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喜八 (形勢不利と見て退き、身を以て垣を破り往来へ出る)やい。
<ruby>喜八<rt>きはち</rt></ruby>(<ruby>形勢<rt>けいせい</rt></ruby><ruby>不利<rt>ふり</rt></ruby>と<ruby>見<rt>み</rt></ruby>て<ruby>退<rt>しりぞ</rt></ruby>き、<ruby>身<rt>み</rt></ruby>を<ruby>以<rt>もっ</rt></ruby>て<ruby>垣<rt>かき</rt></ruby>を<ruby>破<rt>やぶ</rt></ruby>り<ruby>往来<rt>おうらい</rt></ruby>へ<ruby>出<rt>で</rt></ruby>る)やい。
きはち (けいせい ふりと みて しりぞき、 みを もって かきを やぶり おーらいえ でる) やい。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
手前達にはまた更めて逢うぞ。
<ruby>手前達<rt>てめえたち</rt></ruby>にはまた<ruby>更<rt>あらた</rt></ruby>めて<ruby>逢<rt>あ</rt></ruby>うぞ。
てめえたちにわ また あらためて あうぞ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
憶えてやがれ。
<ruby>憶<rt>おぼ</rt></ruby>えてやがれ。
おぼえてやがれ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
半次郎 (疲れている、左右から母子が取りつく)
<ruby>半次郎<rt>はんじろう</rt></ruby>(<ruby>疲<rt>つか</rt></ruby>れている、<ruby>左右<rt>さゆう</rt></ruby>から<ruby>母子<rt>ははこ</rt></ruby>が<ruby>取<rt>と</rt></ruby>りつく)
はんじろー (つかれて いる、 さゆーから ははこが とりつく)
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
忠太郎 もう逢う用はねえやい。
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>もう<ruby>逢<rt>あ</rt></ruby>う<ruby>用<rt>よう</rt></ruby>はねえやい。
ちゅーたろー もー あう よーわ ねえやい。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
それ来たッ。
それ<ruby>来<rt>き</rt></ruby>たッ。
それ きたっ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
(七五郎の落した長脇差を投げる)
(<ruby>七五郎<rt>しちごろう</rt></ruby>の<ruby>落<rt>おと</rt></ruby>した<ruby>長脇差<rt>ながわきざし</rt></ruby>を<ruby>投<rt>な</rt></ruby>げる)
(しちごろーの おとした ながわきざしを なげる)
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
喜八 (垣の外で身をかがむ)わッ。
<ruby>喜八<rt>きはち</rt></ruby>(<ruby>垣<rt>かき</rt></ruby>の<ruby>外<rt>そと</rt></ruby>で<ruby>身<rt>み</rt></ruby>をかがむ)わッ。
きはち (かきの そとで みを かがむ) わっ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
(のび上る、刀が突き刺されている。
(のび<ruby>上<rt>あが</rt></ruby>る、<ruby>刀<rt>かたな</rt></ruby>が<ruby>突<rt>つ</rt></ruby>き<ruby>刺<rt>さ</rt></ruby>されている。
(のびあがる。 かたなが つきさされて いる。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
倒れる)
<ruby>倒<rt>たお</rt></ruby>れる)
たおれる)
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
半次郎 哥児。
<ruby>半次郎<rt>はんじろう</rt></ruby><ruby>哥児<rt>あにい</rt></ruby>。
はんじろー あにい。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
ど、どうしてここへ又来たんだ。
ど、どうしてここへ<ruby>又<rt>また</rt></ruby><ruby>来<rt>き</rt></ruby>たんだ。
ど、 どーして ここえ また きたんだ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
半次郎 え。
<ruby>半次郎<rt>はんじろう</rt></ruby>え。
はんじろー え。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
じゃあお前はまだ、江戸へ踏み出してはいなかったのか。
じゃあお<ruby>前<rt>めえ</rt></ruby>はまだ、<ruby>江戸<rt>えど</rt></ruby>へ<ruby>踏<rt>ふ</rt></ruby>み<ruby>出<rt>だ</rt></ruby>してはいなかったのか。
じゃあ おめえわ まだ、 えどえ ふみだしてわ いなかったのか。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
忠太郎 先刻の様子が変なので、もしやと思って気にもかかるし、夜に入っては旅も面倒と、そこにある森の中の、杜を今夜は塒ときめ、夜が明けるのを待つ気でいると、こいつ等が来て相談よ。
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby><ruby>先刻<rt>さっき</rt></ruby>の<ruby>様子<rt>ようす</rt></ruby>が<ruby>変<rt>へん</rt></ruby>なので、もしやと<ruby>思<rt>おも</rt></ruby>って<ruby>気<rt>き</rt></ruby>にもかかるし、<ruby>夜<rt>よる</rt></ruby>に<ruby>入<rt>はい</rt></ruby>っては<ruby>旅<rt>たび</rt></ruby>も<ruby>面倒<rt>めんどう</rt></ruby>と、そこにある<ruby>森<rt>もり</rt></ruby>の<ruby>中<rt>なか</rt></ruby>の、<ruby>杜<rt>やしろ</rt></ruby>を<ruby>今夜<rt>こんや</rt></ruby>は<ruby>塒<rt>ねぐら</rt></ruby>ときめ、<ruby>夜<rt>よ</rt></ruby>が<ruby>明<rt>あ</rt></ruby>けるのを<ruby>待<rt>ま</rt></ruby>つ<ruby>気<rt>き</rt></ruby>でいると、こいつ<ruby>等<rt>ら</rt></ruby>が<ruby>来<rt>き</rt></ruby>て<ruby>相談<rt>そうだん</rt></ruby>よ。
ちゅーたろー さっきの よーすが へんなので、 もしやと おもって きにも かかるし、 よるに はいってわ たびも めんどーと、 そこに ある もりの なかの、 やしろを こんやわ ねぐらと きめ、 よが あけるのを まつ きで いると、 こいつらが きて そーだんよ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
それで俺あ、やって来たんだ。
それで<ruby>俺<rt>おれ</rt></ruby>あ、やって<ruby>来<rt>き</rt></ruby>たんだ。
それで おれあ、 やって きたんだ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
おむら 先程は済みません、ツイ気が立っていて言葉も荒く、悪いことばかりいいましたが。
おむら<ruby>先程<rt>さきほど</rt></ruby>は<ruby>済<rt>す</rt></ruby>みません、ツイ<ruby>気<rt>き</rt></ruby>が<ruby>立<rt>た</rt></ruby>っていて<ruby>言葉<rt>ことば</rt></ruby>も<ruby>荒<rt>あら</rt></ruby>く、<ruby>悪<rt>わる</rt></ruby>いことばかりいいましたが。
おむら さきほどわ すみません、 つい きが たって いて ことばも あらく、 わるい ことばかり いいましたが。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
忠太郎 そう云われると返事に困らあ。
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>そう<ruby>云<rt>い</rt></ruby>われると<ruby>返事<rt>へんじ</rt></ruby>に<ruby>困<rt>こま</rt></ruby>らあ。
ちゅーたろー そー いわれると へんじに こまらあ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
半次、こうなったらここに居たら身が詰る。
<ruby>半次<rt>はんじ</rt></ruby>、こうなったらここに<ruby>居<rt>い</rt></ruby>たら<ruby>身<rt>み</rt></ruby>が<ruby>詰<rt>つま</rt></ruby>る。
はんじ、 こー なったら ここに いたら みが つまる。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
逃げる先がお前あるのか。
<ruby>逃<rt>に</rt></ruby>げる<ruby>先<rt>さき</rt></ruby>がお<ruby>前<rt>めえ</rt></ruby>あるのか。
にげる さきが おめえ あるのか。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
先刻までの俺だったら、一緒にまた高飛びの、股旅かけた草鞋を穿けと、いうところだが左様はいわねえ、お袋さん、何とか法がござんすか。
<ruby>先刻<rt>さっき</rt></ruby>までの<ruby>俺<rt>おれ</rt></ruby>だったら、<ruby>一緒<rt>いっしょ</rt></ruby>にまた<ruby>高飛<rt>たかと</rt></ruby>びの、<ruby>股旅<rt>またたび</rt></ruby>かけた<ruby>草鞋<rt>わらじ</rt></ruby>を<ruby>穿<rt>は</rt></ruby>けと、いうところだが<ruby>左様<rt>そう</rt></ruby>はいわねえ、お<ruby>袋<rt>ふくろ</rt></ruby>さん、<ruby>何<rt>なん</rt></ruby>とか<ruby>法<rt>ほう</rt></ruby>がござんすか。
さっきまでの おれだったら、 いっしょに また たかとびの、 またたび かけた わらじを はけと、 いう ところだが そーわ いわねえ、 おふくろさん、 なんとか ほーが ござんすか。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
常陸の叔父のところへ、今夜の中にも旅立たせます。
<ruby>常陸<rt>ひたち</rt></ruby>の<ruby>叔父<rt>おじ</rt></ruby>のところへ、<ruby>今夜<rt>こんや</rt></ruby>の<ruby>中<rt>うち</rt></ruby>にも<ruby>旅立<rt>たびだ</rt></ruby>たせます。
ひたちの おじの ところえ、 こんやの うちにも たびだたせます。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
忠太郎 その手筈はついているのでござんすか。
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>その<ruby>手筈<rt>てはず</rt></ruby>はついているのでござんすか。
ちゅーたろー その てはずわ ついて いるので ござんすか。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
忠太郎 そう聞けば安心でござんす。
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>そう<ruby>聞<rt>き</rt></ruby>けば<ruby>安心<rt>あんしん</rt></ruby>でござんす。
ちゅーたろー そー きけば あんしんで ござんす。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
半次気をつけて行け、な。
<ruby>半次<rt>はんじ</rt></ruby><ruby>気<rt>き</rt></ruby>をつけて<ruby>行<rt>い</rt></ruby>け、な。
はんじ きを つけて いけ、 な。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
半次郎 哥児。
<ruby>半次郎<rt>はんじろう</rt></ruby><ruby>哥児<rt>あにい</rt></ruby>。
はんじろー あにい。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
俺は叔父の処へ行くからいいが。
<ruby>俺<rt>おれ</rt></ruby>は<ruby>叔父<rt>おじ</rt></ruby>の<ruby>処<rt>ところ</rt></ruby>へ<ruby>行<rt>い</rt></ruby>くからいいが。
おれわ おじの ところえ いくから いいが。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
お前は。
お<ruby>前<rt>めえ</rt></ruby>は。
おめえわ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
忠太郎 俺か――どこへ行くものか、江戸へさ。
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby><ruby>俺<rt>おれ</rt></ruby>か――どこへ<ruby>行<rt>い</rt></ruby>くものか、<ruby>江戸<rt>えど</rt></ruby>へさ。
ちゅーたろー おれか -- どこえ いく ものか、 えどえさ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
半次郎 江戸といってお前、おッかさんの居どころが判ったのか。
<ruby>半次郎<rt>はんじろう</rt></ruby><ruby>江戸<rt>えど</rt></ruby>といってお<ruby>前<rt>めえ</rt></ruby>、おッかさんの<ruby>居<rt>い</rt></ruby>どころが<ruby>判<rt>わか</rt></ruby>ったのか。
はんじろー えどと いって おめえ、 おっかさんの いどころが わかったのか。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
忠太郎 確かじゃねえが、噂で聞いた。
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby><ruby>確<rt>たし</rt></ruby>かじゃねえが、<ruby>噂<rt>うわさ</rt></ruby>で<ruby>聞<rt>き</rt></ruby>いた。
ちゅーたろー たしかじゃ ねえが、 うわさで きいた。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
半次、心配してくれるな。
<ruby>半次<rt>はんじ</rt></ruby>、<ruby>心配<rt>しんぱい</rt></ruby>してくれるな。
はんじ、 しんぱい して くれるな。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
初めて逢う母親が、いると思えば江戸へ行く俺の心は勇んでるぜ。
<ruby>初<rt>はじ</rt></ruby>めて<ruby>逢<rt>あ</rt></ruby>う<ruby>母親<rt>ははおや</rt></ruby>が、いると<ruby>思<rt>おも</rt></ruby>えば<ruby>江戸<rt>えど</rt></ruby>へ<ruby>行<rt>い</rt></ruby>く<ruby>俺<rt>おれ</rt></ruby>の<ruby>心<rt>こころ</rt></ruby>は<ruby>勇<rt>いさ</rt></ruby>んでるぜ。
はじめて あう ははおやが、 いると おもえば えどえ いく おれの こころわ いさんでるぜ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
なあに、途中で飯岡方に出くわしても、親に逢うまでは命は大事だ、たとえ卑怯な真似をしても、邪魔する奴は叩ッ斬るよ。
なあに、<ruby>途中<rt>とちゅう</rt></ruby>で<ruby>飯岡方<rt>いいおかがた</rt></ruby>に<ruby>出<rt>で</rt></ruby>くわしても、<ruby>親<rt>おや</rt></ruby>に<ruby>逢<rt>あ</rt></ruby>うまでは<ruby>命<rt>いのち</rt></ruby>は<ruby>大事<rt>だいじ</rt></ruby>だ、たとえ<ruby>卑怯<rt>ひきょう</rt></ruby>な<ruby>真似<rt>まね</rt></ruby>をしても、<ruby>邪魔<rt>じゃま</rt></ruby>する<ruby>奴<rt>やつ</rt></ruby>は<ruby>叩<rt>たた</rt></ruby>ッ<ruby>斬<rt>き</rt></ruby>るよ。
なあに、 とちゅーで いいおかがたに でくわしても、 おやに あうまでわ いのちわ だいじだ、 たとえ ひきょーな まねを しても、 じゃま する やつわ たたっきるよ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
おぬい 聞けば聞く程、お気の毒な。
おぬい<ruby>聞<rt>き</rt></ruby>けば<ruby>聞<rt>き</rt></ruby>く<ruby>程<rt>ほど</rt></ruby>、お<ruby>気<rt>き</rt></ruby>の<ruby>毒<rt>どく</rt></ruby>な。
おぬい きけば きくほど、 おきのどくな。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
おむら こんなにまで母親を、慕っているのをおッかさんが聞いたら、さぞかしお喜びだろう。
おむらこんなにまで<ruby>母親<rt>ははおや</rt></ruby>を、<ruby>慕<rt>した</rt></ruby>っているのをおッかさんが<ruby>聞<rt>き</rt></ruby>いたら、さぞかしお<ruby>喜<rt>よろこ</rt></ruby>びだろう。
おむら こんなにまで ははおやを、 したって いるのを おっかさんが きいたら、 さぞかし およろこびだろー。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
忠太郎 お袋さん有難うござんす。
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>お<ruby>袋<rt>ふくろ</rt></ruby>さん<ruby>有難<rt>ありがと</rt></ruby>うござんす。
ちゅーたろー おふくろさん ありがとー ござんす。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
そんなにいわれると、親なしッ子の忠太郎は、意気地もなく涙ッぽくなるのが癖でござんす。
そんなにいわれると、<ruby>親<rt>おや</rt></ruby>なしッ<ruby>子<rt>こ</rt></ruby>の<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>は、<ruby>意気地<rt>いくじ</rt></ruby>もなく<ruby>涙<rt>なみだ</rt></ruby>ッぽくなるのが<ruby>癖<rt>くせ</rt></ruby>でござんす。
そんなに いわれると、 おやなしっこの ちゅーたろーわ、 いくじも なく なみだっぽく なるのが くせで ござんす。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
嗤わねえでおくんなさい。
<ruby>嗤<rt>わら</rt></ruby>わねえでおくんなさい。
わらわねえで おくんなさい。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
おむら 失礼ですが忠太郎さん。
おむら<ruby>失礼<rt>しつれい</rt></ruby>ですが<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>さん。
おむら しつれいですが ちゅーたろー さん。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
あなた路用のお金は。
あなた<ruby>路用<rt>ろよう</rt></ruby>のお<ruby>金<rt>かね</rt></ruby>は。
あなた ろよーの おかねわ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
いざとなれば肌につけた、金百両に手を付けます。
いざとなれば<ruby>肌<rt>はだ</rt></ruby>につけた、<ruby>金<rt>きん</rt></ruby>百<ruby>両<rt>りょう</rt></ruby>に<ruby>手<rt>て</rt></ruby>を<ruby>付<rt>つ</rt></ruby>けます。
いざと なれば はだに つけた、 きん 100りょーに てを つけます。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
半次郎 え。
<ruby>半次郎<rt>はんじろう</rt></ruby>え。
はんじろー え。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
哥児、そんな大金を持っていたのか。
<ruby>哥児<rt>あにい</rt></ruby>、そんな<ruby>大金<rt>たいきん</rt></ruby>を<ruby>持<rt>も</rt></ruby>っていたのか。
あにい、 そんな たいきんを もって いたのか。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
知らなかった。
<ruby>知<rt>し</rt></ruby>らなかった。
しらなかった。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
忠太郎 初めて逢う母親がゆたかに暮していればいいが、さもねえ時はと賭博場で目と出た時に貯めた金よ。
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby><ruby>初<rt>はじ</rt></ruby>めて<ruby>逢<rt>あ</rt></ruby>う<ruby>母親<rt>ははおや</rt></ruby>がゆたかに<ruby>暮<rt>くら</rt></ruby>していればいいが、さもねえ<ruby>時<rt>とき</rt></ruby>はと<ruby>賭博場<rt>ばくちば</rt></ruby>で<ruby>目<rt>め</rt></ruby>と<ruby>出<rt>で</rt></ruby>た<ruby>時<rt>とき</rt></ruby>に<ruby>貯<rt>た</rt></ruby>めた<ruby>金<rt>かね</rt></ruby>よ。
ちゅーたろー はじめて あう ははおやが ゆたかに くらして いれば いいが、 さも ねえ ときわと ばくちばで めと でた ときに ためた かねよ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
俺あ行くぜ。
<ruby>俺<rt>おれ</rt></ruby>あ<ruby>行<rt>い</rt></ruby>くぜ。
おれあ いくぜ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
半次、堅気になった姿を、いつか一度|屹と見に行くぜ。
<ruby>半次<rt>はんじ</rt></ruby>、<ruby>堅気<rt>かたぎ</rt></ruby>になった<ruby>姿<rt>すがた</rt></ruby>を、いつか一<ruby>度<rt>ど</rt></ruby><ruby>屹<rt>きっ</rt></ruby>と<ruby>見<rt>み</rt></ruby>に<ruby>行<rt>い</rt></ruby>くぜ。
はんじ、 かたぎに なった すがたを、 いつか 1ど きっと みに いくぜ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
だが、こいつ等をこの儘じゃあ、後の難儀が思いやられる。
だが、こいつ<ruby>等<rt>ら</rt></ruby>をこの<ruby>儘<rt>まま</rt></ruby>じゃあ、<ruby>後<rt>あと</rt></ruby>の<ruby>難儀<rt>なんぎ</rt></ruby>が<ruby>思<rt>おも</rt></ruby>いやられる。
だが、 こいつらを このままじゃあ、 あとの なんぎが おもいやられる。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
おむら いえ、何とでもなりますから、忠太郎さんは今の内に。
おむらいえ、<ruby>何<rt>なん</rt></ruby>とでもなりますから、<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>さんは<ruby>今<rt>いま</rt></ruby>の<ruby>内<rt>うち</rt></ruby>に。
おむら いえ、 なんとでも なりますから、 ちゅーたろー さんわ いまの うちに。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
忠太郎 そうだ。
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>そうだ。
ちゅーたろー そーだ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
この野郎、恰度いい物を持ってやがる。
この<ruby>野郎<rt>やろう</rt></ruby>、<ruby>恰度<rt>ちょうど</rt></ruby>いい<ruby>物<rt>もの</rt></ruby>を<ruby>持<rt>も</rt></ruby>ってやがる。
この やろー、 ちょーど いい ものを もってやがる。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
(七五郎の矢立を取り、懐中紙を披き)半次、お前は俺同様、無筆だったろう。
(<ruby>七五郎<rt>しちごろう</rt></ruby>の<ruby>矢立<rt>やたて</rt></ruby>を<ruby>取<rt>と</rt></ruby>り、<ruby>懐中紙<rt>ふところがみ</rt></ruby>を<ruby>披<rt>ひら</rt></ruby>き)<ruby>半次<rt>はんじ</rt></ruby>、お<ruby>前<rt>めえ</rt></ruby>は<ruby>俺<rt>おれ</rt></ruby><ruby>同様<rt>どうよう</rt></ruby>、<ruby>無筆<rt>むひつ</rt></ruby>だったろう。
(しちごろーの やたてを とり、 ふところがみを ひらき) はんじ、 おめえわ おれ どーよー、 むひつだったろー。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
お袋さん、字を知ってるなら俺の手を取り、いう通りの文句を書かしてはくれませんか。
お<ruby>袋<rt>ふくろ</rt></ruby>さん、<ruby>字<rt>じ</rt></ruby>を<ruby>知<rt>し</rt></ruby>ってるなら<ruby>俺<rt>おれ</rt></ruby>の<ruby>手<rt>て</rt></ruby>を<ruby>取<rt>と</rt></ruby>り、いう<ruby>通<rt>とお</rt></ruby>りの<ruby>文句<rt>もんく</rt></ruby>を<ruby>書<rt>か</rt></ruby>かしてはくれませんか。
おふくろさん、 じを しってるなら おれの てを とり、 いう とおりの もんくを かかしてわ くれませんか。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
おむら おお訳もないこと。
おむらおお<ruby>訳<rt>わけ</rt></ruby>もないこと。
おむら おお わけも ない こと。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
何と書いたらいいのです。
<ruby>何<rt>なん</rt></ruby>と<ruby>書<rt>か</rt></ruby>いたらいいのです。
なんと かいたら いいのです。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
(忠太郎の筆持つ手を取る)
(<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>の<ruby>筆<rt>ふで</rt></ruby><ruby>持<rt>も</rt></ruby>つ<ruby>手<rt>て</rt></ruby>を<ruby>取<rt>と</rt></ruby>る)
(ちゅーたろーの ふで もつ てを とる)
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
忠太郎 一ツ。
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby><ruby>一<rt>ひと</rt></ruby>ツ。
ちゅーたろー ひとつ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
この人間ども、叩ッ斬ったる者は江州阪田の郡番場の生れ忠太郎。
この<ruby>人間<rt>にんげん</rt></ruby>ども、<ruby>叩<rt>たた</rt></ruby>ッ<ruby>斬<rt>き</rt></ruby>ったる<ruby>者<rt>もの</rt></ruby>は<ruby>江州<rt>ごうしゅう</rt></ruby><ruby>阪田<rt>さかた</rt></ruby>の<ruby>郡<rt>こおり</rt></ruby><ruby>番場<rt>ばんば</rt></ruby>の<ruby>生<rt>うま</rt></ruby>れ<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>。
この にんげんども、 たたっきったる ものわ ごーしゅー さかたの こおり ばんばの うまれ ちゅーたろー。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
(繰返していいつつ、書かせて貰い、次第にほろりとなり、落涙する)
(<ruby>繰返<rt>くりかえ</rt></ruby>していいつつ、<ruby>書<rt>か</rt></ruby>かせて<ruby>貰<rt>もら</rt></ruby>い、<ruby>次第<rt>しだい</rt></ruby>にほろりとなり、<ruby>落涙<rt>らくるい</rt></ruby>する)
(くりかえして いいつつ、 かかせて もらい、 しだいに ほろりと なり、 らくるい する)
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
おぬい 忠太郎さん。
おぬい<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>さん。
おぬい ちゅーたろー さん。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
半次郎 哥児に似合わねえ涙をこぼして。
<ruby>半次郎<rt>はんじろう</rt></ruby><ruby>哥児<rt>あにい</rt></ruby>に<ruby>似合<rt>にあ</rt></ruby>わねえ<ruby>涙<rt>なみだ</rt></ruby>をこぼして。
はんじろー あにいに にあわねえ なみだを こぼして。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
おぬい (忠太郎を見入っている)
おぬい(<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>を<ruby>見入<rt>みい</rt></ruby>っている)
おぬい (ちゅーたろーを みいって いる)
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
忠太郎 お袋さん笑ってやっておくんなさんせ。
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>お<ruby>袋<rt>ふくろ</rt></ruby>さん<ruby>笑<rt>わら</rt></ruby>ってやっておくんなさんせ。
ちゅーたろー おふくろさん わらって やって おくんなさんせ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
五つの時に母親と生き別れをした忠太郎は、こうしていると母親に、甘えてでもいる気がするのでござんす。
<ruby>五<rt>いつ</rt></ruby>つの<ruby>時<rt>とき</rt></ruby>に<ruby>母親<rt>ははおや</rt></ruby>と<ruby>生<rt>い</rt></ruby>き<ruby>別<rt>わか</rt></ruby>れをした<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>は、こうしていると<ruby>母親<rt>ははおや</rt></ruby>に、<ruby>甘<rt>あま</rt></ruby>えてでもいる<ruby>気<rt>き</rt></ruby>がするのでござんす。
いつつの ときに ははおやと いきわかれを した ちゅーたろーわ、 こー して いると ははおやに、 あまえてでも いる きが するので ござんす。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
想い出して恋しさに、時々、忠太郎は、この――この面に青髭のある年になっても、餓鬼のように顔も知らねえ女親が恋しい――恋しいのでござんす。
<ruby>想<rt>おも</rt></ruby>い<ruby>出<rt>だ</rt></ruby>して<ruby>恋<rt>こい</rt></ruby>しさに、<ruby>時々<rt>ときどき</rt></ruby>、<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>は、この――この<ruby>面<rt>つら</rt></ruby>に<ruby>青髭<rt>あおひげ</rt></ruby>のある<ruby>年<rt>とし</rt></ruby>になっても、<ruby>餓鬼<rt>がき</rt></ruby>のように<ruby>顔<rt>かお</rt></ruby>も<ruby>知<rt>し</rt></ruby>らねえ<ruby>女親<rt>おんなおや</rt></ruby>が<ruby>恋<rt>こい</rt></ruby>しい――<ruby>恋<rt>こい</rt></ruby>しいのでござんす。
おもいだして こいしさに、 ときどき、 ちゅーたろーわ、 この -- この つらに あおひげの ある としに なっても、 がきのよーに かおも しらねえ おんなおやが こいしい -- こいしいので ござんす。
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おぬい (怺えかねて咽び泣く)
おぬい(<ruby>怺<rt>こら</rt></ruby>えかねて<ruby>咽<rt>むせ</rt></ruby>び<ruby>泣<rt>な</rt></ruby>く)
おぬい (こらえかねて むせびなく)
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忠太郎 (紙片を持って、七五郎の懐中から匕首を抜き取り、それで立木に刺し止めにと起つ)
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>(<ruby>紙片<rt>しへん</rt></ruby>を<ruby>持<rt>も</rt></ruby>って、<ruby>七五郎<rt>しちごろう</rt></ruby>の<ruby>懐中<rt>かいちゅう</rt></ruby>から<ruby>匕首<rt>あいくち</rt></ruby>を<ruby>抜<rt>ぬ</rt></ruby>き<ruby>取<rt>と</rt></ruby>り、それで<ruby>立木<rt>たちき</rt></ruby>に<ruby>刺<rt>さ</rt></ruby>し<ruby>止<rt>と</rt></ruby>めにと<ruby>起<rt>た</rt></ruby>つ)
ちゅーたろー (しへんを もって、 しちごろーの かいちゅーから あいくちを ぬきとり、 それで たちきに さしとめにと たつ)
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
半次郎 (母と妹と別離の顔を見合せる)
<ruby>半次郎<rt>はんじろう</rt></ruby>(<ruby>母<rt>はは</rt></ruby>と<ruby>妹<rt>いもうと</rt></ruby>と<ruby>別離<rt>べつり</rt></ruby>の<ruby>顔<rt>かお</rt></ruby>を<ruby>見合<rt>みあわ</rt></ruby>せる)
はんじろー (ははと いもーとと べつりの かおを みあわせる)
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
第二場 夏の夜の街(引返)
<ruby>第<rt>だい</rt></ruby>二<ruby>場<rt>ば</rt></ruby><ruby>夏<rt>なつ</rt></ruby>の<ruby>夜<rt>よ</rt></ruby>の<ruby>街<rt>まち</rt></ruby>(<ruby>引返<rt>ひきかえし</rt></ruby>)
だい2ば なつの よの まち (ひきかえし)
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
前の場と同じ嘉永元年。
<ruby>前<rt>まえ</rt></ruby>の<ruby>場<rt>ば</rt></ruby>と<ruby>同<rt>おな</rt></ruby>じ<ruby>嘉永<rt>かえい</rt></ruby><ruby>元年<rt>がんねん</rt></ruby>。
≪ まえの ばと おなじ かえい がんねん。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
江戸の、とある町にある杜に近き夏の夜。
<ruby>江戸<rt>えど</rt></ruby>の、とある<ruby>町<rt>まち</rt></ruby>にある<ruby>杜<rt>やしろ</rt></ruby>に<ruby>近<rt>ちか</rt></ruby>き<ruby>夏<rt>なつ</rt></ruby>の<ruby>夜<rt>よ</rt></ruby>。
えどの、 とある まちに ある やしろに ちかき なつの よ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
すべて黒い、ただ一つ灯のはいった常夜燈がある。
すべて<ruby>黒<rt>くろ</rt></ruby>い、ただ<ruby>一<rt>ひと</rt></ruby>つ<ruby>灯<rt>あかり</rt></ruby>のはいった<ruby>常夜燈<rt>じょうやとう</rt></ruby>がある。
すべて くろい、 ただ ひとつ あかりの はいった じょーやとーが ある。
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地面に座って三味線を弾き銭を行人に乞うている老婆がある。
<ruby>地面<rt>じめん</rt></ruby>に<ruby>座<rt>すわ</rt></ruby>って<ruby>三味線<rt>しゃみせん</rt></ruby>を<ruby>弾<rt>ひ</rt></ruby>き<ruby>銭<rt>ぜに</rt></ruby>を<ruby>行人<rt>こうじん</rt></ruby>に<ruby>乞<rt>こ</rt></ruby>うている<ruby>老婆<rt>ろうば</rt></ruby>がある。
じめんに すわって しゃみせんを ひき ぜにを こーじんに こーて いる ろーばが ある。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
カンテラが傍に置かれてある。
カンテラが<ruby>傍<rt>そば</rt></ruby>に<ruby>置<rt>お</rt></ruby>かれてある。
かんてらが そばに おかれて ある。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
酔った職人風の男が蹲踞り、老婆に弾かせて唄っている。
<ruby>酔<rt>よ</rt></ruby>った<ruby>職人風<rt>しょくにんふう</rt></ruby>の<ruby>男<rt>おとこ</rt></ruby>が<ruby>蹲踞<rt>うずくま</rt></ruby>り、<ruby>老婆<rt>ろうば</rt></ruby>に<ruby>弾<rt>ひ</rt></ruby>かせて<ruby>唄<rt>うた</rt></ruby>っている。
よった しょくにんふーの おとこが うずくまり、 ろーばに ひかせて うたって いる。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
番場の忠太郎。
<ruby>番場<rt>ばんば</rt></ruby>の<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>。
ばんばの ちゅーたろー。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
江戸に出て草鞋を脱ぎ、着流しで、少し離れて見ている。
<ruby>江戸<rt>えど</rt></ruby>に<ruby>出<rt>で</rt></ruby>て<ruby>草鞋<rt>わらじ</rt></ruby>を<ruby>脱<rt>ぬ</rt></ruby>ぎ、<ruby>着流<rt>きなが</rt></ruby>しで、<ruby>少<rt>すこ</rt></ruby>し<ruby>離<rt>はな</rt></ruby>れて<ruby>見<rt>み</rt></ruby>ている。
えどに でて わらじを ぬぎ、 きながしで、 すこし はなれて みて いる ≪
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
老婆 (三味線を弾く)
<ruby>老婆<rt>ろうば</rt></ruby>(<ruby>三味線<rt>しゃみせん</rt></ruby>を<ruby>弾<rt>ひ</rt></ruby>く)
ろーば (しゃみせんを ひく)
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
酔漢 (中音で唄っている。
<ruby>酔漢<rt>すいかん</rt></ruby>(<ruby>中音<rt>ちゅうおん</rt></ruby>で<ruby>唄<rt>うた</rt></ruby>っている。
すいかん (ちゅーおんで うたって いる。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
調子づいて声が大きくなる、唄は段物の一部分)馬鹿だね、エヘヘヘヘヘ。
<ruby>調子<rt>ちょうし</rt></ruby>づいて<ruby>声<rt>こえ</rt></ruby>が<ruby>大<rt>おお</rt></ruby>きくなる、<ruby>唄<rt>うた</rt></ruby>は<ruby>段物<rt>だんもの</rt></ruby>の<ruby>一部分<rt>いちぶぶん</rt></ruby>)<ruby>馬鹿<rt>ばか</rt></ruby>だね、エヘヘヘヘヘ。
ちょーしづいて こえが おおきく なる、 うたわ だんものの いちぶぶん) ばかだね、 えへへへへへ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
さ、今度はと、はやり唄だ。
さ、<ruby>今度<rt>こんど</rt></ruby>はと、はやり<ruby>唄<rt>うた</rt></ruby>だ。
さ、 こんどわと、 はやりうただ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
大津絵だよお婆さん。
<ruby>大津絵<rt>おおつえ</rt></ruby>だよお<ruby>婆<rt>ばあ</rt></ruby>さん。
おおつえだよ おばあさん。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
え、さあ弾いたり弾いたり。
え、さあ<ruby>弾<rt>ひ</rt></ruby>いたり<ruby>弾<rt>ひ</rt></ruby>いたり。
え、 さあ ひいたり ひいたり。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
(首を振り夢中になり唄う)これは世間の女房の名寄。
(<ruby>首<rt>くび</rt></ruby>を<ruby>振<rt>ふ</rt></ruby>り<ruby>夢中<rt>むちゅう</rt></ruby>になり<ruby>唄<rt>うた</rt></ruby>う)これは<ruby>世間<rt>せけん</rt></ruby>の<ruby>女房<rt>にょうぼう</rt></ruby>の<ruby>名寄<rt>なよせ</rt></ruby>。
(くびを ふり むちゅーに なり うたう) これわ せけんの にょーぼーの なよせ。
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お后様には政所、北の方には御台様、奥方ご新造ご内室、おかみさんにはお内方、嬶左衛門内の奴(坐り込む)馬鹿だね、あははははは。
お<ruby>后<rt>きさき</rt></ruby><ruby>様<rt>さま</rt></ruby>には<ruby>政所<rt>まんどころ</rt></ruby>、<ruby>北<rt>きた</rt></ruby>の<ruby>方<rt>かた</rt></ruby>には<ruby>御台<rt>みだい</rt></ruby><ruby>様<rt>さま</rt></ruby>、<ruby>奥方<rt>おくがた</rt></ruby>ご<ruby>新造<rt>しんぞ</rt></ruby>ご<ruby>内室<rt>ないしつ</rt></ruby>、おかみさんにはお<ruby>内方<rt>うちかた</rt></ruby>、<ruby>嬶左衛門内<rt>かかあざえもん うち</rt></ruby>の<ruby>奴<rt>やつ</rt></ruby>(<ruby>坐<rt>すわ</rt></ruby>り<ruby>込<rt>こ</rt></ruby>む)<ruby>馬鹿<rt>ばか</rt></ruby>だね、あははははは。
おきさきさまにわ まんどころ、 きたのかたにわ みだいさま、 おくがた ごしんぞ ごないしつ、 おかみさんにわ おうちかた、 かかあざえもん うちの やつ (すわりこむ) ばかだね、 あははははは。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
さ今度は都々逸都々逸。
さ<ruby>今度<rt>こんど</rt></ruby>は<ruby>都々逸<rt>どどいつ</rt></ruby><ruby>都々逸<rt>どどいつ</rt></ruby>。
さ こんどわ どどいつ どどいつ。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
お婆さん頼むぜ、いいかいエヘン。
お<ruby>婆<rt>ばあ</rt></ruby>さん<ruby>頼<rt>たの</rt></ruby>むぜ、いいかいエヘン。
おばあさん たのむぜ、 いいかい えへん。
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船じゃ寒かろ着て行かしゃんせ、わしが着ているこの褞袍。
<ruby>船<rt>ふね</rt></ruby>じゃ<ruby>寒<rt>さむ</rt></ruby>かろ<ruby>着<rt>き</rt></ruby>て<ruby>行<rt>い</rt></ruby>かしゃんせ、わしが<ruby>着<rt>き</rt></ruby>ているこの<ruby>褞袍<rt>どてら</rt></ruby>。
ふねじゃ さむかろ きて いかしゃんせ、 わしが きて いる この どてら。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
ああいい気持ちにやッとなった。
ああいい<ruby>気持<rt>きも</rt></ruby>ちにやッとなった。
ああ いい きもちに やっと なった。
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(帰りかける)
(<ruby>帰<rt>かえ</rt></ruby>りかける)
(かえりかける)
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
老婆 (銭を貰わんと、出した手を、悲しげに引き込める)
<ruby>老婆<rt>ろうば</rt></ruby>(<ruby>銭<rt>ぜに</rt></ruby>を<ruby>貰<rt>もら</rt></ruby>わんと、<ruby>出<rt>だ</rt></ruby>した<ruby>手<rt>て</rt></ruby>を、<ruby>悲<rt>かな</rt></ruby>しげに<ruby>引<rt>ひ</rt></ruby>き<ruby>込<rt>こ</rt></ruby>める)
ろーば (ぜにを もらわんと、 だした てを、 かなしげに ひきこめる)
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忠太郎 (職人の胸倉をとり睨み「銭をやらねえのか」と顔で詰る)
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>(<ruby>職人<rt>しょくにん</rt></ruby>の<ruby>胸倉<rt>むなぐら</rt></ruby>をとり<ruby>睨<rt>にら</rt></ruby>み「<ruby>銭<rt>ぜに</rt></ruby>をやらねえのか」と<ruby>顔<rt>かお</rt></ruby>で<ruby>詰<rt>なじ</rt></ruby>る)
ちゅーたろー (しょくにんの むなぐらを とり にらみ 「ぜにを やらねえのか」と かおで なじる)
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
酔漢 (怖れを抱き、やむを得ず銭を老婆に与え忠太郎を振り返って、孤鼠孤鼠と逃げ去る)
<ruby>酔漢<rt>すいかん</rt></ruby>(<ruby>怖<rt>おそ</rt></ruby>れを<ruby>抱<rt>いだ</rt></ruby>き、やむを<ruby>得<rt>え</rt></ruby>ず<ruby>銭<rt>ぜに</rt></ruby>を<ruby>老婆<rt>ろうば</rt></ruby>に<ruby>与<rt>あた</rt></ruby>え<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>を<ruby>振<rt>ふ</rt></ruby>り<ruby>返<rt>かえ</rt></ruby>って、<ruby>孤鼠孤鼠<rt>こそこそ</rt></ruby>と<ruby>逃<rt>に</rt></ruby>げ<ruby>去<rt>さ</rt></ruby>る)
すいかん (おそれを いだき、 やむを えず ぜにを ろーばに あたえ ちゅーたろーを ふりかえって、 こそこそと にげさる)
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
老婆 (忠太郎に感謝の頭をたどたどしく下げる)
<ruby>老婆<rt>ろうば</rt></ruby>(<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>に<ruby>感謝<rt>かんしゃ</rt></ruby>の<ruby>頭<rt>あたま</rt></ruby>をたどたどしく<ruby>下<rt>さ</rt></ruby>げる)
ろーば (ちゅーたろーに かんしゃの あたまを たどたどしく さげる)
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
忠太郎 お婆さん、そんなにしねえでもいいんだよ。
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby>お<ruby>婆<rt>ばあ</rt></ruby>さん、そんなにしねえでもいいんだよ。
ちゅーたろー おばあさん、 そんなに しねえでも いいんだよ。
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幾つだね。
<ruby>幾<rt>いく</rt></ruby>つだね。
いくつだね。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
年を聞いているんだよ。
<ruby>年<rt>とし</rt></ruby>を<ruby>聞<rt>き</rt></ruby>いているんだよ。
としを きいて いるんだよ。
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老婆 はい。
<ruby>老婆<rt>ろうば</rt></ruby>はい。
ろーば はい。
長谷川伸/瞼の母/mabutano.txt
忠太郎 子供衆はねえのかい。
<ruby>忠太郎<rt>ちゅうたろう</rt></ruby><ruby>子供衆<rt>こどもしゅう</rt></ruby>はねえのかい。
ちゅーたろー こどもしゅーわ ねえのかい。
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