からは不評であったという。何となくフィーリングでつけたため、「ガッツとマンでガッチャマン」と説明されることもあった。なお作中の設定では、「ガッチャマン」とは、組織の名前ではなく科学忍者隊のリーダーの称号である。正確に呼ぶならば、リーダーの大鷲の健以外の四人は「ガッチャマン」ではなく、単に科学忍者隊の隊員、ということになる。実際、エンディングのキャスト紹介においては、健のみ「ガッチャマン」という役名になっている。敵方の「ギャラクター」は過去のタツノコプロ作品『宇宙エース』に登場するSF作家の広瀬正が名付けた敵キャラクターの名前を再利用したもの。山猫からつけられた「ベルク・カッツェ(独:"Berg-Katze")」などというネーミングともども、インパクトの強さを狙って、スマートすぎない名前にした、との関係者との回想がある。
また、熟慮の上キャスティングされた声優陣も好評で、南部博士役の大平透は、当時タツノコプロ作品では『ハクション大魔王』などギャグアニメの印象が強い声優だったが、本作品ではシリアスな役柄にもかかわらず、あえて起用に踏み切り成功した。ベルク・カッツェのキャラクターは最初から細かく設定されていたわけではなく、カッツェを演じた俳優の寺島幹夫の独特な演技にスタッフが影響を受け、後から肉付けされた部分が多いという。
ガッチャマンはタツノコプロを代表する作品となったが、企画の鳥海尽三は設定について「(後から思うと)あまりにもずさんで荒唐無稽だった」と後悔しており、『小説・科学忍者隊ガッチャマン』(1989年発表)を執筆する動機になった。
主題歌.
両曲とも、作詞 - 竜の子プロ文芸部 / 作曲 - 小林亜星 / 編曲 - ボブ佐久間
放送局.
系列は当時の系列。 |
東宝チャンピオンまつり.
「東宝チャンピオンまつり」では、1973年に2度に渡ってテレビブローアップ版が公開されている。
漫画.
小学館の学習雑誌に連載
終了後の展開と影響.
ドラマ編LP.
1977年10月には、テレビアニメのサウンドトラックから編集したドラマ編LPレコード (CS-7042) が発売された。オープニング・テーマの冒頭に5人の名乗りが入るという趣向で、さらにコンドルのジョー役の佐々木功(歌はささきいさお名義)が作詞・作曲・歌唱した新挿入歌が2曲収録された。
劇場アニメ化.
テレビアニメ版の再放送での人気もあり、『宇宙戦艦ヤマト』に始まるアニメブームに乗って、劇場アニメ版が1978年7月15日より公開。映像はテレビ版を再編集したものだったが、映像面では『宇宙の騎士テッカマン』や『タイムボカン』で使用されたスキャニメイトが新撮部分で使用されたり、音響面では「超立体音響フェニックスサウンド 4ch」を謳い、音楽はすぎやまこういちが新たに担当し、NHK交響楽団が演奏を行った(『交響組曲 科学忍者隊ガッチャマン』を参照)。NHK交響楽団が映画のサウンドトラックを演奏したのはこの時が初めてということで話題を呼んだ。なお、興行上の要請から岡本喜八が名目上の総指揮にクレジットされているが、長年の岡本ファンだった鳥海は岡本に会えるという嬉しさからこの条件を了承したという。
声優の台詞については、小林清志によるナレーションと一部人物の台詞のみ新録音。それ以外のほとんどの台詞はテレビ版の音声テープからの流用と思われる。
物語は総裁Xの地球侵入からベルクカッツェ誕生(新撮影)→タートルキング出現から科学忍者隊の初陣(テレビ版1、2話)→ホントワール国潜入からV2計画(テレビ版1年目終盤)→ジョーの不調からブラックホール作戦(2年目終盤)という構成に絞られていて、テレビ版における戦いの数々や重要エピソードは省略された。OPはテレビ版のOPにガッチャマンの変身バンクや生身の忍者隊の活躍シーンを編集したものになっている。
続編アニメ放送.
続編『科学忍者隊ガッチャマンII』が1978年10月より、さらにその続編の『科学忍者隊ガッチャマンF(ファイター)』が1979年10月より、合計約2年にわたって放送された。
1980年代以降.
1989年にプロ野球球団福岡ダイエーホークス発足に伴い採用された三宅一生デザインのヘルメットが「ガッチャマンヘルメット」の愛称で呼ばれた。
1994年には『新造人間キャシャーン』に続いて、タツノコ作品ファンというアニメーター梅津泰臣により、キャラクターデザインを現代風にアレンジして、オリジナルビデオアニメ (OVA) で3話が製作されている。
2000年秋には、アイドルグループのSMAPがガッチャマンに扮するNTT東日本のテレビCMが放映(CM演出は「下妻物語」などの中島哲也)。それと連動してWebサイトでは、さとうけいいち監督、羽山賢二がキャラクターデザインと作画監督を務めた新解釈によるアニメ版が公開された。なお、SMAPでの配役は、中居正広がケン、木村拓哉がジョー、稲垣吾郎がジュン、草彅剛が甚平、香取慎吾がリュウであった。 |
香港のCGアニメ製作会社Imagi Animation Studiosが日本のオリジナル版を元に全編CGの劇場版アニメ「GATCHAMAN」を製作している。製作予算は4000万ドルで、2009年に全米公開予定。監督と脚本はKevin Munroeが担当する 。しかし、資金難などで制作が遅れに遅れ、2010年5月現在、公開は2011年とされているが、詳細は不明。
株式会社デアゴスティーニ・ジャパンより2008年2月5日から2010年8月31日まで、本作品を含むシリーズ3部作、全205話を毎号3話ずつ収録したDVD付きマガジン「隔週刊 科学忍者隊ガッチャマンDVDコレクション」が全68号で刊行された。
2023年に、同番組を放送していたフジテレビで放送中のドッキリ番組 『芸能人が本気で考えた!ドッキリGP』 にて、このシリーズをベースに奈良県出身でタイ育ちのSnowMan向井康二扮するこのシリーズのドッキリGP版「記憶忍者隊マッサマン」が誕生した。本家はギャラクターと対決するのがメインで、マッサマンは小学生とゲストを相手に記憶力対決で勝負し、負けると罰ゲームを受けるシリーズとなっている。
オープニングテーマ曲は第23話から変更された「子門真人」 の「ガッチャマンの歌」が使われているが、マッサマンでは、Sexy Zoneの菊池風磨による替え歌カバーで、「マッサマンの歌」として使われている。
OVA版.
ガッチャマンの英語表記である『GATCHAMAN』のタイトルで映像化。従来のイメージを残しつつ、メカ、キャラクターデザインを一新している。キャストも総裁X役の田中を除いて一新された。総裁Xの映像にはCGが使われている。
朝日ソノラマのソノラマ文庫から小説版も出版されており、小説版はOVAの初期プロットに基づいて柿沼秀樹が執筆している。挿絵は梅津泰臣。
短編アニメ.
2011年4月18日から2013年3月29日までと、2013年8月19日から8月23日まで、日本テレビ系列で放送されている『ZIP!』のコーナーである「あさアニメ」において、『おはよう忍者隊ガッチャマン』が放送された。
実写映画版.
2007年4月10日にインデックス・ホールディングスと日活から『ヤッターマン』と共に実写映画化が発表され、2009年3月7日に、まずは『ヤッターマン (映画)』が公開された。2012年10月12日には本作品が、「日活100周年×タツノコプロ50周年記念作品」として、2013年8月に公開されることが明らかになり、2013年8月24日に公開された。
ラジオドラマ版.
文化放送の制作により、1978年4月9日から9月3日にかけて毎週日曜日の17時30分から18時00分の時間帯にラジオドラマとして放送された。
キャストと主題歌はテレビ版と同一。ドラマの内容はテレビ版のエピソードを数本ピックアップし、ラジオドラマ台本として再構成・再録音したもの。同時刻に放送されていた笑点のパロディ回や、科学忍者隊VSギャラクターの野球大会。ベルク・カッツェ(寺島幹夫)が主題歌の替え歌を歌う回などもあった。
日本国外での放映.
アメリカ. |
アメリカでは、サンデー・フランクがタツノコプロから権利を取得し、1978年10月から『』というタイトルでシンジケーション販売で各地のテレビ局で放送された。ガッチャマンは宇宙の諸惑星で戦うG Forceという設定になり、暴力描写などのアメリカでは問題がある映像が一部削除されてセブン・ザーク・セブン(アメリカ版オリジナルのロボット)が登場して説明するシーンが追加された。これらの改変は『スター・ウォーズ』の影響があるとされる。その他、独自の要素を盛り込むなどの改変・編集が加えられ、全85話のシリーズとなっている。制作費は500万ドルで当時の子供向け番組としては高額となっている。『Battle of the Planets』はアジアを除いた地域にも輸出されており、サンデー・フランクは多額の利益を得たとされる。1986年になって新たにケーブルテレビチャンネルのターナー・ブロードキャスティング・システムから『G-Force Guardians of Space』のタイトルでも全85話が放映されている。こちらは『Battle of the Planets』よりも原版に忠実であるという。
2005年にADVフィルムから原版に極めて忠実な英語吹き替え版DVDが制作され、1年余りをかけて全105話がリリースされた。こちらは日本語音声も収録された改変なしの完全版で、人物名もオリジナルに忠実だが、鉄獣メカの名前は動物名などの部分が英訳されたものになっている(ナマズラー→キャトフィシュラーなど)。
台湾.
台湾では「科學小飛俠」ke-xue-xiao-fei-xia(ケー・シュエ・シャオ・フェイ・シャア)というタイトルで1977年から始めに数回放送。子供たちの人気モノに、巷ではシールや玩具が爆発的に売れたという。小飛侠とは、ピーター・パンの中国語タイトルでも描かれているような、空を飛びながら戦闘をするイメージで付けられたと考えられる。
主題歌については、日本版原曲をそのままで中国語(北京語)に作詞変更され、児童合唱団が歌っていた。
韓国.
『 (Doksuri Ou-Hyungjae) = イーグル5兄弟 (Eagle-5)』というタイトルで放送された。
過去に『鉄人007』といった盗作アニメが放映された。
2006年にファーストパーソン・シューティングゲーム (FPS) の体裁をとったオンラインゲームのガッチャマンが開発されていることが明らかとなっている。 |
ヤマト王権(ヤマトおうけん)は、古墳時代に「ヒコ(彦)」「ワケ(別)」「オホキミ(大王)」などと呼称された首長もしくは豪族連合によって成立した古代日本の政治および軍事勢力。
大和盆地および河内平野を本拠とし、2世紀〜3世紀頃にかけて瀬戸内海周辺をはじめ、山陰および北九州を含む西日本全域、東海などの地域にまでその勢力を及ぼし、原始的な国家ないし国家連合として鼎立し、纏向遺跡などの計画都市を造営した。4世紀以降では関東・北陸・南九州などをも統合、王権の象徴となる巨大な前方後円墳を築いた。
旧来から一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、戦後、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語などが用いられはじめた。
本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について解説する。呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代以降の大王(天皇)を中心とした日本の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。
ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意である。ヤマト王権から律令国家にかけての国家展開は大王(天皇)と畿内豪族の連合である畿内ブロックによる全国支配であるとする見解もある(畿内政権論)。
なお戦後の一時期、ヤマト王権が王朝交替を繰り返していたという説が盛んに唱えられていたが、その背景には戦前に強調されていた「万世一系」への批判、反発とマルクス主義史学の流行があり、今日ではこうした王朝の交替、非連続性を強調するような論には違和感があるとされている。
名称について.
1970年代前半ごろまでは、日本史上の4世紀ごろから6世紀ごろにかけての時期をさす時代区分名として「大和時代」がひろく用いられていた。また、この時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力のことをさす用語としては「大和朝廷」が一般的だった。
1970年代以降、考古学による発掘調査がすすみ、重要な古墳の発見といった成果が蓄積した。くわえて、考古学的調査において理化学的年代測定や年輪年代測定などの科学的調査法が使われはじめ、またその精度が向上していったことから、古墳の編年研究がいちじるしく発展した。また、考古学的な古墳調査と文献史学(一般的な歴史学)は、提携して調査・研究を行うようになり、その対象は古墳時代の政治組織にも及ぶようになった。こうした成果をうけて、「大和時代」という時代区分名、「大和朝廷」という政権名がかならずしも適切ではないと考えられるようになった。この見解は国内の歴史学会等で有力なものとなり、1980年代以降、時代区分名としては「古墳時代」が、また、政権名としては「大和政権/ヤマト政権」、あるいは(この政権が王権であることを重視する立場からは)「大和王権/ヤマト王権」が普及した。現在では、高等教育以上では時代区分名として「古墳時代」が用いられることが一般的である。 |
ただし、「大和」、「朝廷」という語の使用については学界でも依然としてさまざまな見解が並立しており、「大和朝廷」を用いる研究者も少数ながら存在する。
2020年現在、各種メディアでは「政権」、「王権」、「朝廷」の各表記が混在しており、統一はされていない。
「大和」をめぐって.
「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、「倭(ヤマト)」として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里〈後の郷〉名も)は二文字とすることになって「大倭」となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って「大養徳」と(地名のみならずウジ名も)なったが、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)に「大倭」に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月〈改元前〉に諸兄死去)の後半頃に、「大和」へと変化していく。同年に(仲麻呂の提案により)施行された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある。ただし、武光誠のように3世紀末から「大和」を使用する研究者もいる。
「大和(ヤマト)」はまた、
の広狭三様の意味をもっており、最も狭い3のヤマトこそ、出現期古墳が集中する地域であり、王権の中枢が存在した地と考えられるところから、むしろ、令制大和国(2)をただちに連想する「大和」表記よりも、3を含意することが明白な「ヤマト」の方がより適切ではないかと考えられるようになった。
ヤマトは大和国の中の地名ヤマトに起源がありおそらく山(三輪山)のト(ふもと)の意味であろうとも言われる。また後世、日本全体のことを表す「秋津洲(あきつしま)」「磯城島(しきしま)」「倭」などは元々、大和平原にあった村の名前であったという指摘もある。
白石太一郎はさらに、奈良盆地・京都盆地から大阪平野にかけて、北の淀川水系と南の大和川水系では古墳のあり方が大きく相違していることに着目し、「ヤマト」はむしろ大和川水系の地域、すなわち後代の大和と河内(和泉ふくむ)を合わせた地域である、としている。すなわち、白石によれば、1〜3に加えて、(4)大和川水系(大和と河内)という意味も包括的に扱えるのでカタカナ表記の「ヤマト」を用いるということである。
一方、関和彦は、「大和」表記は8世紀からであり、それ以前は「倭」「大倭」と表記されていたので、4–5世紀の政権を表現するのは「倭王権」「大倭王権」が適切であるが、両者の表記の混乱を防ぐため「ヤマト」表記が妥当だとしている。
一方、上述の武光のように「大和」表記を使用する研究者もいる。 |
武光によれば、古代人は三輪山の麓一帯を「大和(やまと)」と呼び、これは奈良盆地の飛鳥や斑鳩といったほかの地域と区別された呼称で、今日のように奈良県全体を「大和」と呼ぶ用語法は 7世紀にならないと出現しなかったとする。纒向遺跡を大和朝廷発祥の地と考える武光は、纒向一帯を「古代都市『大和』」と呼んでいる。
「朝廷」をめぐって.
「朝廷」の語については、天子が朝政などの政務や朝儀と総称される儀式をおこなう政庁が原義であり、転じて、天子を中心とする官僚組織をともなった中央集権的な政府および政権を意味するところから、君主号として「天子」もしくは「天皇」号が成立せず、また諸官制の整わない状況において「朝廷」の用語を用いるのは不適切であるという指摘がある。たとえば関和彦は、「朝廷」を「天皇の政治の場」と定義し、4世紀・5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し、鬼頭清明もまた、一般向け書物のなかで磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、継体朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として、「大和朝廷」の語は継体天皇以後の6世紀からに限って用いるべきと説明している。
「国家」「政権」「王権」「朝廷」.
関和彦はまた、「天皇の政治の場」である「朝廷」に対し、「王権」は「王の政治的権力」、「政権」は「超歴史的な政治権力」、「国家」は「それらを包括する権力構造全体」と定義している。語の包含関係としては、朝廷⊂王権⊂政権⊂国家という図式を提示しているが、しかし、一部には「朝廷」を「国家」という意味で使用する例があり、混乱もあることを指摘している。
用語「ヤマト王権」について.
古代史学者の山尾幸久は、「ヤマト王権」について、「4,5世紀の近畿中枢地に成立した王の権力組織を指し、『古事記』『日本書紀』の天皇系譜ではほぼ崇神から雄略までに相当すると見られている」と説明している。
山尾はまた別書で「王権」を、「王の臣僚として結集した特権集団の共同組織」が「王への従属者群の支配を分掌し、王を頂点の権威とした種族」の「序列的統合の中心であろうとする権力の組織体」と定義し、それは「古墳時代にはっきり現れた」としている。いっぽう、白石太一郎は、「ヤマトの政治勢力を中心に形成された北と南をのぞく日本列島各地の政治勢力の連合体」「広域の政治連合」を「ヤマト政権」と呼称し、「畿内の首長連合の盟主であり、また日本列島各地の政治勢力の連合体であったヤマト政権の盟主でもあった畿内の王権」を「ヤマト王権」と呼称して、両者を区別している。
また、山尾によれば、
という時代区分をおこなっている。
この用語は、1962年(昭和37年)に石母田正が『岩波講座日本歴史』のなかで使用して以来、古墳時代の政治権力・政治組織の意味で広く使用され、時代区分の概念としても用いられているが、必ずしも厳密に規定されているとはいえず、語の使用についての共通認識があるとはいえない。
分子生物学による男系遺伝子の系統. |
分子生物学の解析によれば、Y染色体ハプログループD-Z1500の変異(一塩基多型)を持つ男性が、辛酉年にあたる紀元1年頃発生している。この変異はその男性の男系子孫に受け継がれ西暦100年頃にD-1504の変異を起こした。さらにD-1504の男系子孫が西暦200年頃にD-CTS8093の変異を起こしたが、この変異を持つ男性の男系子孫は日本列島の各地に拡散しており、現在の日本人男性の約10%を占めている。そのため、とみられている。
「大和朝廷」.
大和朝廷(やまとちょうてい)という用語は、次の3つの意味を持つ。
この用語は、戦前においては1.の意味で用いられてきたが、戦後は単に「大和時代または古墳時代の政権」(2.)の意味で用いられるようになった。しかし、「朝廷」の語の検討や、古墳とくに前方後円墳の考古学的研究の進展により、近年では、3.のような限定的な意味で用いられることが増えている。
現在、1.の意味で「大和朝廷」の語を用いる研究者や著述家には武光誠や高森明勅などがおり、武光は『古事記・日本書紀を知る事典』(1999)のなかで、「大和朝廷の起こり」として神武東征と長髄彦の説話を掲げている。
なお、中国の史料も考慮に入れた総合的な古代史研究、考古資料を基礎においた考古学的研究における話題において「大和朝廷」を用いる場合、「ヤマト(大和)王権」などの諸語と「大和朝廷」の語を、編年上使い分ける場合もある。たとえば、
など。
首長の称号.
ヤマト王権の首長は中華王朝や朝鮮半島諸国など対外的には「倭国王」「倭王」と称し、考古学の成果から5世紀ごろから「治天下大王」(あめのしたしろしめすおおきみ)という国内向けの称号が成立したことが判明しているが、これはこの時期に倭国は中華王朝と異なる別の天下であるという意識が生まれていたことの表れだと評価されている。
ヤマト王権の歴史.
王権の成立.
小国の発生.
弥生時代にあっても、『後漢書』東夷伝に107年の「倭面土国王帥升」の記述があるように、「倭」と称される一定の領域があり、「王」とよばれる君主がいたことがわかる。ただし、その政治組織の詳細は不明であり、『魏志』倭人伝には「今使訳通ずる所三十国」の記載があることから、3世紀にいたるまで小国分立の状態がつづいたとみられる。
また、小国相互の政治的結合が必ずしも強固なものでなかったことは、『後漢書』の「桓霊の間、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし」の記述があることからも明らかであり、考古資料においても、その記述を裏づけるように、周りに深い濠や土塁をめぐらした環濠集落や、稲作に不適な高所に営まれて見張り的な機能を有したと見える高地性集落が造られ、墓に納められた遺体も戦争によって死傷したことの明らかな人骨が数多く出土している。縄文時代にはもっぱら小動物の狩猟の道具として用いられた石鏃も、弥生時代には大型化し、人間を対象とする武器に変容しており、小国間の抗争が激しかったことがうかがえる。 |
墓制の面でみて、最も進んでいたのは山陰地方の出雲地域において作られた四隅突出墳丘墓であって、後の古墳時代の方墳や前方後円墳の原型となったと思われる。九州南部の地下式横穴墓、九州北部における甕棺墓、中国地方における箱式石棺墓、近畿地方や日向(宮崎県)における木棺墓など、それぞれの地域で主流となる墓の形態を持ち、土坑墓の多い東日本では死者の骨を土器につめる再葬墓がみられるなど、きわめて多様な地域色をもつ。方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした方形周溝墓は近畿地方から主として西日本各地に広まり、なかには規模の大きなものも出現する故、各地に有力な首長があらわれたことがうかがえる。弥生時代における地域性はまた、近畿地方の銅鐸、瀬戸内地方の銅剣、九州地方の銅戈(中期)・銅矛(中期-後期)など宝器として用いられる青銅器の種類のちがいにもあらわれている。
邪馬台国と女王卑弥呼政権.
西晋代に著された歴史書である『魏志』東夷伝倭人条によれば、3世紀前半に邪馬台国という名の大国を中心とした倭の国々(ここでいう国とは土塁などで囲われた都市国家的な自治共同体「国邑」のことと思われる)にて、争いを収まらせるため卑弥呼という人物が邪馬台国の「女王」として擁立され、魏に遣使して「親魏倭王」の金印を授与されたことを記している。邪馬台国には、「大人」と「下戸」の身分差や刑罰、租税の制、鉄貨を用いた市場、および中央から派遣された監察官と思われる「一大率」が属国の伊都国に置かれるなど、ある程度の成熟した統治組織を持っていたことが分かる。
『魏志』倭人伝によれば、邪馬台国の東には海を渡ること千余里にてまた倭種の国があり、邪馬台国の西方には会稽がある。邪馬台国の北西には帯方郡、北方には伊都国があると記述されている。また邪馬台国と抗争状態にある国として南方の狗奴国を挙げている。
卑弥呼の死の後は男王が立ったものの内乱状態となり、卑弥呼一族の13歳の少女壱与(臺與と記している史料もある)が王となって再び治まったことが記されている。『日本書紀』の神功皇后紀に引用された『晋起居注』には、266年(泰初(「泰始」の誤り)2年)、倭の女王の使者が西晋の都洛陽に赴いて朝貢したとの記述があり、この女王が臺與ではないかと言われている。なお現存する『晋書』四夷伝と武帝紀では266年の倭人の朝貢は書かれているが、女王という記述は無い。
邪馬台国の所在地については「近畿説」と「九州説」があるが、近畿説に則る場合、3世紀には近畿から北部九州に及ぶ統一的な広域政体がすでに成立していたことになり、九州説に則る場合、北部九州一帯の地方勢力ということになり、日本列島の統一はさらに時代が下ることとなる。
邪馬台国と纏向遺跡.
考古学者の白石太一郎によれば、「邪馬台国を中心とする広域の政治連合は、3世紀中葉の卑弥呼の死による連合秩序の再編や、狗奴国連合との併合に伴う版図の拡大を契機にして大きく革新された政治連合が、3世紀後半以後のヤマト政権にほかならない」としている。 |
奈良盆地南東部の大規模遺跡・纒向遺跡は当時の畿内地方にあった国邑連合の政治・経済の中枢地であったとされている。この遺跡は、飛鳥時代には「大市」があったといわれる三輪山麓に位置し、都市計画の痕跡とされる遺構が認められ、運河などの土木工事もおこなわれており、政治都市として祭祀用具を収めた穴が30余基や祭殿、祭祀用仮設建物を検出し、東海地方から北陸・近畿・阿讃瀬戸内・吉備・出雲ならびにごく少数ながら北部九州の土器が搬入されており、また、広がりの点では国内最大級の環濠集落である唐古・鍵遺跡の約10倍、吉野ヶ里遺跡の約6倍におよぶ7世紀末の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で、多賀城跡の規模を上回る可能性があるとしている。纒向遺跡を邪馬台国の中心集落に比定する説はますます説得力を増している。
纏向遺跡の近辺には纏向古墳群と呼ばれる最初期の前方後円墳群があり、その中には卑弥呼の有力比定候補の一人とされる倭迹迹日百襲姫命の墓と伝わる箸墓古墳がある。同じく纏向古墳群に属する石塚古墳など帆立貝型の独特な古墳(帆立貝型古墳。「纒向型前方後円墳」と称する)も、前方後円墳に先だつ型式の古墳でありながら墳丘長90メートルにおよんで他地域をはるかに凌ぐ規模をもつ。
国立民族学博物館は、炭素年代測定により纏向古墳群の成立時期は3世紀中頃に遡るとし、卑弥呼を宗主とする小国連合(邪馬台国連合)がヤマトを拠点とする「ヤマト政権」ないし「大和王権」につながる可能性が高くなったとしている。炭素年代測定法には50年ないし100年古く推定される誤差があるとする見方もあり、依然として議論が続いている。
白石太一郎によれば、纏向古墳群の古墳は出雲地方の四隅突出型墳丘墓、吉備地方の楯築墳丘墓など各地域の文化を総合的に継承しているとする。吉備などで墳丘の上に立てられていた特殊器台・特殊壺が採り入れられるなど、ヤマト政権の盟友的存在として吉備勢力が重要な位置を占めていた可能性を指摘している。
なお、朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、『魏志倭人伝』にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国と無関係な遺跡であるとする見方も少なからず存在している。
1997年から98年にかけて奈良県天理市黒塚古墳から33面もの三角縁神獣鏡が発掘された。2010年には桜井茶臼山古墳から鏡の破片が81面分(その後の分析で103面以上と判明)が発掘されヤマト中心部からの鏡の出土がほとんどないという説は翻らされた。また奈良県の古墳は宮内庁指定陵墓になっており多くが発掘できていないことも出土例の少ない原因である。
ヤマト王権の成立. |